九.まつろわぬ者たち

 それからまもなくオウスは自分の軍卒たちに命じ、老臣たちの遺骸を王の屋敷に届けさせた。そして私を連れて自ら王との謁見を乞うた。王はこれを承諾した。王はいつもの部屋に我々を通した。王と我々のあいだに、二つの遺骸は置かれた。静かな白い塊だった。


 私は死んだような気持ちでいた。王の顔を見ることができなかった。部屋の隅にひれ伏して、額を床に押し当てた。もうそれきり顔をあげることはできなかった。目を開けることさえできなかった。


 だがオウスは違った。部屋の中央に立つと、太刀の切っ先で二つの遺体を指し示しながら、彼らが私を殺そうと火を放ったこと、捕らえようとしたところ剣を振りかざして向かってきたこと、そして、それを斬ったこと、それらを朗々と、まるであらかじめ決められていた台詞のように語って聞かせたのである。それはまるで子供たちに英雄譚を物語る語り部のようであった。


 一方で王はずっと押し黙っていた。白い布にくるまれた二つの骸を前にして、彼はじっと黙ってオウスの話を聞いていた。いつもの部屋の、いつもの獣の皮の上で、目を閉じ、唇を引き結び、瞑想するかのように座していた。


「おれは友を狙った賊徒を斬ったのです」オウスは言った「それがタケル様のご側近とはまさか」

 彼は笑っていた。声を押し殺していた。だが間違いなく、堪えきれない笑い声が、言葉の端々に漏れていた。

「これは決してタケル様への反逆ではないのです、おわかりいただけますね、やむをえぬことでした」

「――お話は、よくわかりました」王は蚊の鳴くような声で答えた「過ちを犯したのは彼らです」

 王はため息をついた。秋風のような、深く寂しい音だった。

「何故私に黙って――」

 それっきり彼は黙った。泣いているのかもしれなかった。だが、私にはわからなかった。


 オウスは鼻を鳴らした。得意げな笑いだったのか、王をせせら笑ったのか、そのどちらかだったのだろう。彼は王に丁寧に感謝と詫びの言葉を述べると、部屋を退出していった。


 部屋には、王と、私と、物言わぬ骸だけが、残された。風が吹きぬけた。王の髪の毛がさらさらと音をたてた。


 私はひたすらに額づいていた。揃えた指先を動かすこともできなかった。


 ぎし、と床が鳴った。間を置いて、ぎし、ともう一度。王の足音が近付いてきた。ぎし、深く重く、ぎし、確かめるように、ぎし、氷を踏みしめるように。


 足音は私の目の前で止まった。また風が吹きぬけた。王の髪の毛の音が鳴る。王はため息をついた。今度は、深く暗い、冬の風のような音だった。


 私は肩口を蹴り上げられた。私の体は跳ね上がった。もんどりうって背中から床に叩きつけられた。今度は腹に一撃。私は蟇蛙のような声をあげた。


 そのとき私は初めて王の姿を見た。彼の目は燃えていた。青白い炎に燃えていた。息をはずませ、肩を上下させ、唇を白い歯で噛み締めていた。彼はもう一度、私の腹を蹴り上げた。

「お前は」彼は私の喉仏を踵で踏みしめた「この国にどれだけ災厄をもたらせば気が済むのだ!」

 私は蟇蛙のようにあえぎながら、王の足首に取り付くしかなかった。王の足は震えていた。


 やがて王はもう一撃を私の胸に加えると、踵を返して部屋を出て行った。とうとう一度も振り返ることなく、鈍い深い足音を鳴らしながら。


 私は咳き込みながら手を伸ばすのがやっとだった。遠ざかっていく、やがて小さくなっていく、王の背中を、何度も空中に掴もうとした。指は虚しく空中をかいた。何度も何度も、空気をかいた。爪の先にも何もかからない。王の背中は、指の間から消えていった。やがて見えなくなっても、私はずっと指の間から、彼の背中を見ようとしていた。いつまでもそうしていた。


 女官たちが部屋の戸口に集まって、私の様子を覗き伺っているのがなんとなくわかった。押し殺した話し声がしばらくのあいだ聞こえていた。


 やがて女官たちに促されて屋敷を出ると、そこには丹塗りの輿が私を待っていた。赤銅色の甲冑を身に着けた四人の軍卒が、私にむかって拝礼し、乗るように言った。オウスからの迎えだった。


 このときの私には、これを拒む気力はもはやなかった。どしゃぶりの雨に打たれたあとのようだった。すっかりずぶぬれになったこの身に、もう笠や蓑がいらないのと同じように、促されるまま、導かれるままに、私は輿に乗った。何も考えられなかった。からっぽのこの身を、淵に投げ捨てるのと、同じような錆びた心持だ。あとは流れていくだけで、それがどこへ行き着くのかは、私の意志ではどうにもならないことだと思った。


 担ぎ上げられた輿はまさに水面を流れるかのようであった。みるみるうちに王の屋敷が遠ざかっていった。私は振り返った。私の意志とは関係なしに、次第次第に、屋敷は小さくなっていった。


 途中、川を渡るあたりで、イデヒコを見かけた。狩りの帰りのようだった。彼はまるまると太った山鳥を肩に担ぎ、踊るような足取りで岸沿いを歩いていた。鼻歌を唄っていた。きっと今宵は家族で身を寄せ合って鍋を囲むのだ。私は自分の手を見た。痩せて骨の浮いた浅黒い手だった。子供たちはきっと父の帰りをわくわくしながら待っているのだろう。そんなことを思いながら、私はささくれ立った手を撫でた。


 輿は湖畔で止まった。波打ち際に女たちの群れがあった。歓声があがった。女たちは裳裾をたくし上げて裸足で駆け回っていた。輪の中心にはオウスがいた。侍女たちと水遊びをしているのだった。袴の裾を太股で括っていた。白磁のような足が露わになっていた。彼は白い脛で水面を蹴りあげた。飛沫があがって女たちが笑う。彼も子供のようにきゃっきゃと笑う。侍女の一人が尻餅をつくと、皆一斉に指を差して囃し立てた。


 私は輿を降りた。しばらくそこに佇んだままその様子を見ていた。オウスは子犬のように女たちとじゃれあっていた。はじけんばかりの笑顔そのものが水しぶきのようだった。しかし私はかえって陰鬱な気持ちになっていた。私の幼い娘が蜻蛉の頭をむしったときのことを思い出した。本人は遊んでいるつもりだったのだ。あの時も、水しぶきのような笑顔だった。


 オウスがこちらに気付いた。彼は手を振った。

「張旦も一緒に遊ぼう」

 私は波打ち際までは行ったものの、その輪の中には入る気になれなかった。オウスはもどかしそうにしばらく私を見ていたが、再び侍女たちと水を掛け合い始めた。一人の侍女がつまずいてオウスの胸に取り付いた。オウスがこれを抱きとめた。


 その侍女のこちらを振り向いた顔を見て、私は凍りついた。王の女官の一人だった。王が毒を飲んだときには、枕元で一晩中泣いていた。一番年若の娘だった。彼女は私に気付くと青ざめた顔をした。袖でその顔を覆った。


「先に行っていてくれ」

 オウスは娘の頭をかき撫でながら、私に向かってそう言った。

「今夜は宴だ」

 私は自分の脈拍が弱くなっていくのを感じた。


 私は再び輿に乗せられ、湖を臨む屋敷に連れて行かれた。それは王の屋敷と同じくらいの邸宅であったが、真新しい垣根が幾重にも取り囲んでいる上に、昼から篝火が焚かれ、そこここに矛を持った番人が置かれていた。これが、新たに用意されたオウスの宿所だった。


 私は中に通された。十名以上の侍女が私を待っていた。彼女たちは、私のために新しい装束を用意していた。そしてすべて取り替えさせてから、この屋敷の一番奥、湖の見える部屋に私を通した。壁には大陸の絹織物が掛けられていた。寝台もあった。枕元には西域風の唐草文様の香炉が置かれ、そこには私の好みの香が焚かれていた。それらを一つ一つ見るにつけ私は寒々しい気持ちになった。それは、オウスが用意した、私の部屋だった。


 私は湖に面した窓辺に座り、湖を見た。寒々とした灰色の水面は、静かだった。波音は聞こえなかった。随分そのままそうしていたのだと思う。いつの間にか日は落ちて、外はただひたすらの暗闇に閉ざされていた。


 夜半過ぎになって広間で宴会が催された。膳が並べられたが、料理がすべて乗り切らなかった。猪の肉や鹿の肉が、皿にうずたかく盛られて床に置かれた。酒は甕に三つ用意された。侍女たちが四人がかりでも運べないほどの量だった。私は一番末席に座した。イデヒコの一家ならば、この肉と酒で一年は暮らすだろうと、そんなことを考えていた。


 宴席に集ったのはオウスの側近たちだった。皆体躯のいい屈強な兵士たちである。灯りに照らされて、腕の筋肉の筋の一本一本がつやつや光る、そんな男たちばかりだった。人数は軍隊というには多くない。十名前後の精鋭を側近として連れてきたそんな印象がした。彼らは冗談を言い合いながら次々と杯を干す。皆声が大きかった。中でも大きな声で笑っていたのはオウスであった。彼は黒々と輝く熊の毛皮の衣を羽織り、角髪に真っ赤な漆の櫛を差していた。いずれもクマソの首領から奪ったものだという。彼は熱っぽく唾を飛ばしながらクマソとの戦いを語っていた。


 私も杯の数が重なった。だが食事には手を付けなかった。誰とも口をきかないでいた。部屋の隅にうずくまるような格好で、背中を丸めてひたすらに酒を飲んでいた。


 男たちの所望で侍女たちが舞を舞った。その中に、王の女官だった先程の娘もいた。彼女は私の目に曝されることを怖れてか、終始袖で顔を覆ったままであった。腰の細い娘だった。裳裾からわずかに見え隠れする足首も細かった。足の指が冷えて赤くなっていた。


「いい娘だろう」

 オウスは立ち上がると、まるでガチョウのように銚子の首を掴みあげて、ふらふらとこちらにやってきた。そして私の膳を足で横様に払いのけ、そこに腰を下ろし、悪戯っぽく笑って、

「イズモには勿体無いとは思わないか?」

 と言った。

「王から奪ってきたのですか、この私のように」

 私がそう言うと彼は例の金属製の甲高い笑い声をあげた。

「一国の王が気にするとは思えないな、たかが女官の一人や二人」

 彼は瓶子ごと酒をあおった。喉仏がぐっぐっと唸った。息をつくと彼はこう続けた。

「あの娘の家族になら充分な対価は支払ってきたさ。母親は、娘がヤマトで綺麗な衣装を着て、満腹するまで飯が食えるんだったら、それで構わないと言ったよ。もともと兄弟が多くて生活が苦しかったのさ」

 彼はそう言って唇を舐めた。油のようにぬらぬら光った。私は拳を握り締めてこう言った。

「娘を買ってご自分のお側女にするとは、一国の皇子のなさることとは思えません」

「おれの女にはしない」

 彼の目つきが急に冴えた。

「父上に献上するんだ」と彼は言った「皇后だ、いや、いずれはきっとヤマトの国母になる」

 彼は笑った。今度は口角を引き攣らせた笑みだった。彼は私の杯を奪い取ると、それを飲み干した。


 宴会は明方まで続いた。私はずっと杯の底の一点をじっと見ていた。心は動かなくなっていた。色々なことを考えているのかもしれなかったが、それも自分でよくわからないほどだった。頭の中は粘着質の渦を巻いていた。今自分は眠っているのかもしれない、と思った。空が白み始める頃になって、私は堪りかねて広間を辞し、縁側へ出た。夜風に当たった。すぐに手先がかじかんだ。縁側から庭のほうに身を乗り出しみる。高い垣根に閉ざされてしまって外の景色は何も見えない。紫紺色の空だけが四角く切り取られていた。ぽっかりと穴のあいたような、白い月が浮かんでいた。


 すんすん、という、すすり泣く声を聞いた。見れば少し下りたところの階に女が腰掛けていた。膝を抱えて顔を埋めている。髪が乱れて櫛が落ちかかっていた。私が近寄ると彼女は顔をあげた。やはり王の女官だったあの娘だった。子犬のような顔をしていた。まぶたが赤くなっていた。名前を尋ねると彼女は小さな声で「ハルメ」と言った。


 私は彼女の隣に腰掛けると、彼女と同じように膝を抱えた。薄暗い地面に視線を落とした。地面はまだ夜の色をしていた。しばらく二人とも押し黙っていた。風が吹いた。

「私たち二人ともヤマトに連れて行かれるのね」ハルメはそう口を開いた「怖いと思ったことはない?」

 私はただ黙っていた。答えることができなかった。二人並んで、月を見上げていた。遠くで鹿が鳴いた。私は彼女の横顔を見た。桜貝のような小さな耳が赤くかじかんでいた。

「私たちタケル様に見捨てられたのかしら」

 彼女はそう言って凍えた手をすり合わせた。泣いていた。私は彼女の背中に手を置いた。夜はいつまでも明けなかった。じりじりと山の端だけが白くなり、地面はますます暗い色を落とした。


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