参 海路

 船は大坂の港を出て、左手におかの影を見ながら走る。甲板に上がると、木と油の苦いような匂いが遠ざかった。おれは、病んだ胸にできる限りの深い息を吸って吐いた。


「船室で横になっているほうが、具合が悪くなっちまうね。これが潮風の匂いか。軍艦に乗る日が来るとは、思いも寄らなかったな」


 ねえヤミ、と言おうとして、一人で苦笑いする。ヤミは寝台から出てこなかった。猫みたいに敏感な動物は、こもった船室の空気を嫌いそうなものだけれど、ヤミは人間たちよりも平然として、いち早く船上暮らしに慣れてしまった。


 やままるという名のこの軍艦は、四年ほど前にアメリカで造られた。大きな帆船で、乗組員は百人以上、大砲は十二門。見上げれば、三本の帆柱が蒼天を突いてそびえ立っている。


 今日は風向きが悪いのか、帆が張られていない。その代わり、煙突からもくもくと黒い煙が吐き出されている。富士山丸はスクリュー式蒸気船だ。何でも、船の腹の中で石炭を燃やせば、ともに付いた羽が水を掻いて、船が前に進むらしい。


 一月中旬、佐幕派は海路で江戸へ撤退する最中だ。


 新撰組のうち、おれと同じ富士山丸に乗っているのは、すぐには動けない負傷兵ばかりだ。動ける隊士は、永倉さんを筆頭に据えて、商船の順動丸で一足先に江戸へ向かった。品川宿で落ち合うことになっている。


 空を仰いだ目の端に、ふと、白いものが映った。白い鳥だ。はとだ。舞い降りる先を見届ければ、艫に斎藤さんがたたずんでいる。なるほど、あの鳩は、屯所がにあったころから斎藤さんに懐いていたやつか。


 斎藤さんは鳩に向けて手を伸ばした。鳩はその手に止まらず、斎藤さんの肩に降りて頬に顔を寄せる。斎藤さんはやりにくそうに、鳩の脚から手紙をほどいた。ざっと目を通すと、すぐに手紙を小さく千切って潮風に飛ばす。


 おれは斎藤さんに歩み寄った。波の音がするし、足音を立てたわけでもない。でも、斎藤さんは素早く振り返った。


「沖田さんか」

「気付かれちまったね。相変わらず鋭い。さっきのは、誰からの手紙? おれが眠ってばっかりのうちに、いい人でもできたの?」

「違う」

「そうか、斎藤さんのいい人は時尾さんだったね」

「それも違う。だいたい、オレの名は……」


 山口二郎だと、また言い張る気だ。誰もそう呼ばない。今さら変えられるはずもない。


 おれは斎藤さんの隣に立って、とんと胸を突いた。かすかに身を強張らせて、斎藤さんが黙る。人に慣れない獣みたいに誰かに触れられるのを怖がるのは、疲れているときや気を張っているときの斎藤さんの習性だ。


「時尾さん、気を失いそうになるまで力を使って、負傷兵の治療に当たってくれてるよ。負傷兵の数が多いし、傷が深い者もいる。一人で頑張っても追い付かないのに、時尾さんは一所懸命だ」

「昨日は泣いていた。自分の力が及ばなくて、隊士を死なせちまったと」


「そばに付いててあげなよ。泣いてる女をほっぽり出すもんじゃないだろう?」

「あの口やかましいきょうおんなが付いてる」

「時尾さんが弱ってるところに付け込む、不届きなやつがいるかもしれないよ」

「きっとオレなんかより、そいつのほうがましな男だ」


「そういう言い方をしなさんなって。時尾さんにとって、斎藤さんは特別だよ。大坂城に撤退してきたとき、真っ先に時尾さんが駆け寄ったのは斎藤さんだったじゃないか」

「顔見知りだからだ。オレより重傷の者ばかりだったのに」


「斎藤さんも十分にひどい怪我だったと聞いたよ。伏見の奉行所を守ってたとき、弾薬庫の爆発に巻き込まれて爆風で吹っ飛ばされて、左肩をひどく傷めちまったんだろ?」

「無理にだっきゅうを戻したら、腕が上がらなくなった。開戦が急で、金創医術の心得がある者を帯同する間もなかったから、よどの戦いでは利き腕が使えなかった」


 年末の見立てでは、佐幕派と薩長の武力対決が起こるのは避けられないとしても、開戦までにもっと猶予があるとされていた。ところが、徳川よしのぶ公が正月一日に討薩令を出したことで、年明け早々の開戦が決定されてしまった。


