陸 士道

 探していた人と、呆気なく出会ってしまった。古びた神社の境内の隅に、ぽつりと、山南さんが立っていた。きっちり結った髪に、二本差し。少しだけ遠出をするときの折り目正しい姿で、早咲きの山桜を見上げている。


 山南さんが振り返って微笑んだ。


「やはり総司が来てくれた。おまえの顔を見て安心したよ」


 おれも微笑んでみせた。


「迎えに来たよ。近藤さんと土方さんは意地を張っちまったから、気まずいんだって。山南さん、おれと一緒に帰ろう。近藤さんたち、謝りたいみたいだよ」


 山南さんは山桜を背に、まっすぐにおれに向き直った。笑みを消さないまま、どこかが痛むような目をする。


「何を謝るつもりなのだろう? 近藤さんと土方さんは、何か悪いことをしたか?」

「屯所の移転のこと、山南さん抜きで話を進めていたんでしょ?」


「さて、それが正しくないことだったのか、私には判断できない。私が話に加わったところで、二人の邪魔しかできなかった」

「邪魔って言い方は、違うよ。そうじゃないんだ」


「なあ、総司。最近になってようやく気が付いたのだが、私はどうやら、さほど賢くないらしい。二百数十人の大所帯を率いたり支えたりするには、視野が狭すぎるようでね」


「何言ってるの? 山南さんはおれたちの頭脳だ。山南さんがいなけりゃ、新撰組の中では誰も、ろくに思想や理念を語ることができない。尊攘派が偉そうな口を利いてても、反論する言葉を知らないんだ」


「私は弁論がうまいわけではないよ。弁舌爽やかで博識の学問家なら、私より優れた人材が現れたじゃないか。今の新撰組には伊東さんがいる。伊東さんの知力があれば、学問に対する近藤さんの劣等感は完全に補われる。近藤さんは強い頭領でいられる」


「待ってよ。山南さん、何でそんな言い方するの? 口が立つとか知識が多いとか、そういうところを比べてるんじゃないんだよ」


 ふらつきそうな足で、おれは一歩、踏み出した。山南さんと伊東さんが笑い交わすところを思い出す。屈託のない様子にしか見えなかった。でも、その陰で、山南さんは伊東さんに自分の居場所を奪われたことを理解していたんだ。


 胸の内側の、病とは違う場所が痛い。笑みを消さない山南さんのまなざしが痛くて、おれは顔をしかめた。


 山南さんは口を開いて、何かを言いかけて口を閉ざして、再び口を開いた。


「新撰組は、大きく変わりつつある。そう感じる。しかし、近藤さんや土方さんの人柄が変わったとは思わない。原田さんの胆力、永倉さんの勢いのよさ、源さんの気配り、一の冷静さ、平助の人懐っこさ、総司の純粋さ、皆どこも変わっていない」


「そうだよ。みんな変わってない。近藤さんと土方さんが組織の遣り繰りに頭を抱えてて、原田さんと永倉さんは無鉄砲なところがあって、源さんと斎藤さんはけっこう心配性で、平助とおれは子どもっぽくて、山南さんはみんなを見守ってくれる」


「しかし、新撰組は変わりつつある。あるいは、すでに変わってしまった。一人ひとりの生き様はそのままに、それぞれの方向へとまっすぐに伸びていくせいで、ひとまとまりになったときの姿が丸きり変わった。もとの姿には戻れない」


 正しいと思った。山南さんの言いたいことは、おれにもわかる。誰も変わっていないのに、誰かと誰かの間にあるものだけが変わってしまうなんて、奇妙なことだ。でも、確かに何かが昔とは違う。


 原田さんや永倉さんや斎藤さんが、近藤さんの振る舞いをとがめる書状をかたもり公に提出した。近藤さんと土方さんが、山南さんを抜きにして屯所の移転の話に決着を付けてしまった。近藤さんや平助は伊東さんと仲がいいけれど、ほかは伊東さんをうとんでいる。


 江戸で貧乏暮らしをしていたころ、おれたちには同じものが見えていた。ばらばらの性格で、別々の流派で、生まれ育ちもてんで違うのに、同じ一つの刀の道を進んでいけると固く信じていた。何のあかしがなくても、きっぱりと信じられた。


 今は、なぜ?


 指の隙間から大事なものがこぼれ落ちていく。山南さんが微笑んでいる。静かな声が、おれのかけがえのない時間に終わりを告げようとしている。


「総司が知っているよりも長いこと、私は皆と話し合いを重ねたのだよ。そして、話しても堂々巡りになるだけだと悟った。なぜなら、私たちはそれぞれ、決して譲れないものを持ってまっすぐに生きている。誰も間違っておらず、曲がってもいないのだから」


 ざあっと音を立てて風が吹いた。湖を渡る春風とは違う。山南さんの体から噴き上がる気迫が、空気を弾き飛ばして風を生んでいる。


 花乃さんがおれの半歩前まで駆け出た。印を結んだ手を山南さんのほうへ突き出す。風がおれに触れなくなった。花乃さんが結界を張ったのか。


「戦わはるおつもりどすか?」


 山南さんのきっちりと合わさった襟の隙間から、わずかに、赤黒い環の輝きがこぼれて見える。山南さんはまだ微笑んでいた。難しい学問を噛み砕いて教えてくれるときの、見慣れた笑顔だ。


 ばさりと音がして、山南さんの背後に純白が広がった。巨大な鳥の翼が二対、山南さんの背中にある。はかまからのぞく足が、鳥のそれに変化する。翼が空気を打った。山南さんの体が宙に浮かぶ。


