弐 敗走
撤退命令はすでに出されていた。新撰組は倒幕派の猛烈な砲撃に
「焦るな! 立って走っては危険だ。できるだけ体を低く、物陰を伝って撤退するんだ。さあ、早く行け!」
源さんが声を張り上げている。試衛館の仲間で六番隊組長の井上源三郎は、普段は怒鳴ることなんかない。鬼気迫る顔をした源さんに、ここは戦場なんだと改めて実感する。
最近加わったばかりなのか、おれの知らない若い隊士が、源さんの肩をつかんだ。
「
「私は
源さんに背中を押されて、若い隊士が低い体勢で駆け出していく。そこここに死体が転がっている。銃創からあふれた血はまだ乾いていない。源さんは声を張り上げて隊士たちを励ましながら、大砲で応戦する。
おれは夢を見ているらしい。
なまなましい戦場の夢だ。源さんのすぐそばに立っている。源さんは、若い順に隊士を逃がす。その退路を
ねえ、源さんも撤退しなよ。おれは声を掛けてみるけれど、源さんの耳には届かない。源さんの副官が、組長が先に逃げてくださいと懇願する。源さんは首を縦に振らない。
「新撰組は伏見を任され、これを守れなかった。
「ですが、この火勢です! 薩長の銃も大砲も、威力が桁違いだ。ここに留まって応戦していたら、狙い撃ちにされっちまいます!」
「だからこそ、私がここで戦うのだ。剣の弱い私など、とっとと斬り殺されると思っていたのに、四十まで生き永らえている。このあたりで満足しよう。私より若い者は全員、今すぐ撤退しなさい!」
銃声と爆音の
一人、頑として動かない隊士がいる。源さんの目が、その小柄な隊士の上に留まった。
「まだここにいたのか、
ああ、この子は知っている。源さんの甥っ子の、十二歳の泰助だ。源さんに似た、目尻の垂れた優しい顔立ちが、今は涙と埃で汚れている。
泰助が源さんに何か言おうとした。その瞬間、ずん、と銃弾が人の体にのめり込む音がした。源さんが腹を押さえて倒れる。口から血があふれる。残っていた隊士たちが一斉に駆け寄った。
「叔父さん、叔父さん!」
泰助が呼び掛ける。源さんは、まだ息がある。隊士たちが源さんの体を抱えた。皆、砲撃の恐怖なんか吹っ飛んだらしい。源さんの無事だけを願い、源さんの命が消えることだけを恐れている。
新撰組は撤退する。何十人もの犠牲者を出しながらも、土方さんの指揮の下、どうにか再編成して次第に秩序を取り戻す。
隊士たちに担がれた源さんがようやく、土方さんの陣に到着した。血相を変えた土方さんが源さんを抱きかかえる。
源さんのまぶたが動いた。透き通ったまなざしが土方さんを見て、その肩越しに斎藤さんと永倉さんと原田さんを見て、泰助を見た。かすかに唇が動いた。そして、源さんは目を閉じた。試衛館の仲間が、また一人、逝ってしまった。
これは夢だ。目が見えて耳も聞こえるけれど、火薬の匂いも血の匂いもしない。寒さも爆風も炎の熱も感じない。おれはまるで幽霊みたいに、誰にも気付かれることなく、銃弾に撃ち抜かれることもなく、源さんの死を見届けた。
でも、これはきっと夢じゃない。
おれは目を開けた。薄暗い部屋の中だ。ここは大坂。佐幕派の新たな拠点、大坂城。
「総司、目が覚めたか」
近藤さんの声がした。
「源さんが死ぬ夢を見たよ。淀で、腹を撃ち抜かれて」
花乃さんが眉を逆立てた。
「けったいなこと言わんといてください」
「うん、おかしな話だけどね、たぶん、ただの夢じゃないよ。土方さんが先鋒で、源さんが
ヤミが音もなく歩いてきて、おれの布団の中に潜り込んだ。しなやかな毛並みに触れていると、重苦しい呼吸が少しだけ楽になる。
花乃さんは唇を噛むと、近藤さんの包帯をぎゅっと縛った。近藤さんは顔をしかめて、深いため息をついた。
「皆が必死で戦っているときに局長の俺が動けないとは、不甲斐なくてたまらん。正月三日に開戦して、鳥羽でも伏見でも激戦だったと聞くが、正確な情報は大坂に届いてこない。今すぐあいつらのところへ行きたい。俺も戦いたい」
固めようとする拳が、半端な形のまま震えている。利き手の肩をやられて、幸い化膿も骨折もしなかったけど、
高台寺党にやられたことがまた、近藤さんを苦しめている。先に仕掛けたのは新撰組だ。平助や伊東さんたちを殺して、抜き差しならない憎しみの種を蒔いた。薩長の刺客よりも、新撰組の内情に通じた高台寺党のほうが怖い。
高台寺党は薩長の陣営にいるはずだ。伏見や淀の戦場でも、銃を抱えていたかもしれない。源さんを撃ち抜いたのは、かつて仲間だった誰かかもしれない。
「近藤さん、おれも戦いたいよ。みんなが戦ってるってのに、じっとしていられない。みんな大坂に来るんでしょう? ここで体勢を立て直して、反撃に転じる。そのときは、おれも戦うよ」
「しかし、総司、おまえはそんな体で動いたら……」
「構わないよ。どうせ誰もが命懸けなんだ。生きて帰れる保証もないのに突っ込んでいく。おれと大して違わない。そうでしょう?」
近藤さんは目を閉じた。花乃さんはうつむいた。
これは負け戦だということに気付きつつある。眠ってばかりのおれでさえ、切れ切れに耳に入る話から、まずい状況に追い込まれていくのがわかる。戦場にいる新撰組はもっと、嫌というほど痛感しているだろう。
その日、慶応四年(一八六八年)一月五日の夜、大坂城に源さんの訃報が届いた。源さんだけじゃなく、隊士の三分の一が淀で死んだと聞かされた。
淀に布陣した薩長の軍勢は、天皇家の象徴である菊の御紋の旗を掲げて、佐幕派の軍勢を「賊軍」と
賊軍、か。
ぐさりと胸に刺さった。荒くれ者と嫌われても、無学なのを馬鹿にされても、仕方ないと開き直れた。でも、悪だと決め付けられるのは、足下ががらがらと崩れていくような心地だ。絶望、とでも呼べばいいのか。
新撰組は
おれたちは賊軍なんかじゃない。なぜ、どこで、狂いが生じたんだろう? 今、一体何がこの国の正義なんだろう?
わからない。考えても意味がない。戦いたい。何も考えずに、ただ剣を振るいたい。
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