三 沖田総司之章:Tragedy 士道に背くまじき事

壱 児戯

 まるたけえびすに おしおいけ

 あねさんろっかく たこにしき

 しあやぶったか まつまんごじょう


 子どもたちが歌う声が聞こえてきた。碁盤の目にみちが走る京都の、東西の通りの名前を覚えるための唄だ。


 壬生みぶに来たばかりのころ、おれや山南さんが見廻りや稽古の合間に近所の子どもたちと遊んでやったら、お礼代わりに通りの数え唄を教えてもらった。この唄を覚えていたら、迷子にならずに壬生に戻ってこられるから、と。


 おれは刀を研ぐ手を止めた。日はまだ高い。二十二になる年が明けて、春一月、このところ少し暖かい。体の調子がいいから、年明けからは一日も欠かさず、見廻りも稽古もこなしている。


 研ぎかけの刀は、おれのものじゃない。おれの刀は妖気を帯びて刃こぼれしなくなった。この刀は、最近やたらと忙しい土方さんのものだ。


 新撰組は今、二百人を超える大所帯だ。半年前、池田屋に押し入ったころはせいぜい七十人だったのに、はまぐりもんで戦って長州藩を京都から追い出して、手柄が江戸にも知れ渡った。おかげで、新撰組に加わる者が急に増えた。


「おれも戦いたかったな」


 蛤御門の戦いも残党狩りも、その後の大火を消し止めようと皆が奔走している間も、おれは屯所で寝込んでいた。留守役の山南さんは、各方面への連絡で忙しい合間を縫って、おれの看病もしてくれた。


 火鉢のそばで丸くなっているヤミの力で綺麗さっぱりろうがいが消え去るならいいのに、うまくいかないものだ。症状が抑えられるのは、ヤミと一体化して妖に近付いたときだけ。歯痒いことこの上ない。


「ヤミの力を借りた後は、反動がすごいんだよなあ。おまえ、もうちょっと加減できないのかい? 一度にどかんと力を貸してくれるんじゃなくて、小分けにしてくれよ」


 苦笑いしたおれの愚痴に、ヤミは金色の目をまたたいて、小さな声で鳴いた。退屈そうにあくびをする。尻尾までくるりと丸まっているから、普通の猫だか猫又だか、見分けが付かない。


 拾って抱えてくる間は普通の猫だったと、土方さんは言っていた。祇園の花街からの帰り道、女たちからの恋文でふところをいっぱいにして歩く途中でヤミを見付けて、黒猫は労咳除けにいいからと、おれのために連れて帰ってきたんだ。


 妖怪へんなんだから尻尾の一つや二つ、人の目から隠すのも簡単なのか、おれと引き寄せ合ってお互いに妖に近付いてしまったのか、そのあたりの仕掛けはちょっとわからない。どちらかというと、おれのせいでヤミが妖になっちまったのかな、という見込みが強い。


 熱に浮かされた夜、死に際の夢を見た。戦が続く中、おれは一人、江戸の片隅で死のうとしていた。仲間たちの役に立つどころか、いま誰が生きていてどこにいるのか、それすらわからない。孤独だった。おれは強く望んだ。何を犠牲にしてでも力がほしい、と。


 目覚めたら、ヤミが二股の尻尾を揺らしていて、おれの右手には描きかけの赤い環があった。あれはただの夢じゃなかった。きっと、数年後に起こる本当の出来事。無力なまま死にたくなかったおれは、時の流れをじ曲げて、今ここにいる。


 子どもたちの歌声はまだ続いている。さては、おれがここにいると踏んで、遊んでくれと誘っているのかな。


 おれは刀を拭いて鞘に収めた。休憩しよう。子どもと遊ぶのは、何よりの息抜きになる。


「ちょっと行ってくるよ、ヤミ。土方さんが刀を取りに来たら、おれの代わりに叱られといて」


 にゃ、と迷惑そうに一声鳴いて、ヤミは目を閉じた。おれは、真剣じゃなく木刀を腰に差して格好だけ付けて、裏の畑のほう屯所を抜け出した。路地に顔をのぞかせてみると、途端に子どもたちがおれに気付いて声を上げる。


「やった、沖田せんせや!」

「沖田せんせ、一緒に遊ぼ!」


 しーっと人差し指を立ててみせる。


「鬼の副長に見付かったら、みんなで大目玉だぞ。神社のほうに行こう」


 子どもたちは慌てて口を押さえて、こくこくとうなずいた。花街の女には持てる土方さんだけど、近所の子どもたちからは鬼と呼ばれて、ずいぶん評判が悪い。役者みたいに顔立ちが整っているせいで冷たく見えて怖いらしい。


