漆 離脱

 高台寺党は、日に日に気運を高めていく。伊東さんは出ずっぱりで、武家や公家、おおだなの商家や由緒ある仏閣の住職、大名から学者まで、誰とでも会って話す。


 伊東さんを護衛する当番が組まれた。オレの出番がいちばん多い。その理由を、伊東さんは無邪気に語った。


「斎藤くんの腕を信用しているのだよ。あなたの左手の剣は、無敵の剣だ。無駄がなくて美しい。私はその太刀筋に憧れているのだよ。私はこのとおり、持って回った話し方をしてしまうだろう? 本当は斎藤くんの剣のように簡潔でありたいのだがね」


「伊東さんに誉めてもらうような、上等なものじゃない」

「斎藤くんは謙遜が過ぎる。その剣の端正さも、物を見る目の鋭さも、もっと胸を張ってよい特別な能力だ」


 伊東さんは善良すぎる。屈託のない言葉を掛けられるたびに、オレの中がらんどうになっていく。いちいち何かを感じてもいられない。オレは任務をこなすだけだ。祇園に足を運ぶことはやめた。くたびれることはしない。


 十日ほど、そんな時間が過ぎた。夕刻、珍しくオレは留守役だった。藤堂さんは風邪気味だと言って、の奥で休んでいる。雑炊を持っていったら、案外ぴんぴんしていた。


「ありがとな、斎藤。早く起きられるようになって伊東さんの役に立たなけりゃ、示しが付かねぇよな。本当に忙しくなるのはこれからだ。斎藤も、休めるときには休んでおけよ」


 目の大きな、年より若く見える笑顔だ。額に白い傷痕がある。このごろ怪我をしたという右腕に、さらし木綿を巻いている。


 後ろめたくて、目を背けたい。二度と見られなくなるから、目に焼き付けたい。笑顔に応えて笑ってみせたい。オレは藤堂さんのようにうまく笑えない。


「お大事に」


 それだけ言って立ち上がった。庫裏を出ながら、自分をののしる。何が「お大事に」だ。これからオレは月真院を離れる。子どものころからの友を裏切って、死に追いやる。そのくせ体を気遣うふりなんかしやがって。


 荷物を持たず刀を差すだけの格好で、オレは門のほうへ歩く。冷たい夜だ。月が冴え冴えと明るい。


 門のそば、月光の中に人影があった。オレはびくりと足を止めた。


「斎藤さま」


 時尾だ。ささやくような声音でさえ、虫の音ひとつしない冬の庭には響いてしまう。オレは素早く時尾に近付いた。


「何の用だ?」


 問いながら、肩を押して門の外に連れ出す。眉尻を下げた時尾が、間近にオレを見上げた。


「お殿さまから言い付かったなし。お殿さまはこのごろ具合あんべが優れず、夢見もよくねぇのです。新撰組や高台寺党が夢に出てきて、中身は覚えていねぇけんじょ悪い予感がする、と。それに、やっぱりこのあたりは妖の匂いが強ぇ気がすっから、わたし……」


 オレは時尾の腕をつかんだ。折れそうに細い。引っ張って歩き出す。時尾がつんのめりながら足を交わす。


「さ、斎藤さま? じょしたがよ?」

「いいから来い」

「だけんじょ、高台寺党のそばに妖の気配があって、このままでは環を持たねぇ人たちが危険です」

「オレは戻れない」

「なぜですか? 斎藤さまは、伊東さまたちのお仲間だべし」

「違う」


 オレは立ち止まった。暗がりの袋小路だ。腕をつかんだまま、時尾を見下ろす。この女を生きて帰すのは危うい。斬るか。ここで、誰にも目撃されないうちに。


 時尾がまっすぐな目をオレに向けた。


「何があったのがよ? わたしでよければ、お聞かせくなんしょ。斎藤さまのお力になりてぇと思います」


 ならば、今すぐ死ね。


 刀を抜くのは簡単だ。いや、女の喉を掻き切るだけなら、脇差で十分だ。


「オレは間者だ。高台寺党を探って、裏切って、新撰組に戻る」


 なぜ打ち明ける? なぜ斬らない? そして、時尾はなぜオレから逃げようとしない? なぜ目をそらすことすらしない?


「斎藤さま、つれぇお役目だべし。だから、この間から、斎藤さまはそだに苦しそうな目をしておられんだ。わたし、何も察することもできねぇで、馬鹿だなし。お許しくなんしょ」


 なぜ心配する? なぜ謝る?


 力を緩めることができずに、手が震えた。時尾が顔をしかめる。オレの手が痛いのだと、頭の隅では理解している。でも体が、思うように動かない。


「来い。屯所に連行する」


 時尾は黙ってうなずいた。


 東山の坂を下りて、東大路を横切る。路地を突っ切って、鴨川のほとりに出る。松原通の橋を渡って、まっすぐに進む。より手前、堀川通を南下する。しおこう堀川にある不動堂村の新撰組屯所まで、おおよそ半刻、時尾の腕を引いたまま歩いた。


 一人で駆け抜けるべき道だった。顔を上げては進めないはずだった。寒い夜道に、月明かりひとつほしくなかった。


 それなのに、オレの手に伝わる時尾のぬくもりが、あまりに柔らかい。言葉は交わさない。けれど、一人ではない。


 なぜ?


