陸 棄道

 勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。


 小部屋には、かんを付けた徳利が二本と盃、さかなが用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。


「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層なとこ上手だって話じゃねえか。長いものを振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」


 頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐あぐらの膝をつかむ手に力が入った。


 勝先生は盃の酒を飲み干した。


「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」


「なぜ、そこまで……」


「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京都でいちばん優秀な間者だが、おまえさんひとりじゃ情報が足りねえ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」


 やはり、と思う。間者だけじゃないだろう。刺客の一人や二人、抱えていてもおかしくない。きっとオレを闇に葬ることだって簡単だ。


 勝先生がそれをしないのは、いぬ一匹、生きようが死のうが関係ないからか。殺す価値もないのか。あるいは、処分せずに生かしておくのは、眺めて楽しむためか。日本を盤に、人間を駒にした将棋を指すのが、この人の楽しみだからか。


 勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。


「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」

「……あんたの前で、刀は抜けない」


 苦しまぎれの言い訳を、勝先生は笑い飛ばした。オレだってわかっている。刀があろうがなかろうが、オレは反射的に牙をくはずなんだ。今のオレには、できない。あまりにも感覚が鈍っている。頭にもやがかかっている。


「そんなに苦しいかい? おまえさんがあんなに大事にしていた剣客の本能を鈍らせてまで、現実から目を背けたいのかい?」

「逃げている?」


「ちっとぁ自覚しろや。鈍ってる上に、目立ちすぎだぜ。乙部を歩きゃ、引く手あまただろう? 今のおまえさんなら、色男で鳴らす土方とも向こうを張れる」

「意味がわからない」


「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気がれなんだよ。剣客や間者のていじゃあねえ。そのまま堕ち続けてみろ。隙だらけの背中から刺されて死ぬぞ」


 勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々とうとうと語り出した。


「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」


 盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。


「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」


 喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。


 情けない。こんなていたらくじゃ、オレが生きている意味がない。


 勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるでだ。


「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」


 どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?


 それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。


「いつやるんだ?」


 決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。


「今年じゅうには」


 言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。


 徳利をあおる。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。


「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」


 酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。


「斎藤一の名は近々変える」


 高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。

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