十一.貫きたる玉の緒

 その夜は随分深く眠ったように思う。珍しく夢を見たのだ。


 私は木立の中にいた。緑色の下草が露に濡れて光っている。目の前には深い淵があった。青白い岩間に魚がたくさん集まっている。ああ、ここは来たことがあるぞ、と私は思った。するといつの間にやら目の前に人がいる。腰に葛の巻きついた太刀を佩いた青年である。彼は岩に腰掛けて、太公望のように瞑想しながら釣り糸を垂らしている。にわかに、糸が強く引き、彼は体勢を崩した。

「陛下!」

 咄嗟に私は後ろから彼を抱きかかえた。釣竿に手を添えて、一緒になって竿を引いた。随分格闘した。まもなく、大きな魚があがった。太った鱒だった。鱒は岩の上で何度も跳ね、そのたびに虹色の鱗がきらきらと飛び散った。

「こいつはうまそうだ!」王は言った「屋敷に戻ったらこれで一緒に酒を飲もう」

 だが、彼はふと私の顔を見ると、あの、笑っているような泣いているような、寂しい顔をしたのだ。

「いや、よそう」彼は言った「あなたはもう、私のところへは、戻っては来ないだろう」


 翌朝目覚めると体が重かった。雨は止んでいたが、外は夜のように暗い。咆哮のような波の音だけが聞こえた。屋敷の中もまるで墓の中のような静寂であった。私は寝台に腰掛けた。やけに心臓が強く脈打っていた。


朝食を持って侍女がやってきた。彼女は膳を整えながら、今朝方オウスは出掛けたと言った。

「早速あの太刀をタケル様に献上するのだと大変お喜びでしたよ」

 彼女は私の顔を見た。だが、私の顔色の青白いのを見て少し驚いたようであった。すぐに白湯を用意すると言った。私は侍女の言葉をぼんやりと聞いていた。太刀?ああ、あの太刀、というくらいでいた。

「オウス様は陛下のお屋敷に向かわれたのか?」

 私がそう尋ねると侍女は首を振った。

「いいえ、オウス様からお誘いして二人でお出かけに」

 それを聞いて私は立ち上がっていた。

「誘う?」

「ええ、水浴びですって」

 私はうろたえていた。侍女は袖で口元を押さえてこう言った。

「こんな季節におかしいですわよね。しかもこの雨でしょう。増水して危ないから皆でお供いたしますと申し上げたのですけれど」

 私は気付くと侍女の手首を掴んでいた。踏み出した足に膳が当たってひっくり返った。彼女は声をあげた。

「では今、彼らは二人っきりなのか?」

 私の問いに侍女は強張った顔でうなずいた。


 私は裸足のまま外へと飛び出していた。強い風に煽られて結い上げていた髪が落ちた。だが、私は狂ったように振り乱したまま走り続けた。私はきっと舌をだらしなく出した山犬のようであったろう。息を切らし切らしただ走った。


 王の屋敷の前には女官たちが何人か群れていた。彼女たちは屋敷の前を掃き清めていた。

「何をしている!」私は声を荒らげていた「どうして王を一人にしたのだ!」

 彼女たちは一斉に箒を取り落とした。強風が吹いた。彼女たちの袖や裳裾を乱した。女官の一人は青褪めた顔で「まさかそんなことは起こらない」と言った。

「今朝方お二人はご愛用の太刀を交換したのです」彼女の声は上ずっていた「仲睦まじいご様子でした!」

 しかし彼女たちは抱き合うと、袖に顔を押し当てて泥の上に崩れ落ちた。


 私は川へと向かった。川辺の風景は一変していた。川は濁流になっていた。まるで黒い龍であった。ごうごうと唸りをあげていた。ほとばしり、猛っていた。対岸の家がじりじりと前にのめったかと思うと、波の中に吸い込まれるように落ちた。そして一つの波に撫でられるなり、瞬く間に波間に散り散りになった。


 心臓を他人に握られている気分だった。こんな思いは過去にただ一度だけだと思った。故郷の村から一筋の黒い煙の立つのを見たときだけだ。爪の食い込んだ感触すらするようであった。


