十五.八尋白千鳥

 次の日は朝から蜘蛛の糸のような細い雨が降った。


 この日は私は下人たちよりも早く目が覚めた。私は起き出すと、寝巻きのまま縁側に佇んで、オウスの屋敷のほうを見た。オウスの屋敷の木に、烏の巣のあることに気付いたのはこのときのことである。雨に打たれて、崩れかけ、半分がだらしなく襤褸のように垂れ下っていた。朽ちかけた死骸のようにも見えた。


 オウスから、屋敷に参上するように、との命令が届いたのは、その午後のことであった。すでに夜のように暗かった。私は供も付けず、蓑を被ると小走りで駆け出で、オウスの屋敷へ向かった。


 心が急くような、沸き立つような、そんな心持がした。ようやく、何かが起きるような、そんな奇妙な期待を抱いていたのである。


 門をくぐると侍女たちが庭で群れいて騒いでいた。見れば大きな柿の木の上に、オウスがいたので、私は驚いた。彼は先端の枝に抱きつくようにしていた。侍女たちを見下ろして得意げに笑っていた。手を振ろうとするので、侍女たちが、悲鳴をあげた。そのとき彼は私を見つけた。何か言いかけた途端、彼はそこから落ちた。咄嗟のことであったので、私は彼を抱きとめるというよりは、落ちてきた彼の体に突進するようになって、気がつけば二人抱き合って地面に転がっていた。オウスは甲高い笑い声をあげた。彼は柿の実を一つ、大事そうに抱えていた。

「最後の一個だった」彼は鼻をすすった「一緒に食べよう」


 まもなく私は屋敷の中に通された。案内されたのは一番奥の、一番大きな部屋だった。調度も何もない。ただその広い板間の中央に、二人分の膳だけが向かい合わせに据えられていた。小さな銚子が一本、横に用意されていた。オウスは「好きなほうに座れ」と言った。私は下座を選んだ。オウスはそれを鼻で笑った。


 オウスは腰を下ろすと、懐から小刀を取り出して、先ほどの柿をむき始めた。

「驚いたか?」と彼は言った。

「皇子御自ら木登りなさるようでは、侍女たちも心配で身が持ちますまい」

 と、私が答えると、彼はくすぐったそうに笑った。

「父上だって、昔はよくおれに柿の実をとってくれたんだぞ」

 彼はそう言いながら小刀を進めた。柄のほうに汁が流れて、先端で橙色の雫になった。私はその雫が少しずつ太っていくのを見ていた。わずかに震えていた。


 部屋は暗かった。か細い雨の音と、皮を剥く音だけが、響いていた。世界に二人だけしかいないような気にさせられた。私は瞑想するようにその音を聞いていた。不思議なまどろみの中で、私は薄目でオウスの顔を見ていた。長い睫毛が雨に濡れたように黒々としていた。


「父上は長櫃を見たかな」オウスが言った「イズモの品々にはきっとお喜びになると思うんだ」

 オウスは器用に柿の実を剥きながら、幼い頃に荊を踏んで怪我をしたときの話をした。オオキミは手ずから膿みを吸い出して、包帯を巻いてくれたという。また、母が病で亡くなったとき、幼いオウスが泣き止まないのを見かねて、オオキミは一晩中添い寝をして、子守唄を歌い続けてくれたのだといった。

「父上のために戦ってる」彼は最後にそう言った「イズモのときも」


 私は虚ろな思いに浸っていた。雨の音のか細さと、一緒になって、自分まで消えていくような、そんな気さえした。

「おれが憎いか」

 オウスがそう言ったので、私は思わず顔をあげた。オウスは柿の実を四等分に割った。

「おれはイズモを滅ぼしたんだぞ」

 その彼の声が空虚に聞こえたのが、私には不思議だった。がらんどうの木の洞の中で、反響するように思えた。私はこう答えていた。

「オウス様こそお父上が憎くないのですか」

 私は喉仏が震えるような、身体中が高ぶるような、そんな思いに捉われていた。

「お后が死ぬなり、まず真っ先にあなたをお疑いになったのですよ」


 オウスはふっと力の抜けたような顔をして、私を見つめた。私ははっとさせられた。彼はまどろんだような瞳をしていた。真っ暗な木の洞か、そうでなければ日の差さない深い水底のようだった。彼は口の端を小刻みに震わせ、そして、ぎこちなく、笑顔を作った。

「きっと、父上は、ちょっと気が動転していたのさ、きっとな」


 彼は柿の実を、犬歯の先でこそげとるように、少しだけかじった。そして苦笑して「渋い」と言うと、柿の実を膳の上に置いた。そのとき膳の端に彼の袖口が引っかかった。乾いた音を立てて膳が倒れた。


 オウスはそれを見つめた。一つ一つ辿るように、散らばった皿を見た。彼は柿の実を拾おうとしたが、指の隙間から零れ落ちた。すると彼は自分の肩を抱きかかえた。人形のように力なく首を傾げた。


 私は目を逸らさずにはいられなかった。少年の一人、声をひそめて泣くのを、正面から見られなかったのだ。か細い、消え入りそうな雨の音が、聞こえていた。


 そしてオウスは滑るように、部屋を出て行った。一筋の煙が、風に吹かれて、空気中に掻き消えたような、そんな様子だった。私も、席を立った。


 帰り際、私は門のところで、侍女たちに呼び止められた。くれぐれも皇子を頼むと彼女たちは言った。私はこのとき、彼女たちに聞かされて知った。オウスの兄は、酒を飲んでは暴れ、侍女に手をあげるばかりか、気に入らないことがあると、庶民の家財を打ち壊したり、家に火を放ったりするような男だったらしい。あるとき、彼は、父の新しく迎えるはずだった后を、横から奪い取った。オオキミの嘆き以上に、オウスの嘆きは大きかった。その夜、オウスは、兄を斬った。


 私は、ぐったりとした体を引きずるようにして、自分の屋敷へ帰ってきた。下人たちはもう皆眠っていた。私は飯炊き場で水を一口だけ飲むと、そのまま寝床に倒れこんだ。


 翌日は、昼近くまで私は眠った。ようやく起き出したときには、心は決まっていた。下人に言ってチタリに遣いを出した。


 私は、この屋敷を去ることを決めた。下人たちも里へ帰し、ただ一人、郊外の、名も知らぬ山の中に庵を編み、そこで世を捨てて暮らしたい、私は、チタリにそう申し出たのである。


 返事は夕刻に返ってきた。懇ろに私の今までの労苦をねぎらう内容であった。彼は、私の願いを許可してくれた。


 チタリの曽祖父が、大陸から流れ着いた学者であったと知るのは、それから随分あとのことであるが、兎角、私はこのとき、素直に彼の好意に甘えることにして、その日のうちに、下人たちをそれぞれの里に帰したのである。


 オウスの屋敷に連絡は入れなかった。


 屋敷を出る日、私は、オウスの屋敷の門の前で、一度、足を止めた。門は固く閉ざされていた。軒下に、燕の巣の跡があった。雛鳥のうぶげが、泥と一緒にこびりついたままになっていた。私はそれをいつまでとなく見つめていた。

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