肆 山越

 京の七口の一つであるこうじんぐちを発して、北白川の山を越えて、琵琶湖のほとりまでを結ぶ志賀越えの街道は、おおよそ二里半の道行きだ。昼下がりに屯所を出たから、日暮れまでには確実に大津にたどり着ける。


 吉田山を越えたあたりから、ひとけがなくなった。きゃはん草鞋わらじの足をせかせかと交わしていた花乃さんが、何かに腰掛ける格好をして、ふわりと宙に浮いた。


「沖田さま、足を速めてくれはって構いまへんえ。うちの術、男の人の駆け足よりはよぉ飛べますさかい」

「そう急ぐつもりはないよ」


「山南さまに逃げてほしいんどすか? 土方さまたちは、山南さまを罰したりしぃひんって、おっしゃりましたえ」

「うん。だけど、山南さんを見付けたくないって気持ちがある。おれの前では、山南さんは絶対に武士らしくあろうとするから」


「武士らしく? どないな意味ですのん?」

「山南さんは試衛館の仲間の中でもいちばん潔白で、士道を重んじている人だ。己のいるべき場所から逃げ出すなんて、武士として絶対にあっちゃいけない。例え死んでも、自分の務めや志をまっとうするのが武士の道、士道だ」


 幼いころ、おれに剣術を教えてくれたのは近藤さんだけど、士道を説いてくれたのは山南さんだ。山南さんは、口先だけで物を言う人じゃない。自分の生きる道としての士道を、言葉と背中で示してくれた。


 ヤミがおれの肩から花乃さんの膝の上に跳び移った。くるりと丸くなるヤミを撫でて、花乃さんはおれに言った。


「せやったら、なおさらはよぉ山南さまを見付けんとあかんの違います? 山南さまが自分を罰してしまわはる前に追い付きまひょ」

「まあ、そうだね。うん……山南さんが今どこで何を考えてるのか、おれには想像もつかないんだし。頭の造りが違うから」


 花乃さんが小首をかしげた。


「沖田さまと山南さまは年が離れてはりますけど、江戸でおんなし道場に通ってはったんどすか?」

「試衛館の話、したことなかったっけ?」


「へえ、ありまへん。ちらほら耳に入ってはきますけれど。昔から山南さまは学問ができはって、近藤さまと土方さまにとって大事な相談相手やったこととか、沖田さまと斎藤さまと藤堂さまは同い年やさかい、いつでも競い合ってはったこととか」


「新撰組の幹部は、江戸の試衛館で集結した仲間なんだ。近藤さんが道場主で、流派は天然理心流。九つで弟子入りしたおれは古株だよ。いつの間にか別の流派の使い手も出入りするようになって、例えば山南さんと平助は一刀流、斎藤さんは無外流だ」


「どなたがいちばんお強いんどす?」

「今の力の差はわからないな。試衛館のころの試合の成績なら、やっぱり近藤さんがいちばんだよ。普段の練習なら一本取れるのに、試合になると気迫が凄まじくてね。山南さんと近藤さんの出会いも対外試合だったんだけど、気迫の差で近藤さんが勝った」


 天然理心流は、礼儀のための剣術とは違う。実戦向けの喧嘩剣術だ。美しい太刀筋は求められない。相手に隙があると見れば、肘で打ち掛かったり蹴り飛ばしたり、野外なら目潰しの砂をぶつけたりもする。


 試衛館の出稽古では、多摩の宿場町で農家の男たちに天然理心流を教えていた。脱藩浪人や盗賊から自分たちの身を守るためには、泥臭いけれど実用的な天然理心流がぴったりだった。


 おれの話に、花乃さんは、ほうと感心したような声を上げた。


「新撰組の幹部は狼みたいな剣を使わはる、と隊士たちの間で評判やけど、それは天然理心流の喧嘩剣術のことやわなあ」

「たぶんね。一刀流の山南さんや平助はいい家柄できちんとした教育を受けてるから、綺麗な剣を使う。試衛館の仲間の中で特に意地汚い剣を使うのは、おれと斎藤さんじゃないかな。斎藤さんは左右の手の使い分けかずるい。あれは目をあざむかれるよ」


