六 斎藤一之章:Farewell 北上転戦
壱 誓約
奥歯を噛み締めて身構えた瞬間、左の頬を殴られた。後ろざまに倒れる。玉砂利が鳴った。襟をつかんで持ち上げられた。
「知ってたってのは、どういう意味だ!」
永倉さんの血走った目が間近にある。オレを焼き殺そうとするかのような視線から逃れられない。オレは白状する。
「知っていたんだ、全部」
言い切らないうちにまた頬を殴られた。つかみ上げられた格好のまま、頭がぐらりとして体の力が抜ける。口の中が切れ、舌に血の味が広がった。時尾が小さく悲鳴を上げた。
永倉さんの固めた拳が視界の隅にある。何度殴られてもいい。殴り殺されてもいい。観念しているのに、よせ、と永倉さんを止める声がした。原田さんが永倉さんの腕をつかんだ。
「よせ、永倉。落ち着けよ。今ここで斎藤を殴っても、状況が引っ繰り返るわけじゃねえ」
永倉さんも原田さんも血の気が多いたちだ。でも、二人して熱くなることはあまりない。どちらかが激高したら、もう片方は冷静になる。よほどのことがない限りはそうやって均衡を取る節があると、いつだったか気が付いた。
そんなふうに、オレはいつも皆を観察していた。
土方さんの手に一枚の紙片がある。白い
広い庭に試衛館の面々と、少し遠巻きになって、新撰組として生き残った主力層。新撰組は今、
近藤さんが土方さんの目配せを受けて口を開いた。
「斎藤、正直に答えろ。俺たちは勝先生の口車にまんまと乗せられたんだな? 俺たちの役回りは、甲府で倒幕派を足止めすることじゃなかった。江戸から離れることと勢力を失うことこそが、勝先生が俺たちに割り振った役回りだった。そういうことだな?」
言葉に無念がにじんでいる。甲州
オレがこの人を追い詰めた。みじめな思いをさせている。
「近藤さんの言うとおりだ。勝先生の目的は、江戸から戦火を避けること。戦う意志の強い者は邪魔でしかなかった」
新撰組は勝先生に切られた。庭の隅で鳩がもたらした手紙を開くと、「狼を捨てる」と書かれていた。呆然とするところを永倉さんに見付かって、手紙を奪われて吊るし上げられている。もっと早くこうしてほしかった。
三月一日、甲陽鎮撫の任に就いたのは、新撰組の生き残り七十人と江戸の部落民二百人だった。二日、日野宿に
雪の残る
甲府盆地にたどり着いたときには、何もかも終わっていたようなものだ。甲府城は土佐藩の
六日、勝沼で倒幕派の軍勢に攻撃された。敵の兵力は三千。
幕府から払い下げられた旧式の大砲は、あっという間に破壊された。銃は、京都で訓練した型とは違った。ろくに飛び道具も使えない中、逃げ出す兵に向けて近藤さんが叫んだ。
「間もなく会津藩が助けに来る! それまで持ち応えろ!」
嘘だった。
近藤さんの嘘も、さほど効果を上げなかった。兵力差がありすぎた。まともに応戦できるはずもなく、甲陽鎮撫の軍勢は壊滅した。
倒幕派が江戸の町を
昨日、慶応四年(一八六八年)三月十四日、それは起こった。勝先生が、秘密裏の独断で成し遂げてしまった。
幕府は江戸城を明け渡す。
勝先生と薩摩の西郷隆盛が、江戸の薩摩藩邸で密談した。大きなことがいくつも決定された。それを伝える手紙が今日の昼、オレに届いた。土方さんが、覚えるほど読んだはずの手紙の内容を、また声に出して確認する。
「江戸城は早急に官軍に明け渡す。両陣営とも、江戸の町で戦闘をおこなわない。慶喜公は江戸を離れて水戸で謹慎する。江戸城には、じきに天皇が入城する。そして、幕府軍の
永倉さんが盛大に舌打ちをして、オレを突き放した。湿った土の上に転がされて、永倉さんを仰ぐ。永倉さんは足を踏み鳴らした。
「斎藤、勝麟太郎の
「見殺し……会津公を?」
「もともと過激派の集まりの官軍とやらが、江戸の無血開城って結末に満足するわけねえ。てめぇは勝に近いぶん、俺らより余計に世の中が見えてんだろうが。すっとぼけてんじゃねぇや。連中がこれからどう動くか、てめぇの頭で判断してその口で言ってみろ!」
視界の端で、ふらりと揺れたものがある。真っ青な顔の時尾がへたり込んだ。すがるような目がオレを見る。オレは、時尾を追い詰める言葉しか知らない。
「倒幕派は、伏見の戦で勢いを得た。薩長土肥だけじゃなく、軍勢は膨れ上がっている。江戸で暴れるつもりだった。でも、勝先生の計略で
言葉にしてようやく、勝先生の本当の恐ろしさを実感した。勝先生は幕府を捨てて倒幕派を取った。新撰組と会津藩を捨てて江戸を取った。そうすれば犠牲が少なくなるからだ。でも、犠牲に選ばれたほうはどうなる?
