十六.国のまほろば

 国の境付近で、蛮族との小競り合いがあったと知ったのは、私が郊外の山の庵に移ってまもなくのことだ。いずこかの異民族が冬の間の食糧を狙ってヤマトの領内に侵入してきたらしく、オオキミの命令を受けて直ちにオウスが数十騎を率いて馳せ向かったという。それがいかなる戦いになって、どれほどの損害があったのかは知らない。ただ、彼が怪我をしたという噂だけが、私の元に届いた。


 私は、すぐに私に対して治療の命令が下るものだと思っていた。しかし連絡は一向になかった。


 私が居を移した庵は小高い山の中腹にあった。亀がうずくまったような、小さな土壁の庵である。中は私一人が寝るに精一杯の広さしかない。戸口に立つと重なり合う楓の枝のあいだから、遠くヤマトの町並みを望むことができた。私は時折そこに佇んだ。


 もっと早くこうすればよかったのだと、私は感じていた。戦乱を避けて、大陸を捨てたあのときに、私は何もかも捨てたと思うそう一方で、何一つ手放すことができず、こうしておめおめとこの土地までやってきて、深く傷ついたあとになって、ようやく伯夷・叔斉の暮らしを思い出したように思う。自分はずっとからっぽのように思っていたが、結局はそうではなかったということだろう。イズモの王に会ったときからか、オウスに出会ったときからかは知らぬ、ただ、いつの間にか、私の心は、ねっとりとした生への執着に、塗りこめられていたということだ。私は、そんなことを考えていた。


 庵での暮らしが十日ほどしたある日、一人の女性が尋ねてきた。近所に住む太った三毛猫のような後家で、名はオフルコといった。彼女は男の一人住まいを心配して来てくれたらしく、困ったことがあったらなんでも申し付けて欲しいと言ってくれた。オウスが怪我が元で伏せっているという話は、このとき、彼女から聞いた。


 翌朝は霜が降った。私は茸を採りに山中に分け入っていた。薄曇りの朝で、すっかり葉の落ちてしまった梢のあいだから、白い薄明かりが差していた。私は足元を注意深く見ながら歩いていた。


沢に行き当たった。青白い岩間にか細い水の流れがあった。


 私は、引き返そうと背中を向けた。そのとき、視界の端に、岩の上に、青年の一人、腰掛けて、釣り糸を垂らしているのが、目に入った。息を飲んだ。彼の人は今、腰に葛の巻きついた太刀を佩いてはいなかったか。振り向いた。しかし、そこには、誰もいなかった。


 私は、目の覚めていくような思いがした。今までの何もかもが夢であったことに、気付かされたような気がして、嬉しいような恥じ入るような心持ちで、小走りになって庵に帰った。


 すると庵の前では、一人の若い下人が切り株に腰を掛けて、私を待っていた。使者であった。彼は立ち上がった。私は、いよいよだな、と思った。オウスの容態が差し迫っているに違いないと思ったのだ。だがその下人は、私の顔を見るなり、「オウス様の元へ参上なさってはなりません」と言った。私は再び夢の中に突き落とされたような気になった。彼は続けた。

「悪い噂が立っています」

 彼はチタリからの使者だった。


 出所は知れないという。オウスは大陸の医者を使ってオオキミの毒殺を企てている――、ただこの国の誰かがそう言い出したことだけは違いない。そうなれば必然的に、オウスが今病床にあるのも、人目を欺くための策略かもしれないと、考えるのが人で、オオキミは監視の役人をオウスの屋敷に遣わしたというのだ。

「今、あなたが出向けば――」

 下人はそれっきり押し黙った。


 私は話を聞きながら息をするのも忘れていた。袖口を握り締めていた。


 こんな山の奥に隠れ住んでもなお、逃げ切れぬか、そういう思いが、いつの間にか私を満たしていた。大陸から、イズモへ、そしてヤマトへ、なお、生臭い死神の影が、振り切っても振り切っても、追いついてくる。


