漆 会津

 顔を上げよ、とかたもり公が柔らかく言った。オレたちは素直に従った。


 臣下に顔を上げさせる殿さまというのも、たぶん珍しい。大名行列の前で頭を上げたせいで打ち首になった話は、昔からざらにある。


 容保公がオレを見た。笑顔だ。


「斎藤一、おぬしの名と顔は、しかと覚えておるぞ。はまぐりもんの戦ではご苦労だった。見事な妖退治、心強かったぞ」


 心臓を、どんと一つ打たれたような衝撃。ねぎらわれるなんて思っていなかった。驚きのあまり、息の仕方を忘れる。隣の永倉さんにつつかれて、はっとして息を吐いた。喜びが胸を襲って、体が震えた。


「ありがたきお言葉」

「これからもまた、頼りないわしに力を貸してくれ。おぬしが力を必要とするときは、わしにできることをしよう」


 ありがたい、それ以上。とんでもないお言葉をたまわった。オレはこの人の下で働いているんだと、急に、はっきりと理解する。


 勝先生に使われるだけの身だと思ってきた。勝先生に新撰組の皆を奪われないために、オレはいぬになる。そのつもりで生きているのに、容保公の目に、オレは違うように映っている。


 なんて恐れ多い。ねぎらわれたり、頼りにされたり、オレはそんな上等な人間じゃない。


 容保公は少し咳をして、オレたちの顔を順繰りに見つめた。


「おぬしらが新撰組を故郷のように大切にするのは、わしが会津を想う心と同じだ。わしは会津の生まれではない。だからこそ会津を深く知り、大切にしたいと思った。会津に根付く、義理と忠誠を重んずる気風は、わしの誇りだ。藩校、日新館のじゅうおきては、わしの座右の銘だ」


「什の掟……!」


 懐かしさに息を呑んだ。オレはそれを母から教わった。


 什というのは、会津に昔からある地縁のまとまりだ。会津では、什の中で結束して、什と什も結束するから、藩全体が強いつながりを持つ。什の掟は、子どもに最初に覚えさせる七つの決まり事だ。


 容保公が「一つ、年長者としうえのひとの言うことに」と、口ずさむ。オレの口は、知らず知らずのうちに動いていた。


 一つ、年長者としうえのひとの言うことに背いてはなりませぬ。

 一つ、年長者としうえのひとには御辞儀をしなければなりませぬ。

 一つ、嘘言うそを言うことはなりませぬ。

 一つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。

 一つ、弱い者をいじめてはなりませぬ。

 一つ、戸外で物を食べてはなりませぬ。

 一つ、戸外で婦人おんなと言葉を交えてはなりませぬ。

 ならぬことはならぬものです。


 とっくに忘れたつもりでいたのに、全部覚えていた。暗唱し終えるとき、声に出しているのはオレひとりだった。永倉さんたちも容保公も会津藩士も時尾も、オレを見ていた。気まずくて、オレは顔を背けるようにこうべを垂れた。


「オレは、母方が会津なのです」


 告げた途端、罪悪感が込み上げた。人を斬って江戸を離れて以来、母のことなど忘れていた。手紙ひとつ書ける身じゃない。名前まで変えた。


 容保公が声を立てて笑った。ずっと微笑んでいたが、笑ったのは初めてだ。


「嬉しいのう、斎藤は会津の血を引く男か! ならぬことはならぬものです。不条理のまかり通る世の中だが、守るべきものは堅く守らねばならぬ、という意味だ。忍耐と自制、忠誠と義理を重んずる会津の心がそのものだ。そうか、斎藤は会津なのか」


 いたたまれない。忠誠も義理も、オレにはあったものじゃない。勝先生の間者だ。大事な仲間のはずの新撰組を逐一探っている。会津藩のことも、容保公のことさえ、勝先生に報告した。オレは裏切り者の卑怯者だ。


 言えない。本当のことは、絶対に、誰にも言えない。


 オレはただ頭を下げ続けるふりをして、容保公の笑顔から逃げる。容保公がそれを許してくれない。


「顔を上げよ、斎藤。わしは今日、おぬしと話せて嬉しい。また機会があれば話そう。それまで達者でいるがよい」


 形ばかり、どうにか返事をした。容保公がもう一言二言、新撰組への助言を述べて、面会が終わった。


 帰り際、寺の前庭を歩いていると、女の足音が追い掛けてきた。足を止めて振り返る。時尾が追い付いてきて、ぺこりと頭を下げた。


「斎藤さまにこの前のお礼を申し上げたくて。どうもありがとうごぜぇました」


 礼を言われる意味がわからない。防御や治療で世話になったのはオレのほうだ。


 顔を上げた時尾はオレを見て、永倉さんたちを見て、急に赤くなった。


「許してくなんしょ。わたしの言葉、こっだふうだから、江戸のお侍さまにはわかんねぇな。それに、什の掟を破って戸外そとで声を掛けっつまうなんて、はしたねぇごど。京都は戦場だから男も女もねえ、働くときは男と一緒に働けと、家老さまからも特別に許してもらってはいるけんじょ」