 自分に問い続けながら、唇を噛む。皮膚はとっくにずたずただ。舌先に血の味がする。痛みは今さら感じない。


 新撰組の屯所は、壬生から西本願寺へ、さらに不動堂村へと移っている。最後の移転は今年の六月だった。オレが不動堂村の屯所に足を踏み入れるのは初めてだ。門衛のすいに答えるうちに、土方さんが門から出てきた。


「戻ったか、斎藤。ご苦労だった。すぐに中へ……」


 土方さんの視線が、オレの半歩後ろにいる時尾へと動いた。どういうことだと、土方さんの目がオレに問う。時尾が何か言いかけた。オレは少し声を張った。


「会津公が遣わした戦力だ」

「どういうことだ? いや、確かこの娘、環を持つ者だったな。新撰組の行く手に、また環の力を操る者が現れるという意味か?」


 わからない。答えられない。間者として動くオレの姿を目撃されたから連れてきたと言えば、時尾は斬られる。とっさにかばった意味がわからない。女だから斬りたくないのか。


 時尾の扱いは、近藤さんが決めた。


「おまえは時尾といったか」

「はい。高木時尾と申します」

「女の身でありながら、ご苦労だったな。今日はもう遅い。会津公からの客人に対して申し訳ないが、住み込みの女たちの小屋で休んでもらえるか? 何せ、荒くれ者ばかりの大所帯だ。女は女で一っ所にいてくれないと、身を守ってやれん」


「ありがとうこぜぇます。もしわたしにできることがあったら、おっしゃってくなんしょ。傷を治すこと、妖の気配を探ること、料理や裁縫や掃除でも、皆さまのために働きますので」

「感謝する。今夜のところは、とりあえず休んでくれ。我々は話し合いが長引くかもしれん」


 時尾に話を聞かせるつもりはないと、近藤さんは言外に告げた。時尾も理解したらしく、ぺこりと頭を下げた。ちょうど通りかかった島田さんに、女小屋まで連れていってもらう。


 オレは近藤さんの居室に迎え入れられた。部屋には近藤さんのほかに、土方さんと永倉さん、原田さんがいる。沖田さんは体調が思わしくなく、屯所とは別の場所で療養している。源さんは若手に読み書きを教授する時間だそうだ。


 高台寺党に関して、覚えてきたとおりに、オレはしゃべった。今なら伊東さんが誰の誘いにも応じること。高台寺党の面々の様子。大事が起こった場合の出動態勢と役割分担。伊東さんが外部の誰と通じているか、誰と連携したがっていたか。


 近藤さんが笑顔を見せた。


「よくやり遂げてくれた。苦労をかけたな、斎藤。今日はここでゆっくり休め」


 試衛館に通い始めたころを思い出した。特別に厳しい稽古に耐えた後、近藤さんは必ずあの笑顔でオレを誉めた。強い男に努力を認められることが、幼いオレには誇らしかった。


 今は何も感じない。


「ここでは休めない。オレはここにいないほうがいい」


 土方さんが血相を変えた。


「追手が来るかもしれないという意味か? 月真院を抜け出すとき、誰かに怪しまれたのか?」

「怪しまれてはいない。でも、オレの居場所を探して、誰かが来るかもしれない」


「なるほど、当然か。斎藤が間者だったことを知れば、高台寺党は報復手段に出るかもしれねえ。しゅくせいを果たすまで、斎藤はどこかに身を隠したほうがいいな。会津藩のこんかいこうみょうはちょいと遠い。福井藩か紀州藩を当たるか」


「もう一つ」

「何だ? 懸念していることがあるなら、何でも言え」


「オレは斎藤一の名を捨てる」


 土方さんが絶句した。近藤さんは眉間にしわを刻んだ。原田さんがオレの顔をのぞき込んだ。永倉さんが怒った顔をした。


「何だそりゃ? 夏に銭取橋で俺が言ったことが、そんなに引っ掛かってたのか?」

「そうじゃない」

「それ以外の何だってんだよ? 一本気の一じゃなく、二心ありの二郎と名乗るつもりなんだろう?」

「名を変えれば、斎藤一は新撰組にいないと言って、嘘じゃなくなる」

「屁理屈はどこで覚えた? おまえらしくない。おまえはそんな男じゃないはずだ」


 オレにつかみかかろうとする永倉さんを、原田さんが羽交い絞めにした。オレは近藤さんを見た。頼んでおきたいことがある。


「伊東さんたちを殺す日は、オレも呼んでほしい」


 おしまいまで見届ける。刀を抜く覚悟もある。藤堂さんも伊東さんも斬ろう。どうせ、この手はとっくに血に染まっている。

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