 まあ、土方さんだけじゃない。新撰組は軒並み、子どもたちから怖がられて、大人たちからは嫌われる。子どもたちに手や袖を引かれて「せんせ」なんて呼ばれるのは、おれと山南さんくらいのものだ。


 こぢんまりとした神社の境内で、目隠し鬼をして遊んでいたら、聞き慣れた怒声が飛んできた。


「沖田さま! またろくに上着も羽織らんと外に出て! しかも、土方さまから言い付かったお仕事、途中で放り出したままやないどすか!」


 おれはもちろん、子どもたちまでびくっとして、鳥居のほうを振り返る。


「花乃さん、たまには大目に見てよ」

「見まへん。だいたい、『たまには』と違います。『いつも』どすやろ」


 足を踏み鳴らしておれに近付いてきた花乃さんは、分厚い綿入れとえりまきを手にしている。


「すぐ体の具合が悪ぅならはるさかい薄着は控えるようにと、お医者の先生から言われてはるでしょう?」

「だからって、そんな分厚いのは着られないよ。襟巻だっておおだ。年寄りじゃあるまいし」

「うちから見たら年寄りどす」

「六つしか違わないし、おれだってまだ二十二なのに」


 綿入れと襟巻を突き出す花乃さんから、苦笑いで後ずさる。子どもたちがおもしろがって「鬼女や!」と騒ぐから、花乃さんはますます怒った顔になった。


 花乃さんの親がいとなんでいたもの問屋は、半年前の火事で焼けてしまった。いくつか人に貸していた長屋も焼けた。怪我人も死人も出なかったのは幸いだったけど、商売は一から出直しだし、秋の間は食い扶持にすら困っていた。


 そこで黙っている花乃さんじゃなかった。責任を取れと言って、屯所に押し掛けてきた。話を聞いた近藤さんは花乃さんを雇った。掃除や炊事の手が足りていなかったから、渡りに船だった。


 当然ながら、若い娘が屯所の世話を手伝い始めたと、隊士たちは沸き返った。花乃さんにちょっかいを出したり口説き文句を浴びせたり、それはそれは騒々しかったんだけど、花乃さんは半月足らずで隊士たちの下心を全部やっつけてしまった。


 ある者は肩を抱いて、氷のつぶてをぶつけられた。ある者は手を握って、水を浴びせられた。ある者は裸を見せ付けようとして、天狗の術で宙吊りにされた。ある者は酒に酔った勢いで押し倒そうとして、水之イマシメの中で意識を失う羽目になった。


 とにかく、花乃さんは強い。妖と渡り合う度胸のよさは並の隊士をはるかに凌駕するし、頭の回転も速くて、術の扱いにもけている。近藤さんや土方さんも、花乃さんに一目置くほどだ。


 もう一つ、花乃さんには、近藤さんたちから任された役割がある。おれの監視だ。


 花乃さんは、環を断つ者だ。環を断つことの本来の意味は、おれのように力を得るために環を成して妖に近付く者を、人の子に戻すこと。万一、おれが妖に堕ちるなら、花乃さんがおれの環を断ってくれる。


 というわけで、花乃さんはおれのまわりをちょろちょろしている。体調がいいくせに屯所を抜け出して遊んでいると、必ずこうして連れ戻しにくるんだから、おっかない母親みたいだ。まあ、死んだ母親のことは全然覚えてないんだけど。


「沖田さま!」

「言いたいことはわかってるよ。でも、せっかくこの子たちが呼びに来てくれたんだから」


「遊ぶなとは申しまへん。せやけど、やることはきちっとやっていただきますえ。土方さまはお忙しいのやさかい、刀のお手入れや稽古の師範役みたいに沖田さまでもできはるお役目は、引き受けたってください」

「花乃さんは土方さんの肩を持つよね。土方さんは、渋みと華がある色男だもんね」


 ちょっと冷やかすと、花乃さんは真っ赤になる。これがおもしろいんだけど、やりすぎると水を浴びせられてしまうから、気を付けないといけない。


 おれは子どもたちの肩を抱いて、くるりと、花乃さんに背を向けさせた。


「みんな逃げるぞ!」

「きゃあ、鬼女や!」


 おれは子どもたちと一緒に駆け出した。子どもたちがきゃあきゃあ騒ぐのにつられて、おれも笑ってしまう。


「沖田さま! 本気で追い掛けますえ!」


 花乃さんは怒鳴って、手にしていた綿入れや襟巻を投げ出すと、すそをからげて走ってくる。子どもたちがひときわにぎやかな声を上げた。

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