 下人は私の行動に再三釘を差した上で帰っていった。


 私はこの日の夜、干した薬草を薬研にかけた。力をこめると、ぷちぷちと乾いた音を立てて、茎の繊維が絶たれた。枯れた花の蕾を潰したとき、中から蜂の死骸が出てきた。軽いがらんどうの抜け殻のようで、指先でつまみあげるなり、砂のように崩れてしまった。寂しい終わり、私はそのとき、そんなふうに感じた。


 後家のオフルコが血相を変えてやってきたのは翌朝のことだ。庵の戸を叩く音がするので行ってみると、彼女は鍋を腹の上に抱えたまま、庵の前にしゃがみこんでいた。

「蛮族が、蛮族が」と彼女は言った。

 獣の皮を着て、首から貝殻の首飾りを提げ、腰に葛の巻きついた太刀を佩いた蛮族の青年が、こちらに向かって弓を引こうとしていたというのだ。彼女は「そこに確かにいた」と、茂みの向こうを指差すのだが、勿論、そこには、一本の櫟の木が立っているだけで、何者の姿もなかったし、仮にあったとしても、私はさほど驚きはしないだろうと思った。来るべきものの来たような感覚だったといっていい。

「知らせだよ」

 と、私は言った。


 その頃から雨が降り始め、夜半を過ぎてそれは雪になった。水をたっぷり含んだ重たい雪が、欠片同士で折り重なるような積もり方をした。


 私は戸口に佇んでずっとそれを見ていた。腕を固く組み、肩をすぼませ、じっと見ていた。


 空は妙に明るかった。紫色の混じった黒だった。雪に下から照らされているようだった。木の影が尤も暗かった。黒い幽霊のように立っていた。静かだった。


 その中に、人の影が混じっていることに気付いたのは、随分経ってからだ。女の裳裾の風に吹かれて、雪と一緒にひらひらと舞っているのが見えた。女は両手をだらりと下に垂らしたまま、雪のこぼれてくる空の上を見ていた。うなじが青白い。黒髪は乱れ、肩口から赤い櫛が落ちかけていた。裾から小さな素足が見えた。爪の先まで赤かった。


 私は蓑を取り出すと、女のところまで行き、背後からその肩を抱きすくめるように掛けてやった。細くて薄く、今にも凍りつきそうな背中だった。

「中へお入りください」私は言った「オウス様」

 徐にこちらを顧みたが、そのまま、うっとりとした眠りに落ちるように、彼は意識を失った。私はそれを抱きとめた。傷ついた白鷺を抱えている気分であった。ほんの少し、力をこめただけで、折れてしまいそうだった。


 私は彼を庵の中へ運び入れると、その濡れた体を拭き、床に寝かしつけ、掛け布を口元近くまで掛けてやった。全身が凍りついたように冷え切っているその一方で、額は熱を持っていた。湯気ものぼりそうなほどに、額には汗が浮き、息遣いも荒かった。


 裳をたくし上げてみて、原因は知れた。右の太股に包帯が巻かれていた。膿がヤニのように包帯を塗り固めていた。私は小刀で慎重にこれをほどいた。矢を受けたのであろうと思われた。傷の周囲の皮膚がどす黒い色に血走っていた。私は口を漱ぐと、この傷口の膿を吸い出した。それからさらに丁寧に水で洗って、薬を塗り、柔らかい布を当てた。


 私は、私より先にこの傷の治療をした者を許せない心持になっていた。この国に高度な医学のないことは充分承知しているつもりであったが、それでもなお、ここまで放っておいたその上に、人目を欺く策略だと、よくも口さがなく人は言えるものだと、そう考えざるをえなかったのである。私は、打ちひしがれていた。


