十.黒葛さわまき
いよいよ日の昇る頃になるとさすがに男たちの歌声は聞こえなくなり広間も静まった。私は部屋に戻った。窓から白い朝日が差し込んでいた。寝台の上に横たわったが眠れなかった。
私は侍女に言って、小刀と適当な木の枝を持ってこさせた。私は寝台に腰掛けて彫刻を始めた。体は眠たかったが脳のほうは冴えていた。私は一心不乱だった。ハルメの微笑んだ顔を頭に思い浮かべていた。すぐに親指ほどの大きさの兎ができあがった。耳を垂れて丸まった兎だ。袂に入れておいて今晩にでも渡せばいい。せめてもの慰めになったらいい、と私は思った。もう私たちは慰めあっていくしかないと思っていたのだ。
いつの間にか私は眠っていた。目が覚めたのは昼頃であったように思う。体が冷え切っていた。関節が痛んで、私はいたたまれなくなって部屋を出た。
そのとき廊下に控えていた侍女たちの話し声が聞こえた。
「ハルメが―――」
私は取り乱した。すぐに外へ飛び出して縁側に走り出した。欄干に取り付いて身を乗り出した。木枠を組んだだけの粗末な輿が屋敷の門を出て行くところだった。輿の上にはハルメがいた。昨晩と違って髪は美しく結い上げられていた。そして彼女の隣には男がいた。痩せた骨ばった背中が一瞬だけ見えた。だが二人の乗った輿は垣根の陰になってすぐ見えなくなった。
私は誰もいなくなった門の向こうをしばらくのあいだ見つめていた。風に吹かれて前髪がばらばらと落ちてきた。私はそれを風のするままに任せていた。
王だ。それくらいすぐにわかった。
膝から力が抜けていくのがわかった。風の音しか聞こえなかった。
王はハルメを迎えに来た。オウスからハルメを取り戻した。ハルメだけを、連れて帰った。
私は打ちひしがれた気持ちになって、自分の部屋に戻った。私は寝台に突っ伏した。体が凍ったようだった。耳だけが熱かった。
つまらない自尊心が邪魔をしたと思った。侍女たちに一番聞きたかったことはとうとう口にできなかった。私のことは?――と、何もかもかなぐり捨てて、縋り付くように聞けばよかったのだ。私は鼻を鳴らした。
随分そのままそうしていたように思う。オウスが部屋に入ってきたことに気付かなかった。彼が私の背中に手を置いた時になってやっとそうと知った。掌が燃えるように熱かった。私はそのままその熱を全身に感じていた。
「イズモタケルは薄情だ」
オウスは囁くような、とろけるような、ひそめた声で言った。彼は寝台に腰を掛けた。
「どこへなりとも行けとさ」
彼が私の耳元で囁くと、耳の穴に彼の生暖かい吐息が感じられた。気がつくと、彼は、母親が子供にするように、私の頭を胸に抱きかかえていた。彼は私の頭をかき撫でた。髪の筋に沿うように指が這った。
「かわいそうな張旦」
オウスはそう言った。彼の肌からは甘い匂いがした。
この日の夜、私は今まで伸びるがままにしていた髪を肩口まで切った。そして頭にたっぷりの油を付けて、残った髪を大陸にいた当時同様にきつく結い上げた。切り落とした髪は白い布に包んで川に流した。葬列を見送るような気分だった。
それから私の生活は今までと一変した。起床するとすでに侍女が膳に朝食の用意をしていてくれる。それを食べ終わると、薬の調合の仕方などを記録し、オウスの側近たちに簡単な医術を教えた。夜は大抵が宴会であったが、これには私は参加せず、部屋で食事を摂った。私は部屋に引きこもっているのがほとんどだった。外気に当たるのが辛く感じられたからだ。痩せたこの頬をさらして、この国の中を歩くことなど、到底できないことのように思われた。
オウスがいつまでこの地に逗留するつもりなのかは誰もわからなかった。彼は毎日のように軍卒たちを引き連れて狩りに出かけていた。今日は海岸線、明日は北の山、と、まるでこの国の隅々まで目をこらして獲物を探しているかのようであった。
七日ほど経ったある日のことである。その日は一日中薄暗い雨が続いた。ようやく秋色に色付いてきた木々も皆しおれたように頭を垂れていた。部屋の中にいると雨音だけしか聞こえなかった。外気は冷えていた。結露がひどかった。
昼過ぎに侍女がやってきてオウスからの命令を伝えた。この国の地図を作るように、ということであった。資料はすでにあった。彼は狩りのあいだ中、側近に地形を木簡に写し取らせていた。私はそれらの木簡を床に並べ、隣に一枚の大きな白い布を広げて、一国の地図を描き続けた。もっとも大陸で見た地図の見様見真似である。だがそれでも文物を知らぬ倭人たちには新鮮なものに違いなかった。私は集中した。筆を進めているときだけが、何もかも忘れることができた。
