伍 再会

 長々と尾を引く夏が終わった。途端に寒くなった。冬十月、とんでもないことが起こった。


「徳川家が朝廷に政権を返還した」


 伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。


 藤堂さんが目をしばたかせた。


「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」


 皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。


「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」


「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」


「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」


 世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。


 これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたりゆうぜいをしたりして、自分の味方を増やしている。


 そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。


 昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。


 伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。


 高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。


 一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。


 全員が集まった部屋は熱気がこもって息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。


 門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。


「何をしてる?」


 女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。


「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」


 凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。


「と……」


 時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。


 そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。


「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」

「さすけねえ」


 反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。


「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟のらくさいという人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛めげごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」

「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」


「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」

「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」


「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きです。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」

「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」


「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでらるから、おっかなくねぇです」


 のんなことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。


「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」

「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」

「妖の匂い?」

「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」


 どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭にもやがかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。


 オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。


「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、くろだにこんかいこうみょうにいたのか?」

「はい。お殿さまの環の具合あんべは、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」


 容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。


「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」


「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」


「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」

「だけんじょ、斎藤さま……」

「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」


 びしりと言葉を打ち切ったら、時尾はたもとから紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。


「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白いはとは夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」


 勝先生だ。


 雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた?


 オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。


 ――乙部の馴染みの店。


 土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?


「斎藤さま? じょしたがよ? 顔色が……」

「何でもない。オレは出掛ける」


 時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。


「斎藤さま、待ってくなんしょ!」


 追いすがってきた時尾は駆け足だ。オレは黙って足を動かす。時尾は離れず付いてくる。東大路を北上する。


 祇園の入口で、オレは立ち止まった。時尾を見下ろす。


「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」


 時尾は、はっとした顔で、あたりを見回した。時尾を照らす外灯が異様に明るい。紅ひとつ差していない時尾を、化粧の濃い玄人くろうと女が横目に見ながら過ぎていく。


「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」

「さっさと帰れ。女にはわからない」

「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」


 時尾は深々と頭を下げてきびすを返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。


 唐突に。


「後ろががら空きだぜ」


 硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに勝先生が立っている。勝先生は笑った。


「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」

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