漆 無力

 大事なもんは一つでええの

 ぎょうさんあっても守られへんし

 子どものままでおったらええの

 空っぽのまま濁らんといて


 怖がりさんの嘘つきさんや

 ほんまは死にとぉないくせに

 鬼さんこちら 手の鳴るほうへ

 呼んだらあかん 呼んだらあかん


 夢見し季節は ひとひらの花

 ればはかなし 散りて終わりぬ

 刀に映る おぼろの影は

 いつか誰かの 涙にも似て


 花散る季節は ひとひらの夢

 むればむなし 忘れて去りぬ

 水面みなもに映る 月の光は

 曲げぬ士道の 刃にも似て


 少し前からことの音が聞こえて、ぼんやりと目が覚めていた。歌う声を聴くのは初めてだったから、おれはまぶたを上げた。


 障子は半分開いている。庭に面した縁側で、花乃さんが箏を弾いて歌っている。


 箏は、この家の主である年老いた植木屋のおかみさんが、蔵にしまい込んでいたのを花乃さんのために出してくれた。花乃さんはいつも、爪輪を付けずに静かな音で弾く。唄もまるでささやくみたいで、か細い歌声は今にも壊れそうだった。


 それも不意に止んだ。小さな肩がため息をつくのがわかった。おれは思わず言った。


「もっと大きな音や声を出していいんだよ」


 花乃さんが振り返った。


「起こしてしまいました?」

「うん」

「すんまへん」


「心地よい目覚めだったよ。の屯所のころ、昼寝をするたびに、顔に水しぶきをぶつけられて怒鳴られて起こされてたことを思えば、優しい箏の音色はぜいたくだね」

「お掃除の邪魔になる場所でばっかり寝てはった沖田さまが悪いんどす」


 おれは起き上がって、膨れっ面の花乃さんのそばに寄った。


 庭石の上では、ヤミが日向ぼっこをしている。ちょうど突きの間合いだ。腰の刀を抜く真似をして、ありもしない切っ先をヤミへと突き出す。ぐらりと目眩めまいがした。おれは縁側にへたり込む。


「駄目だなあ。今のおれじゃ、猫一匹も斬れやしない」


 ヤミが抗議するように、金色の目でおれを見た。花乃さんからも、袖でぶつふりをされた。去年の今ごろだったら本当にぶたれていたのに、と思う。


 庭に桜が咲いている。最近流行りの淡い色をした桜で、山桜よりも遅く咲くらしい。はらはらと散るさまは、雪が降っているようにも見える。


 今日は何月何日だろう? 近藤さんたちが甲州へってから、今日で何日目?


 花乃さんに問おうとして、やめる。錯乱か健忘か、いずれにしてもまともでなく聞こえる言葉を口にすれば、花乃さんは悲しげな顔をする。そんな顔は見たくない。元気よく怒っているほうが花乃さんらしい。


 ふと、花乃さんが言った。


「江戸の桜も、思ぉとったよりは綺麗どす」

「京都では、庭に桜を植えた寺が多いから、春は見事だったね」

「お花見しましたなぁ。皆はんで飲んでうとぉて、原田さまが踊り出したり、土方さまが俳句を詠まはったり」


「土方さんは何でもできるように見えて、俳句だけは下手なんだよね。見せてもらったことがある?」

「ありまへん。下手なんどすか?」


「とりあえず五七五にしてあるだけで、丸っきり素人のおれから見ても、ひどいよ。例えば『岡にいて 呑むのも今日の 花見かな』ってのがあった。岡場所で酒を飲むってのが花見代わりの今日の楽しみだって意味だと思う」

「何やのん、それ」


 岡場所というのは、潜りの色茶屋が建ち並ぶ界隈のことだ。花乃さんは鼻白んだ顔をした。目が丸くて口がおちょぼだから、無愛想な表情になると、花乃さんは猫に似ている。その顔が見たくて、おれはつい、からかいの言葉を重ねてしまう。


「ほかにもね、『春の草 五色までは 覚えけり』。落とした女の数は五人までなら覚えているって自慢だよ。土方さんの行李の中は、女からの恋文がいつもぎっしり入ってた」


「男の人は阿呆や」

「土方さんが阿呆なんじゃなくて、男全部が阿呆?」

「沖田さまかて、土方さまみたいに女に持てたらええなぁと思ぉてはるでしょ」


 思わない男はほとんどいないんじゃないだろうか。それを言うなら、女だって、たくさんの男に言い寄られたら喜びそうなものだけど。


 花乃さんが猫みたいな不機嫌顔で、じっとおれを見る。頭を撫でたら引っ掻かれるかな、なんて思ったことは、花乃さんには言えない。


「ところで、さっき歌ってたのは何という唄? 京都で流行ってたの?」

「いえ、違います。適当に歌ぉてただけどす」

「花乃さんが自分で作った唄ってこと?」

「あきまへんか?」


「いや、いいと思う。すごいね。そんな特技があったんだ。何で今まで黙ってたの?」

「新撰組とぉてからずっと、お箏やらお唄やらやっとる暇もあらへんかったさかい。どんどん焼けで家も何もかんも焼けて、生きるのに必死やったわ」


 花乃さんは細い指で弦を一本、引っ掻いた。高い音がぴんと鳴る。蒼い環を持つ手は力む様子も見せずに動いて、もう一度、ぴんと澄んだ音を鳴らした。


 おれは手を伸ばして、花乃さんの指のすぐ脇をはじいてみる。くすんだ音が鳴った。二度、三度と試すけど、手の甲の赤い環が悪さをするかのように、おれが鳴らす箏の音は少しも澄まない。


