弐 訣別

 三月中旬に差し掛かったにしては、あまりに肌寒い日。伊東さんがついに新撰組を離脱した。近藤さんより伊東さんを選んだ者は、十五人。オレもむろん、同志のふりをしている。


 表向きは、近藤さんと土方さんも伊東さんたちの離脱を認めた形だ。伊東さんは、先代天皇のはかもりをする役目、りょうの仕事を朝廷から拝命した。この任に就くために、新撰組の屯所である西本願寺より利便のいい東山に移る。そういう名目だった。


 伊東さんに、新撰組に戻る心づもりはない。近藤さんと土方さんに、伊東さんを再び受け入れる心づもりはない。総勢二百人を超える新撰組は、いずれ十数人に過ぎない伊東さん一派をしゅくせいする。これは終わりの始まりだ。


 五条橋の東にあるぜんりゅうが、伊東さんたちの仮初めの屯所だった。で全員集まって、じっとしている。夜になって、霧のような雨が降り出した。板張りの床は底冷えがする。


 オレが立ち上がると、視線が集まった。


「表で見張りをする」


 しょうすいした顔の伊東さんが、微笑んでうなずいた。藤堂さんが腰を上げた。


「俺も行く。伊東さんたちは横になってなよ。俺と斎藤が見張ってりゃ、試衛館の仲間はちょっかい出せやしねぇんだからさ」


 そうだな、と皆が口々に返事をした。壁に寄り掛かったり体を丸めたりして、仮眠を取る体勢になる。刀は抱いたままだ。


 寺の山門には、雨をよけながらかがりが焚かれていた。篝火はいつものことだという。夜陰にまぎれてろうぜきを働く者が、武士にも僧侶にもいる。このあたりは祇園の花街が近いから、金を使い果たした者が盗みに入ることもある。


 庫裏の表のひさしの下に、藤堂さんと並んで腰を下ろした。オレの目の高さに、小柄な藤堂さんの額がある。池田屋事件でできた傷痕がくっきりと白い。


 やぶから棒に、藤堂さんは言った。


「斎藤がこっちに来るとは思わなかった。試衛館のころから近藤さんたちには世話になってんのにさ、すぱっとさよならなんてことするのは俺だけだと思ってたんだけどね」


 藤堂さんは笑顔だった。茶化すような口振りに、後ろ暗さはない。大きな目はまっすぐにオレを見ている。久しぶりの、藤堂さんらしいまなざしだ。吹っ切れたらしい。新撰組に残るか伊東さんに付くか、年明けからずっと悩んでいる様子だった。


 オレは藤堂さんにかぶりを振ってみせた。近藤さんに異を唱えたことがあるのは、藤堂さんだけじゃない。


「信じるものが近藤さんと違えば、自分を曲げない。永倉さんや原田さんも、非行五箇条のとき、そんなふうだった」

「ああ、なるほど、そうだったな。今回、伊東さんの物の考え方に同調したのは俺と斎藤だけだが、みんな強情っ張りだよな。士道や信念を曲げない。総司だったら、伏せってなけりゃ、どう動いただろう?」


「沖田さんは、近藤さんだと思う。親代わりで剣の師匠だ。オレたち以上に、沖田さんは近藤さんと試衛館を大切にしている」

「そっか。あいつには、何も考えるまでもなく選ぶべき道があるわけだ。妖になっちまうかもしれない危険をおかしても、近藤さんたちのために戦おうとしてるしな。しかし、あいつの環はいつになったら完成するんだ?」


「環は、宿主の気を食って形を成す。沖田さんはろうがいが進んで気が病んじまってるから、なかなか環が出来上がらない」

「山南さんが環を完成させたときも、体はずいぶん弱ってたぞ。その割に、えらく早く環の力を手に入れて、体も動かせるようになった。会津公だってそうだろう。病弱なのを補うために環を成したって聞いたぜ」


「立てたしろを食ったんだろう。依り代は、沖田さんで言えば、猫又のヤミだ。体に取り込んだ状態で、外に出さないようにする。ヤミの自我を奪って、気や力を自分のものにする」


 藤堂さんは鼻にしわを寄せた。


「気味のいい話じゃねぇな。総司はヤミを食おうとしないせいで、環の力を完全には手に入れられずにいるわけか。まあ、あいつらしいな。戦ってないときの総司は優しすぎる。何であんな男が人を斬れるのか、わからねぇくらいだ」


 呆れたような藤堂さんの言葉にうなずく。それから、話の流れの違和感に気付く。


「環なんかないのが当たり前だ。環の力は、まともじゃない」


 オレの左の手の甲に蒼い環がある。生まれつきの環は、たおすさだめを持つ者の証。オレは生まれながらにして、誰かを殺さずにはいられない存在だ。


「おいおい、どうした? 元気ないぞ。斎藤でも不安か? そりゃまあ、そうか。仕方ねえよな。近藤さんたちが俺らを放任しておくはずもない。いつ襲撃が来るかわからなくて、おちおち寝てもいられねえ」

「……ああ」


「だけどさ、俺はやっぱり、伊東さんの言うことが正しいと思うんだ。それに、伊東さんみたいに、はっきりした理想を持ってれば、人に剣を向けなけりゃならないときも自分を信じていける。そうだろ?」