 女の時尾さんを戦陣に連れ出すつもりは、誰にもなかった。でも、大坂へ避難させる時宜を逃した。不慣れな京街道を単身で行かせるわけにもいかない。時尾さんは新撰組見習いの少年たちを守りの膜で覆ってやりながら、戦場の隅にいた。


「時尾さんって、優しくて強い人だね。新撰組に守られるばかりなのが悔しかったって。前線で刀を振るうことも、多くの負傷兵を治すこともできずに、いつも先に逃がしてもらった。会津の女なんだから、無力を恥じて自害すべきなのに、それもさせてもらえなかったって」

「だから、幼い見習いを守る仕事を与えたんだ。負傷兵の止血もやらせた。オレまで治療の順番が回らないほど、皆、傷だらけだった。あいつの力でも救えない者が多すぎた」


「もし時尾さんが早めに大坂城に入って近藤さんの治療に当たっていたら、近藤さんは戦場に出られない不甲斐なさに泣かずに済んだ。でも、近藤さんが戦場で指揮したところで、隊士の半分近くをうしなうような敗北をどうにかするのは無理だっただろうな」

「沖田さん」

「おれは事実を言っただけ。とがめられることでもないと思うけど?」


 佐幕派は負けた。圧倒的な大兵力を誇っていたはずなのに、薩長軍の新式の火砲の前に、為すすべもなく負けた。そして今、逃げている。江戸で体勢を立て直そうという作戦に、どこまで勝算があるんだろうか。


 斎藤さんが、肩の上の鳩を飛ばした。おれほどじゃないけど、斎藤さんも前より痩せた。顔付きが少し変わった気がする。しょうひげのせいだろうか。


「斎藤さんがきちんと髭をってないって、珍しいね。爪を綺麗に切りそろえたり、ふんどしは必ず毎日洗って天日に干したり、そういうところは妙にきっちりやってるだろう?」

「船の上で洗濯はできない。真水は貴重だ」

「茶化したのに真顔で返さないでよ。疲れてるんだね、斎藤さんも」


 斎藤さんは眉間にしわを寄せた。ため息交じりにおれに問う。


「沖田さん、体調は? 風に当たっていいのか?」

「風に当たるほうが気分がいいよ。しかし、大きな船ってのは、案外揺れないものだね。おれみたいに初めて船に乗る者は必ず船酔いするっておどされてたけど、おかの上より体が楽なくらいだ」


「富士山丸の臨時の艦長が力を使ってるおかげだ。えのもとたけあきといって、環を成した者らしい。鯨をしろにしたから、海の上では怖いものなしだと言っていた」


「ああ、榎本武揚って名前は知ってる。大坂城でもずいぶん話題になってたからね。戦艦開陽丸の艦長だったのに、船を乗っ取られて大坂に置き去りにされた男だろう?」

「そうだ」


「哀れな役回りだったよね。慶喜公を守るために大坂の港に来て、薩摩の軍艦を追っ払って戦果を挙げた。ところが、ちょっと陸に上がってる隙に慶喜公その人に船を奪われちまうんだから。慶喜公は、何で逃げたんだろうね?」


 斎藤さんはかぶりを振った。わからない、という意味だろう。何かと情勢に明るい斎藤さんも、慶喜公のとんそうは想像もしていなかったに違いない。


 鳥羽と伏見で戦が始まったのが、一月三日。源さんたち多くの戦死者を出したのが、一月五日。佐幕派全軍が大坂まで撤退を強いられたのが、一月六日。


 その六日の夜、慶喜公はかたもり公たち数名の側近を伴って、大坂の港から船出した。夜半、慶喜公たちがいなくなっていることに気付いて、佐幕派は一気に戦意を喪失した。あれから数日経って、今、ようやく佐幕派は気力を立て直しつつある。