 母と同じだ。幼いころの訛りはいつまで経っても消えないらしくて、江戸ではしばしば言葉が通じない。そんなときは必ず、野良仕事をしても白い母の顔は真っ赤になった。


「さすけねえ」


 会津の言葉がオレの口を突いて出た。問題ない、という意味だ。時尾の垂れがちの目が輝いた。


「さすけねえって、おっかつぁまから教わったべし?」

「母の口癖だった」

「斎藤さまは会津の言葉が全部わかんのがよ?」

「ああ」

「だけんじょ、斎藤さまが話されるのは、江戸の洒落しゃれた言葉だなし」


 いきなり、永倉さんがオレの背中をはたいた。永倉さんだけじゃなく、皆、にやにやしている。


「俺たちは先に帰るぞ。近藤さんにも土方さんにも黙って出てきちまったから、さっさと戻って仕事をしねぇとな」

「それはオレも同じだが」

「斎藤は会津藩に用事があって遅れると、土方さんに伝えておくぜ。ゆっくりしてきていいぞ」

「永倉さん」


「色白でかわいい顔をして気働きが利く上に、薙刀なぎなたも使えりゃ不思議な術も使う。しかも、田舎育ちでれてねぇ娘なんて、江戸にも京都にもそう多くねぇぞ。斎藤は花街じゃ窮屈そうにしてるが、確かに、気位の高いきょうおんなより会津の女のほうが似合いそうだ」


 永倉さんの言葉に、皆、どっと笑った。冷やかされている。いつの間にか顔が熱い。どうしていいかわからない。


 何も言えずにいるうちに、永倉さんたちは帰ってしまった。時尾と二人、取り残された。どうしよう?


「オレの言葉」

「え?」


 しゃべろうとした途中だった。母が会津の言葉を使うのに、オレは江戸の言葉で話す。そのあたりの事情を言おうとしていた。


「オレの言葉は、下手だ。しゃべるのが下手だ。最初は、たぶん会津の言葉を覚えた。でも、父が明石だ。お守りをしてくれていた姉は、江戸の女言葉だ。混ざって、わからなくなった。兄は混ざったまましゃべって、からかわれた。オレは、だから、しゃべらなかった」


 時尾はうなずいて聞いていた。


「おとっつぁまが明石なら、京都の言葉もすぐわかったのではねぇかし?」

「苦労はしなかったな」


「会津と明石と京都の言葉がわかって、江戸の言葉がしゃべれんだ。斎藤さまはとても頭がよかんべし。わたしはもともと、お殿さまの姉君の照姫さまのゆうひつだっただけんじょ、江戸育ちのてるひめさまに会津の言葉を覚えていただくばっかりでした」


 祐筆と聞いて納得した。見目のいい武家の女がいい年をして嫁いでいない様子なのは、仕事があるからだ。貴人のそばに仕えて文字を代わりに書くのが、祐筆の仕事だ。字が綺麗なのはもちろん、学がないと務まらない。


 容保公の姉君は会津にいるはずだ。時尾は祐筆を辞めて京都に来たんだろうか?


「なぜ京都にいる?」

「わたしが、環を断つ者だからだなし。照姫さまが、環を成したお殿さまを心配して、わたしを京都に送りました」

「そうか」

「斎藤さま、ご存じがよ? 会津は昔から、環の力を求める者が多い。強くなりてぇ者が多いからです」


 オレはうなずいた。母から何度も聞いた話だ。


 徳川幕府第三代将軍、家光公の時代の忠臣であるしなまさゆき公を藩祖とする会津藩は、徳川家への忠誠心が並外れて強い。心身ともに鍛え、学問を磨いて、徳川家に尽くそうとする。そういう気風だ。


 だから会津には昔から、鍛練の果てに自ら環を成すことにたどり着く者が多い。それと均衡を取るように、生まれつき環を持つ者も多い。


「会津公のお体は? 環の悪影響は出ていないか?」

「さすけねぇようです。新撰組にも、環を成したお人がおられるべした。具合あんべじょだべし?」

「今のところは、さすけねえ」


 真似して答えると、時尾は笑った。垂れがちの目尻がますます下がって、えくぼができた。


 時尾と話したのは、それだけだ。山門の前で別れて、オレは一人、屯所に戻る道を歩き出す。胸のざわめきは、少しの間、収まらなかった。

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