十四.かぐつちの神

 十日が過ぎた。


 ある日の深夜、私は急な使者に叩き起こされた。オオキミの后が急に産気づいたということであった。私は寝巻きのまま輿に乗り、直ちにその屋敷へと向かった。


 私は愕然とした。産屋は血の海であった。女官たちが身を寄せ合ってその中で震えていた。妊婦は両足を投げ出したまま、白い腹をむき出しにして苦しんでいた。股の間からは子供の頭が半分だけ出ていた。べったりと頭皮に張り付いた髪の毛が見えていた。しかし、それは血にまみれたまま、どす黒い色をして動かなくなっていた。私は周囲にいた者たちを恫喝した。すぐに必要な道具を揃えさせた。手遅れなのはわかっていた。


 赤ん坊は死んで生まれてきた。そして明方になって、母親のほうも死んだ。朝日が差し込む時分になって、私自身もようやく我を取り戻した。私は全身を血に汚し、汗か涙か汚物かもわからぬ水で目が曇っていた。女官が布を持ってきてくれたので、私はこれで顔を拭った。顔を繊維に押し付けると、そのまま気を失ってしまいそうであった。


 ふらふらと産屋を出ると、表にはチタリが立っていた。他にも何人か官人たちがいた。彼らは互いに何かをひそひそと話し合っていたが、私のほうを見ると急に目をそらした。私は思わずそれをじっと見つめた。すると、チタリが私のほうへと近寄ってきた。彼は鳥の嘴のように薄い唇を突き出して、私の耳元でこう言った。

「呪詛ということは?」

 私は思わず聞き返した。チタリは、眉根を寄せて、周囲をうかがいながらもう一度、

「呪い殺されたのではないか」

 と言った。


 女官たちが別室に着替えと床を用意してくれていたので、私は清潔な衣服に着替えてから、そこで少し仮眠を取った。目が覚めるとちょうど家から迎えの輿が来たところで、私はそれに乗って帰途についた。


 だが、その途中、私は驚愕した。オウスの屋敷を、軍勢が取り囲んでいた。兵の一人が、門の前で、矛を差し上げながら声高に罪状を申し立てた。后呪殺の咎であった。


 このときの私の視界からは、みるみるうちに色が褪せていったように思う。引き攣れを起したような兵士の高ぶった声も、だんだんと遠くなっていった。そして心の中にわだかまっていた灰色の澱のようなものがやがて黒い形を成すのを知った。正体は知れたように思う。大きな狼の影のようなものであった。


 私は、これが、ヤマトか、と思った。


 屋敷に戻ると、縁側に立ってオウスの屋敷の様子を伺い見た。雲が低く、屋敷の屋根は曇天にふたがれたようであった。


 私は身震いした。吐く息が白かった。手を頻りにさすった。


 急に屋敷の裏手が騒がしくなった。飯炊き場のほうから女たちの騒ぐ声がするので、行ってみると、そこにはオウスの侍女たちがいて、下女たちと押し問答をしていた。侍女たちは私の顔を見ると、皆一斉に声をあげて泣き始めた。そしてその場に額ずいて、私にオオキミへの取り成しを請うたのである。彼女たちはオウスの無実を訴えていた。


 私は彼女たちを屋敷の中へ上げた。だが正直なところ、私も混乱していたといっていい。何を尋ねても侍女たちは、「オオキミ様はオウス様をお疑いなのです」と、うわ言のようにそう繰り返すばかりであった。


 それからまもなくである。下人が報せたのか、チタリが他の官人たちと共に私の屋敷にやってきた。彼は下人の案内も待たず中に上がりこみ、身を寄せ合って震えている侍女たちを見つけると、ふんと鼻を鳴らした。そして私の顔を見るなり「罪人をかばうのか」と言った。

「オオキミ様は、オウス様がお后と赤ん坊を呪殺したとお疑いなのだ」

 それに対して私が「何故」と問うと、侍女たちも口々に同じようなことを言った。チタリは答えた。

「オオキミ様は、弟君がお生まれになったら、そちらに皇位を継がれるおつもりだったのだ。皇位を狙うオウス様にとっては、邪魔な存在であろう」

「だから殺したっていうの!」

 侍女の一人が立ち上がってチタリに食ってかかろうとしたが、他の官人たちに制止された。


 私はこのとき寒々しい思いで一杯であった。体が凍てついていた。首から上だけが熱かった。チタリは大声をあげた。

「現にオウス様は兄君を殺している」彼は拳を握り締めていた「皇位にそういう執着のある方だ!」


 私は下女たちを呼んで侍女たちを奥の部屋に連れて行かせた。他の官人たちも隣の部屋に控えさせた。私はチタリの袖を引くと、縁側のほうに促した。縁台に出てみると、外気は冷えていた。私は彼に向き直り、言った。

「虚しい議論だ」

「何故」

 私はため息をついた。そしてこう言った。

「死んで生まれてきたのは、女児だったんだ」

 チタリは目を見開いた。唇を固く引き結んだ。私は続けた。

「オウス様のお考えなんて知らない、だが、殺す理由などないんだ」


 夕刻を前に、軍勢は引き揚げられた。私は下人を何人か付けてやり、侍女たちをオウスの屋敷へと帰した。


 チタリはしばらく私の屋敷にいた。押し黙ったまま縁側に座って、オウスの屋敷のほうを見ていた。私は一杯の白湯を、その傍らに差し出した。彼は一瞬だけ、戸惑うような表情を見せた。だが、唇を突き出して、一口飲むと、地面に目を落とし、呟くような訥々とした調子で切り出した。その話によれば、オウスは五年前に、当時皇太子であった実兄を殺していた。理由はわからないという。ただ、その兄が、夜中に便所に立ったところを、後ろから斬り付けて、そのまま川に放り込んだというのだ。


 心が波立った。私はチタリの隣に座った。足の先が痺れるような気がした。感覚が失せていた。


 オウスの屋敷のほうを見た。ちょうど黒い梢から、烏が一羽飛び立つところだった。ばらばら飛び散ったのは、木の葉なのか、羽なのか定かではなかった。


 チタリは一気に白湯の杯を干し、朝廷に戻ると言ってその場を立った。私はこれを門まで見送りに出向いた。彼は、輿に乗るときになって、こちらを振りむくと、尖った鼻を掻いて、鼻を鳴らし、空を仰いで、言った。

「オオキミ様は、兄君様の件以来、オウス様のことをよく思っていない」

 彼は私の肩を叩くと、輿に乗った。

「あの方にはあまり関わらないほうがいい」


 翌日、私は朝早く起き、下人たちを連れて外出した。白い薄明かりの曇りの日だった。薬草の採れるような場所を探して郊外のほうまで足を伸ばした。稲田は刈りいれが終わって、どこも地面が剥き出しになっていた。油っぽい、濃い土のにおいがした。霜柱を見つけた。足跡が深くついたところにだけ霜柱が立って、土くれを横様に押し上げていた。踏み潰そうか、一瞬だけそう思ったが、結局できなかった。

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