 まずは江戸へ。そして、陸路から江戸を目指すであろう薩長の軍勢を、東海道と東山道の両街道で迎え撃つ。


 斎藤さんがおれの顔をじっと見た。


「江戸に戻ったら、沖田さんも戦う気か?」

「当たり前だよ。一戦でいい。これから起こる中でいちばんでかい戦いに繰り出して、戦場で死にたい。この大きな船全体に力を巡らせる榎本さんみたいな人がおかにもいれば、おれもずいぶん動きやすくなるんだけどな」


「会津にならいる。佐川官兵衛という男だ」

「鬼佐川って有名な人だ。あの人も環の力を持っていたのか。今、この船に乗ってるよね?」


「環の気配を感じるのか?」

「斎藤さんもわかるだろ? 榎本さんと佐川さん、花乃さんと時尾さん、おれと斎藤さん。この船に乗ってる環の者は、合わせて六人だ。佐川さんも、榎本さんやおれと同じで、生まれつきじゃなく依り代を立てて環を成した型だね」


 最近、ときどき急に感覚が尖ることがある。ヤミを体の内に入れるときの状態にも似て、見えないはずの遠くのものが見えたり、匂いだけで人の居場所がわかったり、妖の気配に勘付いたりする。環が完成に近付いているせいか、おれが死に近付いているせいか。


 斎藤さんは、どこかが痛むような表情をして、それから顔を伏せた。


「オレは何月もの間、感じなかった。藤堂さんの成しかけの環がわからなかった」


 ざわりと、ほんの少し、背筋に冷たい感触。怒りとも悲しみとも恐れとも違う、めた感情。


 どこか遠くで、おれの身近な人たちの間に惨劇が起こったらしい。そのときおれの体がまともだったら、何かできただろうか。皆と同じく刀を振るうしかできない、このおれに。


「平助を死なせたのは、斎藤さんだったんだってね。妖に堕ちてどうしようもなかったって聞いた。平助はどんな姿だったの?」


 おれの声は冷静だ。胸の内は凪いでいる。


「大きな虎だった。きちんと環を成せば、白虎になるはずだった」

「虎っていうのは、平助らしいね。体は小さくても、肝が据わってて精神が強かったもんな。虎の心を持っていた。その姿、おれも見たかったよ。どんな姿でもいいから、平助に会いたかった。おれより先に平助が死ぬなんて思ってなかった」


 斎藤さんが、うつむいたままつぶやいた。


「すまない」

「謝ることじゃないだろ? 斎藤さんは役目を果たしただけだ。近藤さんや土方さんから命じられた間者の役目と、環を持つ者としての妖狩りの役目」


 おれの言葉が斎藤さんをなぐさめず、傷付けるだけだってことはわかっている。言わずにいられないおれは、とても醜い。


 この感情は嫉妬だ。おれは斎藤さんに嫉妬している。斎藤さんは為したことを後悔して、おれは何も為せなかったから後悔する。後悔と呼べば同じでも、その実態は天と地ほどに違う。


 ふと、波の音に交じって、おれを呼ぶ花乃さんの声が聞こえた。薬の時間だと、ぷりぷりしている。


 おれは斎藤さんの肩を叩いた。びくりとした斎藤さんが、無精髭の顔を上げた。


「薬の時間ってことは、もうすぐ飯時だよ。中に戻ろう。斎藤さんも怪我が治ったばっかりなんだし、体を冷やしちまったらよくない」


 笑ってみせると、斎藤さんはおとなしくうなずいた。


 品川に着くのはニ、三日後になるらしい。それまでに近藤さんたちの怪我は癒えるだろうか。おれの命は、この腐った肺腑に押し潰されてしまわないだろうか。皆は敗戦の失意を乗り越えて、次の戦に臨む心持ちになれるんだろうか。

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