陸 見舞

 馴染みの医者の紹介を受けてせんの植木屋の家に移ってからは、体の弱い隠居老人みたいな生活になってしまった。だんだんと暖かくなるにつれて、虫が土の下から姿を現すように、おれの胸に巣食った病魔も勢いを増していく。


 花乃さんが付きっきりで看病してくれている。年の離れた長姉のみつが、三日に一度は手伝いに来る。


 みつ姉は昔、おれの親代わりだったらしい。おれはよく覚えていない。二親が死んだのも、みつ姉が婿養子を迎えて沖田家を存続させたのも、おれが物心つくより前だ。


 おれの記憶がはっきりするのは、九つで試衛館に住み始めて以降だ。試衛館こそがおれの家だった。


 毎日、新撰組の誰かが必ず顔を出しに来る。見舞いの当番でも組んでいるのかと訊いたら、各々おのおのが手空きのときに好き勝手に足を伸ばしているだけだと言われた。おれがとこを敷いた四畳半で誰かと誰かが鉢合わせて、何だおまえもかと笑い合う場面もある。


 新撰組は上野に拠点を置いて活動しているらしい。確かなことは、誰も教えてくれない。聞いたところで、日中は熱が上がってもうろうとしていることの多いおれには、うまく理解できないのだろうけど。


 障子を開ければ望める庭が、ここ数日で急に花だらけになった。香りがいいと、花乃さんは言う。おれの鼻には、自分の肺腑が発する血臭と腐臭しかわからない。暦も日付も、もう忘れた。


 二月末か三月頭の夕刻、近藤さんと斎藤さんがおれの見舞いに来た。花乃さんはちょうど夕飯のたくの最中だった。おれが布団に体を起こすと、おれの腹の上で丸くなっていたヤミがころりと転げて、迷惑そうな鳴き声を上げた。


「具合はどうだ、総司?」

「羽織と刀を用意してくれたら、すぐにでも一番隊組長として任務に就けるよ」

「強がりを言うな。今はしっかりと養生すべきだろう。現場に復帰するのは、熱が下がって体力が戻ってからでいい」


 おれが長引く風邪でも引いているかのような言い方だ。肺腑から腐った匂いがするほど進んだろうがいが今さら治る見込みのないことは、近藤さんだってわかっているはずなのに。


 話題を変えるように、斎藤さんが、竹の皮の包みをおれのほうに押し出した。


「土産だ」

「え、何これ? 食べ物?」

むこうじまの桜餅」

「ああ、もうそんな季節だったね。これ、けっこう並ばないと買えなかったんじゃない? 斎藤さんが並んでくれたの?」


 斎藤さんはかぶりを振った。


「あいつが買ってきた。甘いものなら沖田さんも食べるだろう、と。怪我は治せても病は治せないと謝っていた」

「あいつって、時尾さんのことか。あのさ、名前くらい呼ぼうよ。本人の前で呼べないならわかるけど、本人がいないところですら名前を口にすることができないって、斎藤さんはどれだけ照れ屋なんだよ?」


 斎藤さんは気まずそうに顔をしかめて、近藤さんは大きな口を開けて声を上げて笑った。


 そういえば、今日は二人ともずいぶんきっちりとした格好をしている。近藤さんは月代さかやきり跡も青々として、家紋の入った新品の羽織まで着ている。


 ひとしきり笑った近藤さんが、その羽織の理由を教えてくれた。


「さっき、勝麟太郎先生に会ってきたんだ。俺たちは明日、甲州に向けて出陣する」

「甲州? 薩長の軍隊と戦うの?」


「そのとおりだ。官軍を名乗るさっちょうの連合軍は、東海道と東山道の二手に分かれて、京都から江戸を目指して進撃している。百五十万の人口を抱える江戸を火の海にするわけにはいかん。俺たちは甲府城で倒幕派の軍勢を待ち伏せして撃退する」


 ああ、と、やるせない息が洩れた。


「何でこんな直前になって知らせるの? おれも行く。支度するから、ちょっと待って」


 次の息を継ぐよりも簡単に、両目から涙が落ちた。唇を引き結ぶ。止まれと念じても涙は止まらず、視界が晴れない。目を閉じてうつむく。暴れ出した呼吸の音と、布団に涙が落ちる音がする。


 近藤さんの大きな手が、おれの頭の上に載せられた。


「おまえを抜きにして話を進めて、すまんな」

「おれが役立たずだから」


「そんなことを言うな。おまえは養生しながら待っていろ。必ず手柄を立てて戻ってくる。おまえは、回復してから合流すればいい」

「嫌だ。今、一緒に行きたい」


「総司がいれば俺たちも心強いが、今回はわがままを言わずにここにいろ」

「人手、足りてないんだろ?」


「ああ。新撰組のうち動ける者は、七十人にまで減ってしまった。新たに募集した者を含めて、総勢二百七十人だ。決して多い人数とは言えないが、ひるんでなどいられない。たがうことなく明日、俺たちはこうようちんの任におもむく」

「そんな……たった二百七十人で?」


 無茶だ。倒幕派が江戸に向けて送った兵力が五千を下らないことは、鳥羽伏見の戦から推測できる。甲府方面の部隊に限っても、二百七十人で迎撃する近藤さんたちの十倍程度いるはずだ。


「総司、『孫子』という中国の兵学書を知っているか? 『孫子』によると、城にって守るならば、味方の五倍、十倍の敵とも渡り合えるそうだ。甲府城は難攻不落の堅城で、山が迫る甲州街道もまた大軍には不利となる。少数精鋭で戦う俺たちにも分はあるのだ」


「それは誰の受け売り?」

「わかっちまうか。勝先生に教えてもらったのだ。勝先生は俺たちの軍備を整えてくれた。五千両の資金と二門の大砲、五百挺の銃だ。刀の猛者も槍の達人もいるし、地の利に明るい地元の郷士と協力する算段も付いている。俺たちは負けんよ」


「近藤さん、それでも無茶だ」

「ああ、そうそう、これから人前では俺を近藤勇と呼ぶんじゃないぞ。新撰組は倒幕派のお尋ね者だ。名を変えるのがいいだろうと、勝先生からの助言でな、俺は大久保剛、トシは内藤隼人と名乗ることになった。斎藤はむろん、山口二郎だ」


 近藤さんは笑ってみせるけど、おれは背筋がざわざわして仕方がない。涙を拭って目を上げる。斎藤さんと視線が絡んだ。何か言いたげに口元を震わせて、でも結局、斎藤さんは顔を背けた。


 不安に蹴飛ばされて、鼓動が速い。この心臓は、次に近藤さんと会うまで、ちゃんと動いているだろうか。


「近藤さん、おれより先に死なないでね」

「縁起でもないことを言うな。俺もおまえも、そう簡単には死なん」

「近藤さんが戻ってきたとき、おれが勝手にくたばってたら、墓参りは来なくていいよ。墓の中に入っちまったらって想像すると、ああいうのは照れくさいよね」

「総司、やめろ」


 怖い顔をして叱られて、おれは笑った。笑いながら、また涙が頬に落ちた。斎藤さんが膝の上で拳を固く握っているのが見えた。

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