伍 鹹味

 大津は東海道の宿場町だ。琵琶湖を水上の道として、船での交易もさかんらしい。人と物が集まる大津は、物騒な京都よりもずっとにぎやかだ。水の匂いがするせいもあって、大坂と少し似ているようにも感じる。


 花乃さんは術で浮くのをやめて、二本の脚で歩いている。


「田舎やわなあ。せやけど、大津のほうから来る肉や魚があらへんかったら、屯所の台所は回りまへん」

「肉や魚って、もしかして、ときどき食事に出るいのししの肉も大津の商人から買ってるの?」

「へえ、そのとおりどす。猪の肉は滋養が付くさかい、新撰組の皆はんにはぴったりどっしゃろ? 沖田さまは箸も付けへんけれども」


 花乃さんは、おれに怖い顔をしてみせる。猪の肉のことでさんざん怒らせたのは、冬の真ん中ごろだった。それなりに起きられる体調だったおれに、花乃さんはほかの隊士と同じ猪の汁を出してくれたんだけど、臭みが強くて食べられなかった。


「おれは匂いの強いものは苦手なんだよ。肉でも青菜でも海のものでも、全部ね。ヤミも臭いものは苦手で、食べないよな?」


 肩の上のヤミに同意を求める。ヤミは面倒くさそうにまばたきをしただけだった。花乃さんはぷりぷりして、おれに指を突き付けた。


「沖田さま、苦手やからと言うて、鶏肉の叩いたんとか卵の焼いたんとか、好きなものを出されるまで箸を持たへんなんて、わがままな子どもと変わりまへんえ。少しは我慢して食べよし。きちんと滋養を付けへんから、病に負けて熱が上がるんどすえ」


「勘弁してよ。京都の味付けは薄すぎて、ますます匂いが鼻につくんだ。白味噌も駄目だね。甘ったるくて、口に合わない」

「京都の料理をにせんといて。江戸の味付けなんて、塩辛いばっかりやないどすか。田舎臭いわ」


「田舎臭かろうが何だろうが、おれたちにとっては塩気が大事なんだよ。おれたちは剣を振るって汗を流すだろう? 汗で体の塩気がなくなっちまうぶんを食べ物から取らなけりゃ、足がったり体が痺れたりして、満足に動けなくなるんだ」


 花乃さんが不意を打たれた顔をした。


「何やのん、それ。初耳どす」

「そうかもね。今の炊事係は京都や大坂の人ばかりだから。まあ、隊士も半分以上が上方出身だし、ちょうどいいといえばいいんだけど、おれを始め試衛館の面々は江戸の料理を懐かしんでるよ」


 花乃さんの足が止まった。往来のさなかだ。立ち尽くす花乃さんとの間に、せわしげな人々が割り込んでくる。はぐれるわけにもいかないから、おれは数歩の距離を戻って、花乃さんの腕を取った。


 かすかな声で、花乃さんが何か言った。聞き取れなくて問い返すと、眉をひそめた花乃さんがまっすぐにおれを見上げた。


「すんまへん」

「え? 何のこと?」

「うちは台所を任せてもろてるのに、皆はんの口に合うものを出してへんから。江戸の料理より京都の料理のほうが質がええと思ぉてました。日本でいちばんおいしいものを教えたる、くらいの気持ちでした」


「ああ、うん、京都の料理って世間ではそういう評判だよね。試衛館の仲間内でも、京都の料理は繊細な味で興味深いって、げんさんは言ってるよ。源さんは、京都に来てからは炊事場に入ってないけど、試衛館のころは料理をしてくれていたからさ」


 いのうえげんざぶろうは、試衛館の仲間の中で最年長だ。剣術はあまりうまくない。でも、人当たりがよくて算術ができて物事をしっかり考えるから、世知辛い江戸で試衛館の遣り繰りをするために、なくてはならない人だった。


「ほな、井上さまになろぉたら、うちも江戸の料理を覚えられますか?」

「源さんなら教えてくれると思うよ。でも、京都の女は、田舎臭い江戸の味付けなんて嫌いなんじゃないの?」


 からかうつもりで笑ってやったら、花乃さんは真剣な顔でかぶりを振った。大きな目に宿る光が強い。


「江戸の味付けやったら、沖田さま、好き嫌いせんと食べてくれはります? うちは塩辛いんは嫌いやけど、ちゃんと味見して、沖田さまにとっておいしいものを作りますさかい」

「おれの、ため?」


 大きくうなずいた花乃さんが、腕をつかむおれの手を振り切って、逆におれの腕にすがり付いた。


「沖田さま、痩せはりました。腕も細うて。初めてぉたとき、こない細っこい人が刀を振り回すんやと驚きましたけど、半年のうちにあのころより痩せはったでしょう? このままやったら消えてなくなるんと違うかって、不安になります」


 腕に花乃さんの体を感じる。温かくて柔らかい。子どものぬくもりじゃなくて、女だ。場違いな熱が体の奥にともって、おれは花乃さんから顔を背けた。


「花乃さんは心配性だな。消えてなくなったりなんかしないよ」

「せやけど、沖田さま……」


「今はおれのことより、山南さんだ。この先に、かわせみ屋という旅籠はたごがある。こっちに用事があるときに使う宿で、島田さんからのことづても預かってもらってるはずだ。日が暮れないうちに行こう」


 少し力を込めて腕を引くと、花乃さんの手があっさりと離れていった。完全に離れてしまう前に、おれは花乃さんの細い手首をつかんだ。人混みの中を歩き出す。花乃さんは黙って付いてくる。


 いくらも行かないうちに、唐突に、おれの肩の上でヤミが立ち上がった。どうした、と訊く間もない。ヤミはおれの肩から跳び下りて、すたすたと歩き出した。数歩行って、二股の尻尾を揺らしながら振り返る。


「どないしはったの?」

「付いてこいってことだろうね。ヤミは人間よりずっと鼻が利くから」


 山南さんの気配を嗅ぎ分けたに違いない。


 おれと花乃さんはヤミの後を追い掛けた。次第にひとけが遠ざかる。どこをどう歩いたのか、大津の地理に暗いから、もうわからない。


 気が付いたら、こけむした鳥居の前に立っていた。二股の尻尾の後ろ姿が、鳥居をくぐって歩いていく。

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