 花乃さんが息を呑んだ。環を完成させた山南さんの、理性と知性を保った異形の姿は、恐ろしくて猛々しくて美しい。そして悲しい。結界越しにも吹き付けるのは、まぎれもなく闘志だ。山南さんの声が上空から降ってくる。


「己の信ずるがままに、まっすぐに生きる。それが新撰組の士道だ。士道に背けば、死あるのみ。己を曲げたその瞬間に、私たちは生きることを許されなくなる」


 知っている。わかっている。何度だって聞かされた。深く深く胸に刻んで生きてきた。覚悟の上で刀を握ってきた。


 花乃さんが山南さんを見上げて叫んだ。


「そんなん厳しすぎる! 引き返しても曲げても、ええやないどすか!」


 山南さんがかぶりを振った。


「引き返すことも曲げることもできない。新撰組は、人の命を奪いすぎている。誠心誠意まっすぐに生きなければ、奪った命に示しが付かない。なあ、総司。おまえにも教えたはずだ。私たちの士道はどのようにあるべきだ?」


 山南さんが答えを促している。おれはただ、二対の翼で羽ばたく山南さんを見上げている。山南さんが刀を抜いた。切っ先を向けられる。山南さんと最後に稽古をしたのはいつだっただろう? 思い出せないくらい前だ。昔は毎日、剣を合わせていたのに。


 ちりりと、すねに痛みを感じた。ヤミがおれを引っ掻いたんだと察しながらも、おれは動けない。


 花乃さんがつぶやく。


「勝手や。わがままや。士道なんて言葉、ええ格好しぃの身勝手やないの」


 武士じゃない花乃さんにはわからないよ。


 命を一つほふるごとに、おれたちは一つずつ狂っていく。悪ではないものを斬るためには、強烈な理由がなけりゃいけない。後戻りなんかした日には、この手で消した命すべてに呪われて、正気でいられなくなる。


 山南さんが両腕を広げた。


「総司よ、私をここで止めてくれ。生き方を変えられず、新撰組を去るしかない。私は逃げた。新撰組の士道から逃げた。私のたどるべき末路は一つだ。誠の一文字を背負うにふさわしい総司が、新撰組の志を載せた刀で、私に裁きを下してくれ」


 待ってと言いたかった。言わせてもらえなかった。


 山南さんが激しく打った翼から、強烈な波動が吹き付ける。立ち尽くすおれをかまいたちが襲う。頬に痛みが走って、一瞬の後、頭上に氷の障壁が張られた。


「沖田さま! 何してはりますの!」


 花乃さんのしっ。障壁にぶつかる鎌鼬の風。ひびの入る氷。ヤミが鳴く声。白い翼の羽ばたき。再びぶつかる鎌鼬が、あっさりと氷を割った。降り注ぐ氷の欠片。吹き付ける風と気迫。


 どうして戦わなきゃいけない?


 いや、わかっているんだ。おれたちが誠心誠意まっすぐに生きているとあかす方法は、刀を抜いて戦うことのほかにはないから。言葉も涙もいらない。ただ精いっぱい、一心に戦ってぶつかり合う。それがおれたちの士道だ。


 わかっているのに、どうして苦しい?


 花乃さんが飛ばした氷の槍を、山南さんが刀で叩き落とす。ぴたりと上段に構えた剣が振り下ろされた。太刀筋が風の刃となって飛んでくる。花乃さんの障壁が迎え撃つ。硬い音が鳴る。


 ヤミがおれに爪を立てる。痛い。体が動かない。動きたくない、刀を抜きたくないと、体も心も拒んでいる。ただ、士道を知る頭が、士道を刻んだ胸が、おれに動けと命じている。山南さんに教わった道を、おれもきちんと証さなければ。


 鎌鼬が襲ってくる。花乃さんが防ぐ。防ぎ切れずに皮膚が裂ける。花乃さんが声を上げる。おれは何をしている?


 山南さんがおれを叱った。


「総司、迷うな! 私の士道をかろんずる気か!」


 刀を構えた山南さんが、急降下で突っ込んでくる。刃が夕日にきらめいた。その瞬間、おれの体の奥で本能がぜた。


 吠える。


「ああぁぁぁぁああああっ!」


 柄に手を触れる。足を踏み込む。抜き打ちを放つ。


 強烈な衝撃。ぶつかり合う刀の間に火花が散った。高く澄んだ金属音が一つ。踏ん張る地面のない山南さんが、吹っ飛んだ空中で体勢を立て直した。手にした刀は、中途で折れている。


「さすがだな、総司」


 おれは、両腕を下げたいつもの構えを取った。血がたぎりながら凪いでいく。興奮と冷静が同時におれを支配する。山南さんが宿敵にも獲物にも見える。倒さなければならないと、抜き放った刀がおれを導く。


 ヤミが、にゃあと鳴いた。おれは命じた。


「おいで。本気で戦おう」


 山南さんを倒さなければ、おれの望みは通らない。まじめで信念が固いぶん強情な山南さんを、戦って倒して力ずくで京都に連れ帰ってやる。


 ヤミがおれの胸に飛び込んだ。どろりと体が溶け合って、猫又の耳と目と尾がおれを人間から遠ざける。全身の感覚が尖る。人間の肉体の限界が取り払われる。


「花乃さん」

「へえ」

「下がってて」

「……危のぅなったら飛び出しますえ」


 駄目だと、おれはかぶりを振った。ここからは手出し無用だ。一対一の真剣勝負でなければならない。花乃さんが黙って後ずさった。それでいい。


 山南さんが、折れた刀を構えた。


「いざ参るッ!」

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