跋.常世の国へ
その日の夕方、チタリが尋ねてきた。オオキミが病に伏したという。以前のように屋敷に戻り、朝廷のために働いてほしいと彼は言った。だが、私はこれを断った。チタリは深くため息をついて、剥げ頭を掻いた。
「頑固者」と、彼は悲しそうに言った。
「すまない」私は答えた「寂しいんだ」
それっきり何も言わず、彼は帰った。
私は庵の中で寝転がると、目を閉じた。
耳を澄ますと、海の音が聞こえた。身を横たえた板の間が熱い砂浜のように感じられた。夏の日差しがある。私を伺う倭人の視線がある。思い出した、名前は「神の寄り来る浜」だ。私は笑っていた。
私は決して徐福のようになりたいと思って、海に漕ぎ出したのではない。日出づる水平線の彼方には、蛮族の住む島がある。文字を持たず、髪を結わず、服をまとわない人々が住む。そこには食うだけを採り、食うだけを狩る生活しかなく、富や名声のための戦いはない。かつて魏に使者を遣したその国の人々が、そう述べたという、その話を、私は信じたのだ。
私は笑っていた。馬鹿馬鹿しい、と思った。涙が出た。
イズモの王! と私は思った。いつ思い出しても、彼は寂しそうに笑っている。私の目を見て悲しそうに笑っている。あれは私を、哀れんでいたのか? 何もかも捨てたような顔をして、何一つ手放すこともできず、愛されたいとそればかり求めてとうとう、生への執着に捉われた俗物を、ずっと哀れんでいたのだろうか、私はそこまで考えて、息を止めた。虚しい、と思った。
そして、きっと今なのだ、という考えに到った。捨てるべきは今なのだ。
翌朝、オフルコが、猪の肉を持ってやってきた。彼女は「今日こそ栄養のあるものを食べましょう」と言って炊事場に立った。私もそこへ行き、鉈を手に取った。オフルコは鼻歌を歌っていた。器用に肉を切り分けていた。私はそれを夢心地で聞いていた。鉈を振り下ろした。
私は、自分の左手首を切り落とした。
私はすぐにオフルコをチタリの元へ遣いに出した。もう二度と薬研を持つことはできない。オウスも亡き今、もはや私にこの地に留まる理由はない。ヤマトを去りたい――、それが、言付けである。
すぐにチタリは供も付けずにやってきた。彼は何か言いかけたけれども、私の顔を見るなり、目を伏せた。薄い唇を固く引き結んで、悔しそうに、拳を握り締めるだけだった。
その日のうちに私は家財のすべてを処分した。庵はオフルコに与えた。オフルコは泣くばかりで私の話などはいよいよ聞いていなかったように思う。夕刻になって、私は身ひとつで、山を下りた。
黒い夕焼けだった。血の塊のような色が山の端に泥む。幾重にも重なり合う山の影が、真っ赤な海の中に沈むようだ。一羽の烏が夕日の中を横切った。
麓までやってきたとき、ヤマトの町並みの重なり合うその向こうに、オウスの屋敷の黒い森が見えた。静かだった。だが、この静けさは決して初めてではなかった。イズモの王が死んだ日の、海も、確か、こんなふうな、真っ黒い凪だったように思う。うなだれたような、打ちひしがれたような、そんな色に染まるのだ。
行く先は自ずと決まっていた。私の足はじりじりと、何か見えざるものの力に吸い寄せられるように、イズモの地を目指していた。
行ってどうするつもりなのかは私自身にもわからなかった。今頃はきっと、ヤマトと同じ黒い残照が、誰もいない海と川と湖を、虚しく照らしているだろう。
ああ、あの海、と私は思った。イズモの海に流れ着いたあのときから、私の心は震え続けた。
イズモ、雲の沸き出でる国。
ヤマト、山ごもれる国。
私は確かめるようにそう繰り返した。
互いにぶつかり合い、呑みこみ合い、もつれあい、一本の縄をあざなうように、やがてこの倭国は、大陸のような一つの国家を成すだろう。それまでこの国は戦乱をくり返し、そしてまた、新たな戦乱に身を投じていく。そして、そのたびに幾人もの英雄が現れては、死んでいくだろう。そういう数多の「タケル」たちによって、歴史は紡がれていく。毎日、太陽が昇っては沈んでいくのと、同じように。
私は、イズモで王と酒を酌み交わした日々を想った。今でもあの小高い丘の上の屋敷で、獣の皮を敷いたその上に座って、あの悲しそうな笑顔を浮かべながら、私の参上するのを待っているような、そんな気がした。それがあまりにも身勝手な期待だというのは充分わかっている。ただ、許されるのであれば、もう一度、私は王の元へ行きたい。私はとうとう、王のことを、彼の望むように、「タケル」と呼んだことがなかったのだから。
【終】
出雲残照 唐橋史 @fuhitok
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