 素直にうなずけるほど、オレは純粋な存在じゃない。


「藤堂さんは、人に剣を向けるのが嫌なのか?」

「剣の腕を上げたいとは思う。でも、殺しを楽しむ趣味はねぇよ。新撰組は斬り捨て御免の特権を得てるが、決まり事で許されてるからって、人が人を殺して平気なわけはないんだ。俺が剣術を磨いてきたのは人斬りのためだったっけって、たまに考え込むよ」


 ふと、庫裏の戸の内側に気配が立った。オレと藤堂さんは同時に振り返る。直後、戸が開いて伊東さんが顔を出した。


「私も交ぜてもらっていいかな? 皆は疲れて寝たようだが、私はどうにも目が冴えていてね」


 狭い庇の下で場所を譲り合う。藤堂さんを挟んで向こう側に、伊東さんが腰を下ろした。


 しばらく誰も何も言わなかった。霧のような雨が篝火の光にきらきらしている。どこか遠くで野犬が吠えている。かすかに、庭木の花の匂いがする。


 やがて伊東さんが口を開いた。


「あなたたちには、つらい決断をさせてしまったね。申し訳ない。少年時代から大切にしていた居場所を、私が掻き乱して、奪ってしまった」


 藤堂さんが勢いよくかぶりを振った。


「俺は自分で決めた道を後悔しない。そうだろ、斎藤?」


 オレはうなずく。今さら後悔はない。後悔を重ねすぎて、後悔の仕方がわからなくなった。


 伊東さんはオレたちを見て、そして遠くを見た。


「わかり合えると思っていた。私の理想、『一和同心』は、日本じゅうが争い事を止めて心を一つにするという意味だ。その第一歩として、佐幕派の新撰組との協力関係を築きたかった。私が新撰組に入ったのは、そんな考えがあったからだ」


 一和同心。綺麗な言葉だと思う。綺麗すぎてはかない。一和同心の政治論は、繰り返し聞いた。伊東さん本人からも、藤堂さんからも、勝先生からも説明された。


 藤堂さんが静かに笑った。


「俺はやっぱり、伊東さんの考え方が好きだよ。今の日本は、昔っからの血縁が世の中をがちがちに縛っちまって、おかしな特権があちこちでまかり通っていやがる。伊東さんはそいつを壊そうとしている。わかりやすくて明るい国にしようとしている」


 伊東さんの理想では、京都の公家社会が政治の中心だ。官庁や地域の代表者が合議で国を動かす。武士も農民も皆が兵隊の訓練を受けて、国のために戦う心構えを持つ。港を選んで外国船を受け入れる。貿易と交流をして、外国の進んだ技術を導入する。


 藤堂さんを見つめて教師のように、伊東さんは言った。


「私は倒幕派だ。徳川家による独占的な政治はよくないと考える。しかし、一人の大名としての徳川家には、合議に加わってもらいたい。幕府が今までつちかってきた政治の手法も、これからの日本のあり方に活かすべきだ」


 藤堂さんが目を輝かせる。


「そこんとこのすり合わせは難しそうだけど、伊東さんならできるさ。俺も頑張って勉強して、話に付いていけるようになる。伊東さんの力になりたい。剣で人を殺すだけじゃない、新しいやり方で」


「心強いよ、藤堂くん。しかし、敵は多い。私は倒幕派だが、同じ陣営のはずの人間からも嫌われていてね。倒幕派の主流は、徳川家を取り潰そうだとか、江戸を焼き討ちにしようだとか、過激なことばかり言う。そのような暴力は間違いだと、私は思う」


「剣を振るってぶっ壊すだけじゃ何もならねえってのは、俺も京都に来て学んだよ。人を斬ってみて初めて、殺し合いじゃらちが明かねぇんだって知った。だから、一和同心なんだ」


 藤堂さんは熱っぽく語った。藤堂さんは気性がはっきりしている。喧嘩っ早くて荒っぽいところもある。でも、人殺しを嫌う言葉こそがいちばん正直なところなんだと、急に感じた。


 何となくオレはつぶやいた。


「協力、一和同心、対話」


 藤堂さんと伊東さんの視線がオレに向けられる。伊東さんが微笑んでうなずいた。


「そのとおりだ、斎藤くん。私は対話を大事にしたい。誰が説くどんな意見にも耳を傾けたい。近藤さんたちと話をまとめ切れなかった私が、今ここで言うのは恥ずかしいがね」


 藤堂さんが苦笑いのような顔をした。


「話をするってのは難しいよな。相手が自分より弱いとわかりゃ、話なんか聞いてやれるかって、そんなふうに思っちまうのが人間だ」


「でも、藤堂さん、会津公は聞いてくれる」


 新撰組が生意気を言っても、京都の町の人々が文句を言っても、天皇や将軍が気まぐれを言っても、容保公はまじめに全部聞く。病みがちな体で全部の声と向き合って背負い込む。容保公はすごい人だ。


 対話という題目について、伊東さんが論を重ねる。藤堂さんが質問を挟んで、伊東さんが答える。オレは黙って聞いている。


 新撰組の屯所で繰り返された光景が、見知らぬ寺の庭を眺めながら、ここにある。三月の肌寒い雨の夜。運命は、引き返せない。

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