肆 堕落
武田観柳斎だ。とろりと酔った目がオレを認める。顔に驚愕が走り抜ける。
その瞬間、終わらせた。心臓を一突き。左手に、ひくひくと、か弱い振動を感じる。それもすぐに止まる。
刀を引き抜くと、血が噴き出した。跳びのいて、返り血を
血糊を拭って、刀を鞘に収めた。蒸し暑い夜だ。川面には風もない。
ふと、足音が聞こえた。柳の枝越しに、明かりを手にした人影が見える。逃げるか斬るか。思案するオレに、人影が声を放った。
「俺だ、永倉だ」
柳が揺れて、永倉さんが現れた。腰に刀を差してはいるが、気軽な着流し姿だ。永倉さんは死体のそばにしゃがんで、首筋に手を当てた。うなずいたのは、ちゃんと死んでいるという意味だ。
永倉さんは立ち上がって、オレに笑い掛けた。
「刀の柄から手を離せよ。人を殺した後は、さすがのおまえも気が立っちまうってか」
「……誰にも見られていないはずだ。声も上げさせなかった」
「ああ、ご苦労。俺も一応、刀を抜く心づもりだったんだが、必要なかったな。死体のほうは、これから応援を呼んで持って帰る。斎藤はその前に行け。それにしても、相変わらずいい腕だ」
「試合では、俺より永倉さんが強い」
「実戦でいちばん強いのは斎藤だろうよ。神道無念流の俺は、力任せの一撃必殺で打ち込むのが流儀だ。わかりやすいことこの上ねえ。それに比べて、斎藤が左手で戦うときの剣は、謎めいて静かで不気味だ。敵に手の内を明かすことなく、確実に
本来、たとえ左利きでも、右手で剣を振るうのが武士の流儀だ。オレが試衛館に通うことになったのは、無礼な左手の剣をやめさせたいと父が望んだからだった。
オレは試衛館で、右手で使う儀礼の剣を教わった。でも、左手の剣も捨てなかった。
同い年の強敵がいた。天然理心流の沖田さんと、
いや、沖田さんと藤堂さんに勝ちたくて工夫したのは、もう昔の話だ。勝先生に見出されたときから、左右の剣を使い分けるのは人を
「謎めいている、か」
オレは幾重にも隠し事をしている。自分を取り巻くすべての人を裏切っている。藤堂さんや伊東さんの仲間のふりをする。土方さんたちの前では新撰組に忠実なふりをする。その実、勝先生に使われる
だからオレの剣は不気味なんだろう。二重三重の嘘がいくつもの虚像を生み出して、相対する者を惑わす。皮肉だ。嘘だらけの汚い人間だからこそ、オレは強い。
左手に視線を落とす。手の甲の蒼い環。節の目立つ指。青く浮き出した血管。人差し指と親指の間の、右利きの居合で付いた傷痕。皮の硬い手のひら。刺し貫いた心臓が止まる瞬間の、繊細な感触の記憶。
斎藤、と呼ばれた。顔を上げる。永倉さんは、表情豊かな眉を、ぎゅっとしかめた。
「なあ、斎藤よ。
「急に何を?」
「おまえの気性は一本気だ。なのに、妙な方向に能力を発揮するもんだから、表と裏の顔なんぞ使い分ける羽目になる。似合ってねぇよ。あまり無理をするな」
「無理はしていない。もう慣れた」
「嘘をつくな。俺は、おまえが餓鬼のころからずっと見てきた。一の名が似合うおまえのままでいてほしいんだよ。新撰組の闇を背負うのは、おまえらしくねえ。総司や平助とやり合ってたころのおまえは、おとなしいくせに気が強くて正直だった」
今さら言われても、どうにもならない。オレは丸っきり変わった。あのころには戻れない。
「一本気の一の名が似合わないなら捨てる。捨てて、二郎とでも名乗るさ。二心ありの二郎、と」
本当はもうとっくに、二郎と名乗るべきだ。吐き気がする。オレは永倉さんに背を向けた。
「斎藤、やっぱり疲れてるんじゃないのか? なあ、もう帰ってこい。高台寺党のことはどうにでもなる。おまえは嘘を重ねなくていい。土方さんも、おまえに酷なことをさせてるってのはわかってる。斎藤、帰ってこい」
永倉さんは、泣き出しそうなくらい顔をしかめているだろう。見なくてもわかる。情に厚い人だ。子どものころ、オレの父が怪我をしたときも母が病にかかったときも、心配して泣いてくれた。味方がいるんだと、オレは嬉しかった。
なあ、永倉さん。オレはやっぱり変わっちまった。今、オレはあんたに
「高台寺に戻る。怪しまれるわけにはいかない。土方さんたちによろしく」
それだけ言い残して、駆け出す。でも、高台寺に戻る気分でもない。自分がどんな顔をしているか、察しが付く。人斬りの顔になっている。体から血の匂いもする。勘のいい藤堂さんには、きっと気付かれる。どこで何をしてきたのかと問われる。
闇雲に走る脚が、いつしか祇園乙部に迷い込んでいた。場末の花街は異様な匂いがする。どぶ川と安い酒と魚油と、幾種もの人の体液の匂い。雑踏のにぎわいに交じって、唄と楽器の音が聞こえる。かすかに、嬌声も聞こえる。
息が切れている。吐き気がする。汚らしい場所だ。でも、導かれるようにここに来た。何かがほしい。とりあえず酒でいい。オレはひどく渇いている。
「お侍はん、ちょっと休んでいかはりまへん?」
いきなり、袖に手を掛けられた。すんでのところで
「あら、ええ男やないの。負けたるさかい、寄っていきよし。うちと、ええことしぃひん?」
狭い路地で、すぐ後ろに板塀がある。女はオレに近付いてきた。刀を差した男を相手に、あまりに遠慮がない。
「小さい店やけど、ええお酒も置いとるんえ。今夜は
女が笑う。甘ったるい
「何やのん、えらい
つかまれた手を、振りほどけなかった。オレの手は、女の胸元に導かれた。しどけなく開いた襟の間から、じかに肌に触れる。柔らかい膨らみを押し当てられる。
ぐしゃりと音を立てて、壊れた。オレの中にあった、なけなしの誇りのようなものが粉々になった。
「うちがあんたを気持ちよぉしたげるわ。何もかも忘れさせたる。なあ、うちのこと
オレはうなずいた。
色茶屋の狭い部屋に上がった。女がいそいそとオレの帯を解いた。前をはだけて、
うるさい。
口を吸われる。酒の匂いがする。ねっとりした舌に、また吐き気がした。オレは女を突き放す。仰向けに転がった女が、わざとらしく脚を開く。着物の
うるさい。
右手で女の口をふさぐ。これから殺すみたいだと、ちらりと思った。女の目が
醜い。殺したい。人が人に見えない。命をひねり潰すのも女を凌辱するのも同じだ。暴力の衝動に、オレという人間が真っ先に壊される。
欲望が痛いほど張り詰めている。オレは何をやっているんだ? 何のためにこんなことをしているんだ? 苦しい。まともでいたら苦しいから、火を放つ。頭の中が燃えて、真っ白になる。
もういい。
もう、どうでもいい。
楽しくも気持ちよくもない。ただ没頭した。浅ましく暴れる間、何も考えなかった。その
店の名も女の顔も覚えなかった。武田観柳斎を斬って色茶屋に迷い込んだその夜以来、祇園通いがやめられなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます