陸 君器

 くらえいの山のてっぺんは紅くなろうとしている。山のふもとの京都の町は、夏のごりの蒸し暑さがいつまでも消えない。


 江戸は、四つの季節がちゃんとあった。京都は、春と秋がないと思う。過ごしやすい暖かさや涼しさがない。ただ景色だけは移り変わる。人間に仕組まれたように、春に庭の花が咲いて、秋に山の葉が紅くなる。


 会津藩はくろだにこんかいこうみょうに駐屯している。壬生の屯所は四角い京都の左下にあって、金戒光明寺は御所を挟んでちょうど対角、右上の端だ。


 永倉さんと原田さんを先頭に、非行五箇条に署名した者、オレを含めて六人は、金戒光明寺に押し掛けた。


「会津公にお目通り願いたい」


 永倉さんたちの言葉に、山門を預かる会津藩士たちはかぶりを振った。


「殿は伏せっておいでだ。忙しい上にこだに|暑くては、体がよくなるわけもね。悪ぃけんじょ出直してくれ」


 永倉さんたちが目を点にして固まった。会津の訛りがきつすぎて、聞き取れなかったみたいだ。


「会津公は体調が優れないらしい。出直してくれ、と」

「斎藤、わかるのか!」


 そう驚かれても困る。話の通じた会津藩士が、ほっとした顔をした。が、それも束の間、原田さんがいきなり脇差を鞘ごと抜いた。


「今すぐ会津公に取り次いでくれ。さもなきゃ、俺はここで腹を切る。そんだけの覚悟があってここに来たんだ」


 原田さんは山門の真正面に座り込んで、着物をはだけた。腹に真一文字の古傷がある。切腹未遂の傷痕だ。生まれ育った伊予にいたころ、上役と喧嘩をして、腑抜けでないことを証明するために腹を切ってみせたらしい。


 そんな傷痕のある原田さんが脇差の鯉口を切ってみせた。会津藩士は大慌てで原田さんを引き留めて、容保公への取り次ぎに走った。


 金戒光明寺は敷地が広い。千人の会津藩士が駐屯しても余裕がある。東山から連なる高台に建っていて、地の利を活かした堅固な造りだ。京都では知恩院と並び立つ優れた「守りの城」だと、勝先生が言っていた。


 大きな建物に案内された。オレたちの屯所とは比べ物にならない。白い玉砂利の庭が見える広い部屋で、オレたちはかたもり公と対面した。


 容保公は三十歳だ。近藤さんの一つ下、土方さんと同い年と言うと、不思議な感じがする。ひどく細い体付きは子どもみたいに頼りない。でも、穏やかな微笑みは達観して、年がわからない。


「何があったのだ、新撰組? 申してみよ」


 会津訛りではない。容保公は江戸に生まれ育って、会津藩主の叔父の養子になったのが十二のころ、会津におもむいたのは十七になってからだ。


 永倉さんと原田さんは交代で、近藤さんの最近の振る舞いについて説明した。非行五箇条の書面を容保公に提出して、読んでもらう。


 容保公の額に、うっすらと赤い環が見えた。銃弾と砲弾、妖気から自軍を守った光の壁を思い出す。後になって考えて、容保公は変わった人だと思った。攻める力ではなく、守る力だけを使うとは。


 容保公が少し咳をした。水を、と小声で所望する。側仕えのしょうが立つより早く、控えめな女の声がした。


「ごめんなんしょ。お水、お持ちしたなし」


 あ、とオレは思わず喉の奥で声を上げた。時尾だ。はまぐりもんで妖を討ったとき世話になったのに、礼の一つも言う機会がなかった。


 道着を身に付けていたあのときと違って、時尾は普通の女の格好をしている。枯葉のような色の小袖。年はいくつだろうか。子どもではないが、オレより若い気がする。


 時尾はちらりとオレに微笑みかけて、容保公に水を差し出した。


 甲斐甲斐しい時尾の仕草に目を奪われた。オレは江戸にいたころから女っ気のない暮らしだ。時尾の白い手がすそを払い、袖を押さえる。そんな一つひとつが物珍しい。


 水で喉を湿した容保公は、非行五箇条の書面を置いて、ぐるりとオレたちを見渡した。


「おぬしらの言いたいことは、よくわかった。新撰組の中には位の上も下もなく、一丸となって誠忠に励みたいという心意気、頼もしく思う。その心意気のために誰に対しても妥協せず、正しいと信じる道を進まんとする姿勢も天晴あっぱれである」