 やがてオウスは寝息をたて始めた。私はそれを見て炊事場に立った。小さな鍋を煮立てて、粥を炊いた。甘い湯気で庵の中が満ちた。


 鍋をゆっくりとかき混ぜながら、私はオウスと初めて出会った日のことを思い出していた。ああ、あのときとは、立場が逆になったのだ、と思った。あの日は私のほうが山中で滑落して気を失い、オウスのほうが粥を炊いて介抱してくれた。あのときは甘いまどろみの中で美しい女に出会ったと思っていたが、思えばあれもオウスだったし、そのあと火事場に飛び込んで私を助け出した少年もまたオウスだったのだ、と、私は思いを巡らしていた。もう随分、遠い昔のような気がした。


出来上がった粥を椀によそったところでオウスは目を覚ました。

「もう帰らなければ」

 彼は掛け布をはねのけて起き上がろうとした。私は慌てて椀を床に置いた。取り付いて制止しようとすると、彼は、私の腕を振り払った。

「侍女と入れ替わって監視の目を盗んで脱け出してきたのだ。早く戻らなければ女たちが咎めを受ける」

 だが、オウスは立ち上がることができなかった。右足に力が入らず、雛鳥が飛ぼうと羽をばたつかせるように、何度もまろび転んだ。私は彼を抱き起こした。

「せめて熱が下がるまではここにいてください」私は言った「治療を受けたくてここまでいらしたのでしょう」

 するとオウスは歯を剥いた。私の胸倉に掴みかかると「黙れ」と言った。唇がぶるぶると震えていた。裂けんばかりに見開いた目は血走っていた。

「お前なぞ連れてこなければよかった」彼は唸った「お前のせいでおれはこうして疑われているのだ!」


 私はオウスの顔を見つめた。脈拍が弱くなっていくような、耳が遠くなるような、そんな気がした。オウスの体は熱く火照っていた。一方で、私の手はかじかみ、頭からも血の気の失せていくような気がした。オウスの瞳の中に、痩せた男が映っていた。


「違う」不意にオウスはそう言って掴んだ手を放した「そうじゃないんだ」

 彼は自分で掛け布を引き上げると、頭からそれをかぶって突っ伏した。それっきり押し黙った。眠ったのかもしれなかった。声を殺して泣いているようにも思われた。


 私は再び炊事場に立った。粥は冷めてしまっていた。


 静かな夜だった。雪の積もる音の聞こえそうな夜だった。


 オウスを見た。こんなに、細くて、小さかったか、と思った。掛け布の端から爪先だけが出ていた。赤くかじかんでいた。細い指だった。私は近くに座ると、手を伸ばして、それに触れた。冷え切っていた。私は両の掌を合わせるようにして、それを包み込んだ。ささくれた小さな足だった。娘の足だ。これが鐙を踏み、軍馬を駆る足だとは思えなかった。


 オウスは寝言で何度も父の名を呼んだ。私はもう何も思い出せなくなっていた。今はただ息苦しくて仕方がなかったのだ。


 夜も更けた頃、再び炊事場に立って、冷えてしまった粥を片付けようとしたとき、オウスは目を覚ました。そして、私のほうを見て「食べるよ、それ」と言った。


 泣きつかれたあとの子供のような、遠い目をしていた。清々しい顔に見えた。


 彼は起き上がって椀を受け取ると、一口だけ食べた。頬に米粒が付いた。彼は笑った。私も笑った。彼は言った。

「父上は、おれが死んだらいいと思ってるんだ」

 彼は表情を変えなかった。笑っていた。泣いているようにもみえた。彼は椀に視線を落としたまま、オオキミから再び蛮族征討の命令が下されたのだと言った。それも、ヤマトよりも遥か東方にある十二ヶ国もの国々を全て平らげるまで、帰国の許されない、大遠征だった。与えられた軍勢はわずか十四騎、武器も満足なものではない。

「当分、帰ってこられないかな」

 と、彼は言った。力無く笑って、彼は、私の鼻をつまんだ。そして、私の目を覗き込むと、いたずらっぽく唇の端をあげて、

「今までありがとう、張旦」

 と、言った。

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