参 時勢
斎藤さんは早々に逃げ出した。
「オレは土方さんを探す。沖田さんはまっすぐ池田屋に向かってくれ」
言い残して、脇目もふらずに一目散。斎藤さんは新撰組の中でも足が速いうちの一人だ。
「あんなに本気で走られたら、追い掛けることもできやしない」
呆れ笑いをすると、娘はさっきよりもっと不機嫌そうな顔になった。
「東の田舎のお侍はんは、礼儀のれの字もご存じあらしまへんの?」
「江戸の礼儀と京都の礼儀は違うんだよ」
「ええ加減なこと言わんといてください」
「はいはい。申し遅れたけど、おれは沖田総司。こっちの黒猫はヤミだ。あんたの名前は?」
「
ゆるりと頭を下げる仕草は、なるほど
「おれに付いてきたいの?」
「行きます。妖退治をしはるんでしょう?」
「そうなる見込みが強いね」
「せやったら、
「確かにね。でも、壬生狼って言い方、やめてもらえないかな?」
「狼やと言われるのが気に
花乃さんは手を口に添えて、ほほ、と笑った。
新撰組は壬生にたむろする獰猛で貪欲な獣だと、京都の人たちは
浪士の浪の字より獣の狼の字を当てるほうが野生的で猛々しくて格好いいと、おれは思う。でも、そう開き直れない隊士ももちろんいて、嘲笑と一緒に狼と呼ばれるのを本気で嫌っている。
「まあ、狼と
ざっ、と音がしそうな勢いで、花乃さんは笑みを消した。暗いせいで顔色まではわからないけど、たぶん青ざめている。
「お味方を斬った話をしながら、何で笑ってはりますの?」
「この顔は生まれつきだよ。唇の形が笑ってるように見えるらしいね」
「けったいなお人やわ」
「面と向かって言われると傷付くなあ。じゃあ、おれ、そろそろ行くから」
再び袖をつかまれた。今度は袖を振り払って、おれは駆け出す。走りに関して、おれは斎藤さんよりは劣るけど、並の隊士よりはずっと速い。ましてや女に追い付かれるはずもない。
ところが。
「付いていくって言うたでしょう!」
怒った顔をして、花乃さんがおれに並走している。いや、走っていない。何かに腰掛けた格好で、すーっと宙を滑って飛んでいる。
「何それ? 何かの術?」
「風に乗って飛ぶ、
「天狗の術? へえ、そんなもの、今でもあったんだ。七百年も昔の牛若丸のころで立ち消えたわけじゃないんだね」
「
どうやら花乃さんは本気で池田屋への押し込みに付いてくるつもりらしい。走って振り切ろうにも、天狗の術で飛ぶ花乃さんのほうが余裕があるみたいだ。ここは折れるしかないか。
「何を話せばいいの?」
「さっきの人たち、何ですのん? あの訛りは長州どっしゃろ? 何であの人たち、あないに追い詰められてはりますの?」
「ああ、そのこと。どこから話そうか? おれたち新撰組が幕府の意を受けて、京都の町の治安維持や天皇の守護のために働いてることは、もちろん知ってるよね?」
「治安維持やなんて、表向きの名目やわなあ。あんたはんたち、敵対する人を殺しすぎや。おかげで京都は毎日、あっちでもこっちでも人斬り騒ぎで持ち切りどす」
「斬らなきゃ斬られるんだ。おれたちだって必死なんだから、大目に見てほしいな。できるだけ京都の町の人を巻き込まないようにしてるつもりだよ」
おれが生まれるころにはもう、日本を囲む海はいくらか波立っていた。東や南からはアメリカ、北からはロシアの巨大な船が姿を現して、食糧や燃料を求めたり、商売をしないかと誘ってきたりする。
外国との交渉を、徳川幕府は二百年以上にわたって禁止してきた。交渉を持ち掛けられるたびに、幕府はアメリカもロシアも追い払った。
けれど、今から十一年前の嘉永六年(一八五三年)、アメリカのペリーという軍人が四隻の船を率いて江戸湾の浦賀に来航。アメリカの首長から預かった手紙を盾に交渉を重ねて、ついには国交を開くと幕府に約束させてしまった。
アメリカとの国交が成立して以来、この十年、日本の各地で動乱の気運が高まっている。「外国を打ち払うべし」と唱える
攘夷論のもと、日本が一つにまとまるかといえば、まったくそんなことはなかった。学問塾ごとに主張が違う。塾に通うのは、多くは刀を持つ武士だ。議論や口論に始まった争い事が、やがては刀を抜く事態に発展する。
「藩ごとに考え方の違いがあると思ってくれていい。それぞれの考え方を日本の政治に反映させたい人たちが今、天皇のいる京都に集まって、天皇や朝廷に意見を申し立てる機会をうかがってる。争い事が起こらないはずもないよね」
「それを収めるために、将軍はんは新撰組を
「うん。つまり、おれたち新撰組は幕府を
「さっきの長州の人たちが倒幕派やの?」
「ああ。いちばん過激な尊皇攘夷の倒幕派が長州だよ。会津藩主の
「環の力に手を出して妖に堕ちるほど、焦ってはる?」
「ここ一月で、妖堕ちした長州藩士をずいぶん斬ったよ。もしかして、花乃さんもそうなんじゃない?」
走りながら話すせいで、おれは息が切れている。ちらりと横目で見やると、花乃さんと視線が噛み合った。花乃さんが、さっと目をそらす。
「うちの家の裏に金創医の先生が住んではりますけど、このところ、妖にやられた傷で運び込まれる人が多くて、てんてこ舞いどすわ。早ぉ何とかしぃひんと、医者の手が追い付かへん。それに、怪我しはる人がお侍はんだけやないさかい、うち、許せへんのや」
「武士だけじゃない? 京都の町の人が襲われてるの?」
「見境のなくなった妖がうろついてはりますわ。こないに毎晩ともなると、うちひとりの手に余ります」
「そう。知らせてくれたら、おれたちがどうにかしたのに」
「誰が味方で誰が敵か、お侍はんたちみたいに白黒わかりやすかったら、助けも呼べます。せやけど、うちらは武士やあらへん。京都の町に益を為すのんは誰か、見極めるのは簡単と違います」
「なるほどね。京都の人は、そもそも武士が好きじゃないし」
「あら、よぉご存じで」
花乃さんは、ほほ、と笑った。つんと上向きの鼻といい、柔らかい京言葉に包まれた鋭い物言いといい、ずいぶんと生意気な娘だ。おれは思わず苦笑いした。
「何にしても、とりあえず今は、おれのことを信用してもらえる? 新撰組が京都の人たちにとって全幅の信頼を寄せるに足りないとしても、池田屋の一件は間違いなく、おれたちが京都の町を救うことになるはずだから」
「池田屋いうのは、三条通沿いの旅館どすな。そこに何がありますのん?」
「尊攘派の志士が集まって、天皇の誘拐計画を話し合ってる。祇園祭で京都じゅうが沸き返ってる隙に町に火を放って天皇を連れ去って、自分たちに有利な政治を進めようって腹さ」
「そないな計画、絶対に見逃せへんわ」
花乃さんがまなざしを険しくした。凛とした横顔が不意に大人びる。生意気な娘と思った矢先なのに、女は不思議だ。どきりと、おれの心臓が音を立てる。
肩の上で、にゃあ、とヤミが鳴いた。おれは乾いた咳を一つして、花乃さんと視線が絡まないうちに正面に向き直った。
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