「斎藤さまの型稽古は、指導も見本もわかりやすいと聞きますえ。沖田さまは、自分が動けはるさかい、よぉ動かん下手くその気持ちがわかってへん。指導が厳しいばっかりで技がちっとも身に付かへんと、もっぱらの噂どす」

「あれ、そうなんだ? 手加減してるつもりなのに、これでも厳しいんだな」


「沖田さまはもともと、いけずやから」


 いけず、というのは、意地悪という意味だ。たびたび花乃さんに言われる。そんなにいじめたことはないはずなんだけど。だって、花乃さんを怒らせるほうが、おれの剣術指導なんかよりずっと怖い。


「江戸にいたころの出稽古でも、おれが行くと顔をしかめられてたな。教えるの、下手なんだよね。その点、山南さんはうまいんだ。丁寧だし、物事を順序良く説明できる。剣術も学問も、山南さんに教わったら、すぐに呑み込める」


「せやけど、うちは山南さまが指導をされはるところ、見たことがありまへん。うちと同じころから新撰組に入った隊士も、山南さまはいつも部屋にこもってはるお人やと思ぉてます」


「山南さんは、その役割から外れてるから。外れざるを得ない期間が長かったんだよ。山南さんは一度、任務中の怪我が原因で死にかけたんだ」

「死にかけた? いつのことどす?」


「一年半くらい前の、確か七月だね。まだ新撰組という名前を会津公からいただいてなくて、ろう組と名乗ってたころだ。用事で大坂に出たとき、山南さんはたまたま店に押し入るていろうを見付けて、部下を連れて戦った。でも、部下は逃げた」

「山南さまおひとりで戦わはったんどすか?」


「ああ。相手は鉄砲を持っていたし、五、六人はいた。店の者をかばいながらじゃ、さすがの山南さんもまともに戦うことはできなくて、ひどい傷を負った。特に脚の怪我はひどくて、一命を取り止めたけど、ろくに立つこともできなくなった」


 花乃さんが、はっと目を見張った。


「山南さまが環の力を求めはったのは、その怪我が原因どすか?」

「当然。足手まといになるわけにはいかないだろ。おれがろうがいをどうにかするためにヤミの力を借りるのと同じさ」


「ほんまは禁術どす。自分ひとりの環が閉じてしもうたら、大いなるりんの環に戻ることができひん。この世での命が終わった後も転生せんと、永遠に妖の力に呪われ続けることにならはるんえ」


「知ってる。山南さんが、おれと斎藤さんに教えてくれたよ。山南さんは禁術について調べて、現世で環を成す者の行く末だとか、生まれつき環を持つ者の特殊な役割とか、何もかもちゃんとわかってる」


 花乃さんは、ちらりと横目でおれをにらんだ。その膝の上で、ヤミが眠たげにあくびをした。


 正直なところ、転生やら永遠やらと説かれても、おれには理解できない。目に見えないものについて考えるのは苦手だ。


 おれにとって大事なのは、新撰組のために刀を取る力を保ち続けること。仲間を守るために強くあり続けること。それだけだ。


 志賀越えの山道はさして険しくないけれど、速足で歩くうちに汗ばんできた。首筋を手の甲で拭って、水筒の水を口に含む。花乃さんに水筒を勧めたら、そっぽを向かれた。


「結構どす」

「おれが口を付けた後だから? まあ、病持ちだしね」

「そないなふうには、別に思ぉてまへん」

「口移しみたいで気まずい?」

「けったいなこと言わんといてください!」


 ぴしゃりとした言葉と一緒に、術で呼び出した水しぶきがおれの額に飛んできた。びしょ濡れになるほどの量じゃなくて、火照った顔にはかえって気持ちがいい。


 道は下りに差し掛かっている。不意に木立が開けて、眼下に一面の水が見えた。琵琶湖だ。

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