 私は岸沿いを二人の姿を探して回った。狂った山犬のようにうろうろした。しかし幾多の支流に到るまで悉く増水していて、水浴びなどできるような場所はどこにもなかった。


 私は自分の家のあったところへ戻ってきた。地面に黒い焼け焦げだけが残っていて、あとは何もかも片付けられていた。私はかがみこんで、灰と泥の交じり合った土に爪を立てた。そのときに私ははっとした。すぐに裏手の山に入り、細い獣道を抜けた。その場所は変わっていなかった。木立の下に深い淵がある。水量こそ増えていたが水は澄んでいた。いつか王と釣りに来た場所であった。


 思った通りであった。岸辺の青白い岩に、濡れた足跡がいくつか残っていた。そしてその先に、二つの衣服が脱ぎ捨てられているのを見つけた。一つは絹の白い上着で、内側にクマソの赤い櫛が包まっていた。もう一つは、この国の人間の好んで着る、袋に穴を開けただけの粗末な服だった。その近くには貝殻の首飾りが引きちぎられて、地面に散乱していた。


 私は辺りを見回した。太刀が無い。二人とも腰に佩いているであろうはずの太刀がどこにも置いていなかった。


 私は空を見上げた。背の高い木々に囲まれて、四角く切り取られた灰色の空しか見えない。耳をすましても私の息遣いしか聞こえない。私は跪いていた。


 太刀! ああ、あの太刀! と私は思った。


 私は自分を呪った。あれは、この日この時のためにあったのだと思った。


 ゆっくりと体温が下がっていくのがわかった。私は空を見上げていた。山犬のように口をだらしなく開けて、見えないものを見ようとしていた。私は手を合わせた。泥まみれの骨ばった手は、血の気を失っていた。


「あの太刀を取ってはいけない!」私は大地に額づいた「あの太刀は、抜けないのだ!」


 ぎゃあ、と、カラスが鳴いた。目の前の木立の向こう側から飛び立った。狂った羽音だった。一羽、二羽、いや、もっとそれ以上いた。一叢の黒い塊になって、けたたましく泣き叫びながら、空へ躍り上がっていった。


 またすぐに静寂が戻った。耳がつんとするほどの静寂だった。


 私は顔をあげた。本能的に、済んだ、と思った。


 淵の水が次第次第に濁っていった。私はそこに視線を落としていた。青白い水がとろとろと黒くなっていく。墨の一滴を落としたような渦を巻く。どろり、と、腐った魚のはらわたのような、赤黒い塊がどこからか流れ込んだ。岸辺に白い木の枝が打ち上げられた。葛の絡まった古木の枝だと思った。だがそれをぼんやりと見つめるうちに、それと悟った。それはあの太刀だった。唐草文様に埋め尽くされた抜けない太刀であった。私がようやくにしてそれを拾い上げる頃には、淵は真っ赤な血に染まっていた。水面に落ちた紅葉には、長い髪の毛が絡まっていた。


「ヤツメサス―――」

 どこからかそう声が聞こえた。歌声だった。私は息を止めた。周囲を見回したが、声は、辺り一面のどこからも聞こえてくるような気がした。

「―――イズモタケルが佩ける太刀」

 私は声の方向を悟った。背後だった。少年の声は笑いを堪えて震えていた。私は太刀を強く胸にかき抱いたまま、ゆっくりと肩越しにそちらを振り向いた。上半身裸の少年が立っていた。右手に青銅の太刀を持っていた。柄に玉石のはめこまれたイズモの太刀である。その切っ先からは粘り気のある黒い雫が滴り落ちていた。脂身のような白い塊が網状になって刀身を覆い、その合間合間に血が溜まっていた。

「偽物だと知らずに抜こうとしたんだ」彼は笑った「おもしろいな」

 オウスは脱ぎ捨てられた王の衣服を取り上げると、それで太刀を根元から拭った。


 悲鳴のように雷鳴が轟いた。途端に雨は激しくなり、石礫を打つような、大粒の雨が降りしきった。私は葛の巻きつく偽物の太刀を胸に抱きしめたまま、泥の中にうずくまった。身を強張らせて雨の打つままにしていた。柄には指紋が残っていた。血のついた手で握り締めた跡だった。雨に濡れてその跡は次第次第に滲んでいき、薄紅色の生暖かい水になって、私の腕を伝い落ちた。太刀は重たかった。まるで人間の体のようであった。私はそれをずっと抱いていた。王の体をそうするように。


 とかく、イズモタケルは、こうして死んだのだ。嵐の日であった。

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