近藤さんがオレのそばに膝を突いた。オレと同じ高さで、オレの目をじっと見て、近藤さんは言った。
「おまえが何かを背負っていると、ずっと感じていた。暗殺や
「違う」
「何も違わんさ。品川で勝先生がおまえの秘密を明かしたとき、初めて、おまえが勝先生に操られていると勘付いた」
「操られている……」
「俺はそう判断した。甲陽鎮撫の任にも何か裏があるかもしれんとも思った。だが、俺は任を受け、進軍するしかなかった。俺にできるのは、戦うことだけなんだ。勝先生にとって、俺はさぞ使いやすい駒だっただろう」
「知っていた。新撰組が勝先生の駒だと。オレは、ずっと裏切っていた」
「裏切りか? 俺はそうは思わん。おまえが勝先生のためにしたのは、俺たち新撰組を巡る情報を流すことだけだったんだろう?」
「手紙を書いたり、会って話したりした」
「何か工作をしたわけでも、ましてや暗殺をしたわけでもない。俺が命じて局内でやらせた仕事とは違う。おまえは俺たちに害を為しはしなかった」
「でもオレは、自分の意思で、皆を騙して……」
いや、何かが歪んでいる。初めて人を斬ったことに
どうしてこうなったんだろう? こんな結末のために勝先生の狗になったわけじゃない。日本の行く末なんかわからない。オレはただ、新撰組と名を変えた試衛館の仲間がいてくれれば、それでよかった。
近藤さんがオレのほうへ手を伸ばした。びくりと、とっさに震えるオレのために少し待って、近藤さんはオレの肩に手を載せた。オレが子どものころと同じやり方だ。
「勝先生の手紙に、『狼は捨てるが、狗は拾ってもよい』と書いてあった。狗は斎藤のことだろう。おまえはどうしたい? 俺たちと来るか、勝先生のほうへ行くか」
肩の上の手のひらが熱い。
「裏切り者のオレを斬らないのか?」
近藤さんは、にっと歯を見せて笑った。もともと大きな口が、笑顔になるとますます大きい。開けっ広げな笑顔は、目尻のしわが昔よりも深い。
「俺は阿呆だからな、情勢に通じたおまえがいてくれると心強い」
「甲州の情勢を知っていても、言わなかったのに」
「おまえが正直に言ったところで、俺が進軍をやめたと思うか? 俺たちは幕府の刀だ。抜き放たれれば、敵が何者であろうと斬る。おまえが何も言わなかったことは、俺たちに害を為したことにはならない。俺はおまえに来てほしい」
言葉の全部を聞かないうちから、目を上げたままでいられなくなった。誰かが息を呑んで、誰かがうなずいて、誰かがそっぽを向いて、誰かが拳を固めた。そんな気配だけ感じ取った。誰がどんな顔をしているか、見るのが怖い。
「罰せられて当然なのに。見せしめで、ここで斬られても」
「今は一兵も惜しい。斎藤は一兵どころではない力を持っている。それに、新撰組は勝先生に捨てられた。利用する価値がないと判断されたわけだ。今さら振り回される心配もないさ。どうだ、来てくれるか?」
不意に、近藤さんがオレたちの局長である理由を思い出した。先頭を走る人だ。仲間と信じた相手に無防備な背中を預けて、ただ前を向いて走る。
「付いていく。近藤さんに付いていく」
試衛館の門を叩いた日、同じことを言った。
「よし、よく言ってくれた。これからも頼むぞ、斎藤」
近藤さんがオレの頭に大きな手を載せて、ぽんと叩いた。それもあの日と同じだった。
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