 凛とした声音は、同時に優しい。会津という質実剛健の尚武の藩を仕切る人なのに、容保公は静かだ。


 永倉さんが身を乗り出した。


「お誉めの言葉を頂戴し、ごく光栄です。俺たちは本気です。近藤さんが非行を改めないなら、近藤さんに腹を切ってもらうつもりがあるし、俺たちに非があると会津公がおっしゃるなら、俺たちがここで腹を切ります」


「おぬしが永倉新八か? 勇ましいのはよいことだ。だが、腹を切るなどと、一足飛びに刀を持ち出すのは、しばし待つがよい」

「一足飛び? 新撰組は武士です。士道に反すれば腹を切る覚悟で、皆、この誠の羽織に袖を通します。止めだてされるのは、言っちゃ悪いが、おかど違いです」


 原田さんたち皆、うなずいた。会津藩士の中にも、うなずく者がいる。かすかに眉をひそめた時尾と、オレは目が合った。うなずくふりをして、オレは時尾から目をそらす。


 容保公は微笑んでいた。


「これはわしの考えなのだが、争う前に、まずは話をし、互いを知ることから始めるのがよいと思う。わしは無知で非力、しょうな人間で、行き届かぬところが大きい。京都の治安を預かる身でありながら、なかなか務めを果たし切ることができぬ」


 原田さんが異を唱えた。


「ですが、会津公は、辛抱強く町衆の不満の声を聞いて、それに応えておられるでしょう? 七月の大火事の後も、炊き出しをしたり着物や布団を配ったり、たくさんのことをなさっている。行き届かねぇなんて、そんなことぁねぇでしょう」


 原田さんは、新撰組の中でいちばん京都の町に溶け込んでいる。いずれ夫婦めおとになろうと本気で言い交わす相手もいる。そんな原田さん伝いに聞く京都の町衆の言葉は、掛け値なしに正確なものだ。


 容保公はかぶりを振った。


「わしでは力不足だ。京都の治安を守ってやれぬ。会津藩士や新撰組が侮辱や攻撃にさらされるとき、やはり守ってやれぬ。歯痒く、悔しく、腹立たしい。しかし、わしが己の感情に溺れてもよいものだろうか? 大切なものを守るためなら、他者を滅ぼしてもよいのか?」


 少し、言葉を切る。容保公のまなざしがオレたち一人ひとりを等しく見やる。容保公は再び口を開いた。


「怒りは憎しみに変じやすい。義憤でさえ、たやすく憎悪に成り代わる。その感情のままに刀を取る前に、一息入れてはみぬか? 我を押し通すための剣へと堕落すれば、おぬしらの背中の誠の字も泣こう。非行五箇条の件、今少し考え直してほしい」

「考え直す、ってのは?」


「原田左之助、そうげんな顔をするでない。わしは新撰組に達者でいてもらいたい。頼りにしておるのだ。勇気ある声を上げたおぬしらも、行いを正すべきところのある近藤も、同じように大切に思うておる。どちらか一方を欠きたくなどない」

「もったいないお言葉です」


「おぬしらに相談したい。新撰組の不和を取り成すには、どうすればよいだろうか? わしが間に入って取り成しをするのでは、心もとないか?」


 あまりに穏やかな言葉に、永倉さんも原田さんも気勢を削がれた。熱くなっていたのが、急に我に返ったみたいだ。永倉さんと原田さんは視線を交わして、ほとんど同時に、容保公に頭を下げた。


「この一件、お預けいたします。どうぞよろしくお願いします」


 永倉さんの言葉を聞きながら、オレも頭を下げた。

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