ただし筆が、北の海岸線を描いたときだけは、初恋のように胸が苦しくなった。確か「神の寄り来る浜」といった。私が流れ着いた浜辺であった。遠い昔のような気がした。次に湖を描きこみ、次には川の流れを走らせた。手が止まった。いつか王と釣りに出掛けたことがあったのを思い出した。秘密の場所だと彼は言っていた。青く透明な淵に太った岩魚が集まっていた。あの時も王は、笑っているような泣いているような、そんな顔をした。最後に私は、王の屋敷の場所を書き込んだ。無意識のうちに黒く塗りつぶしていた。筆を引き上げたとき、墨が垂れた。塊になって画面に落ちた。血のような痕になった。その時だけ、にわかに雨が強くなった。彼方に雷鳴が聞こえた。私は、呆然と画面を見つめていた。
次の日は朝から激しい雨になった。夜のような暗さであった。地面を穿つほどの大粒の雨が降った。山の紅葉はすっかり色褪せた。国中が死んだようになった。昼過ぎにまた侍女がオウスからの命令を伝えにやってきた。次は大陸風の太刀を作ってほしいということであった。しかし私はこれは断る他なかった。私は鍛冶ではない。大陸にどのような太刀があるかは知っていても実際に作ることはできなかった。その旨を伝えると、侍女は、
「拵えだけでも大陸風のものが欲しいとのことです。祭祀に使うものですから刀身は偽物で構いません」
と言った。彼女は櫟の太い枝を持ってきた。古木であった。老人の足のように節ばって苔むしていた。私はこの皮を剥いで、小刀で丁寧に表面を削った。白い乙女の足のようになった。
「オウス様が、どうしてもタケル様に献上なさりたいのだそうです」
侍女はそう言った。私はこの件を承諾した。侍女が去ったあと、私は夢中になっていた。木の一面に西域風の唐草文様を刻み込んだ。細密な作業だった。赤ん坊の爪を切ってやるときの気分に似ていると思った。一筋一筋を、息を止めて、彫りこんだ。
イデヒコはこの雨の中どうしているだろう、と思った。急に私がいなくなって驚いているかもしれない、火事になった私の家を片付けてくれいるかもしれない、小刀を慎重に進めながら次々とそんなことを考えた。すると、今まで請われて尋ねていった病人のいる家のことが次から次へ思い出された。助けてやることができないこともあったのに、どの家も、私に謝礼として食べ物を持たせてくれた。子供と遊んでやることもあったな、と思った。どこの家も最低で五人は子供がいた。こんな得体の知れぬよそ者を皆よくしてくれた。皆素朴であった。
誰よりも王がそうだった、と思った。初めて会った日も、私に「タケル」と名前で呼ぶように言った。毎日のように参上して酒を飲んだ日々があった。肴はせいぜい小魚一匹だった。それでもうまかった。彼が毒を飲んだときほど、動転したことはないように思われた。彼は息を吹き返したときも悲しそうに笑ってはいなかったか、私はそう思ったとき、ふと手を止めた。雨の音だけが聞こえていた。
その日の深夜、私はとうとう一振りの太刀を彫り上げた。もっとも一本の枝から彫りだしたものであるから、鞘から抜くこともできないまるっきり見かけだけの太刀である。ただし鍔には龍を彫りこみ、柄から鞘にかけては、西域風の唐草文様に埋め尽くした。まるで、太い葛の蔓が絡みついたようだった。それは大陸風の拵えではなかった。私の感情のほとばしるままに浮き彫りにされたものであった。情念だったのかもしれない。
私はその太刀を帯に差すと部屋を出た。廊下はべっとりと絡みつくような闇だった。私はその中を滑るようにオウスの寝所へと向かった。部屋の前まで来ると彼の寝息が聞こえてきた。私は部屋の中に入った。窓の外で稲光が閃いた。その一瞬、青白い敷物の上に、体を丸めて眠っているオウスが見えた。少女のようだった。すぐに再び部屋は暗闇に閉ざされた。私は目に焼きついた風景を頼りに、そろそろと彼の枕元まで行くと、腰から太刀を抜いた。右腕の筋肉が引き攣った。振りかぶっている自分に驚いた。切っ先はオウスの細い首を狙っていた。私は深呼吸をした。そして、太刀をそっと彼の枕元に置いた。再び稲光が閃いた。太刀の影がオウスの顔に落ちた。黒い太い葛の蔓が彼を絡め取ったようであった。私は怖くなった。逃げるように部屋を飛び出した。そのとき声が聞こえた。
「ヤツメサス―――」
ぎくりとして振り向いたが、再び耳をすましても聞こえるのはオウスの寝息だけだった。聞いてはならぬ者の声を聞いたかと思った。私は廊下を走って自分の部屋に逃げ戻った。
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