「綺麗な音で弾くには、こつがいるんだね。花乃さんは習ってたの?」

「へえ。花嫁修業や言うて、小さいころから、お箏とお唄を習わされてました。ほかにも、読み書き算盤そろばんにお裁縫、百人一首や源氏物語の暗唱やら、ひととおりやりましたえ」


 花乃さんの白い指が軽やかに躍って、どこかで聞いた旋律を紡ぎ出す。しなやかな動きに目を奪われた。いつもおれの世話を焼く手は、こんなに美しい形をしていたのか。


 触れてみたい。


 その手に触れられたことは、数え切れない。高熱にうなされるたび、ひんやりとして柔らかな手がおれの額に触れる。水や氷の術を使って冷やしてくれながら、病を治す術はついぞ習得できなかったと、花乃さんが悔いるようにつぶやくのを知っている。


 おれは、触れてはならない。


「花乃さん」

「へえ」

「おれが死んだら、京都に帰って、いい人のところに嫁に行きな。今、十九だろ。これ以上行き遅れちゃ、もったいない」


 箏の音はいつの間にか止んでいる。おれは、痛いほどの視線と向き合うことができずに、庭の桜を眺めやった。


「急に、何を言い出さはるの?」


 ささやく声が、壊れそうに揺れている。


 おれは目を閉じた。浅い呼吸が、歪んだ笛のような音を立てて、腐った血の匂いを口の中に連れてくる。口づけひとつできない体になってしまった。


「もしもの話だよ。日本に戦なんか起こらず、京都が平穏な町で、おれが人斬りじゃなくて胸を病んでもいなかったら、おれがただの江戸育ちの剣術馬鹿だったら、花乃さんはおれを好いてくれた?」


 衝動的に問うた。次の瞬間、むなしくなった。どんな答えを聞いたって、どうしようもない。


 おれは目を開けて、花乃さんを見た。花乃さんの張り詰めた表情は美しくて、目の前にいても手が届かないから、おれはただ微笑んでみせた。


「沖田さま、うちは……」

「ごめん、今のは忘れて。単なる気の迷いだよ」


 花乃さんの大きな目に涙がたまった。きらきらと光を映し込むのが綺麗で、見惚れるように見つめてしまう。光をつかまえたままの涙が、頬の丸みを伝って落ちた。


「いけず」


 ぽつりとつぶやいて、花乃さんはうつむいた。


 突然、ばたばたと騒々しい足音が聞こえた。廊下を走る女の足音だ。花乃さんが慌てて涙を拭う。


 程なくしてふすまが音高く開いた。みつ姉が息せき切って部屋に飛び込んできた。


「大変よ、総司! 薩長の軍勢が江戸に来ちまったわ!」

「え? 何の話?」

「薩長軍が江戸に到着しちまったんだってば! 江戸じゅう、その話で持ち切りよ!」


 頭が、みつ姉の言葉を理解することを拒んだ。おれは曖昧に首をかしげた。


「薩長の連中は、まだ江戸より遠い場所で足止めを食らってるんじゃなかった? 新撰組も、甲府であいつらを迎え撃つって」

「でも現に、あいつらはもう江戸にいる。甲州街道も突破されたみたいなの!」


 みつ姉は、金切り声を上げた口を覆って、肩で息をした。おれの体が、すうっと冷たくなって震え出す。


「ねえ、みつ姉、新撰組は? 近藤さんたち、みんな、どこでどうしてるの?」

「今、うちの旦那が情報を集めてる。あたしももういっぺん、調べに行ってくるわ」


 花乃さんが立ち上がった。


「うちも行きます! うちやったら人より速ぉ動けるさかい、おみつさま、つこぉてください。どこまででも行きますわ」

「ありがとう、花乃ちゃん。それなら、土方さんの家がある宿じゅくまで行ってきてちょうだい。日野は甲州街道の入口に当たるから、真っ先に新しい知らせが入るはず」


 おれは、すかさず動き出そうとした花乃さんの袖をつかんだ。花乃さんが振り返る。おれは懇願した。


「待って、おれも行きたい」

「あきまへん」

「ヤミの力を借りれば動ける」


 花乃さんは小さな子どもに言い含めるように、おれの目を見て告げた。


「今はまだ、そのときやあらへんどっしゃろ? 最後の一戦で新撰組のお役に立ちたいんやったら、新撰組の状況や江戸の町の様子がはっきりするまで、沖田さまはここでおとなしゅう待ってはってください」


 おれの手から力が抜ける。軽くなった袖を胸に抱いて、花乃さんはぺこりと頭を下げた。そして、みつ姉と一緒に行ってしまった。


 庭から縁側へ上がってきたヤミが、にゃあと鳴いて、おれの膝に体をすり寄せた。

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