八.言向けせしまに

 私はまもなく老臣たちに追い立てられ、その場を離れざるをえなかった。一体何が起きたのか私にはすぐに飲み込めなかったといっていい。振り向き振り向きしながら、その場を離れていった。


 女はずっと乾いた笑い声を立てていた。姿が見えなくなるあたりまでやってきても、振り返れば声だけは届いていた。


 私は自宅に戻った。


 日の暮れる時分になって、王の老臣が二人、私のもとを訪ねてきた。彼らは私に女と如何なる会話をしたのか、細かく、執拗に、尋ねてきた。私は山中で助けられたことなどすべて正直に話したといっていい。だが、外が暗くなっても彼らの追及は終わらなかった。


 私は逆に今一体何が起きているのか、この尋問は何の意味を持つのか尋ねた。彼らは帰り際になって、ようやく、ことの次第を明らかにしてくれた。


 ヤマトの皇子はこの前年、クマソという蛮族を討伐する際に、女に化けて宴席に忍び込み、その首領を斬り殺していたのだ。


 耳にするなり悪寒が走った。


 彼らのうちの一人は言った。

「今回のことは謀略ではないと皇子は言っている。単にタケル様が自分の正体を見抜けるかどうか試してみたかっただけだと」

 するともう一人は吐き捨てるようにこう言った。

「本当のところはどうだか」


 彼らは戸口で、腰に巻いていた熊の毛皮を頭から被ると、夜の闇の中を屋敷のほうへと帰っていった。私は二人のその背中が闇の中に溶け込んでしまうまで、しばらく戸口でそれを見送っていた。


 掌には、女の絡ませてきた指の感触が残っていた。蛇の這いずり回ったあとのような気分がした。


 翌日は朝から随分と風の強い一日になった。鉛色の雲が空で渦を巻いていた。


 戸口に置いてあった水がめが倒れる音で私は目を覚ました。慌てて外に出てみると、飛んできた太い松の木の枝の下敷きになって水がめは粉々に砕けていた。風に煽られてこぼれた水まで空中に吹き上がる。唸り声のような風の音が凄まじく、それ以外は何も聞こえなかった。


 この強風であちこちで怪我人が出た。昼過ぎ頃から私はあちこちの家に呼ばれたのである。転んで足の骨を折った老婆に添え木を当ててやったり、飛んできた石で額を切った少年の傷を縫ってやった。だが、軒の下敷きになって頭を強く打った三歳くらいの女児だけは、もう手遅れで、私の腕の中で死んだ。


 夕方、私はぼろぼろになって自宅に帰った。全身を強い風に煽られて、髪も、着ているものも、なんだかずたずたに引き裂かれたような気分だった。


 だが、家に入ろうと戸口に手をかけたとき、私ははっとした。中から光がこぼれている。すると声がした。笑みを含んだような、脅かすような、不適で挑発的な少年の声だった。

「待っていたよ、張旦」


 私が中に入ってまず真っ先に見たものは、敷物の上に寝そべった少年の姿であった。少年は袴しか付けていない。裸の上半身には白い布を引き被っている。黒い角髪を真っ赤な組紐で結い、首には、乳白色の玉の首飾りを提げていた。その輝きが少年の白い肌に溶け込んでいる。

「おれが、誰かわかるか」少年は言った「わかるまいな」

 笑うと真っ赤な唇が燃え上がるような印象を受けた。囲炉裏の炎に照らされて、白い顔はますます白く、赤い唇はますます赤い。


 少年の後ろには女が二人、床に座って控えていた。錦の衣をまとったヤマトの侍女であった。


 私はしばらく言葉に詰まった。その場で跪いて大陸風の拝礼をして、それからこう言った。

「今日は、女の姿ではないのですね、皇子」

 すると彼は甲高い笑い声をあげた。鉄板に爪を立てるような金属質の笑い声だった。

「皇子はよしてくれ」彼は言った「皆、おれのことはオウスと呼ぶ」

「何故このようなところにいらしたのでしょう」

 私がそう尋ねると、彼は立ち上がった。

「タケル殿の屋敷に泊まる予定だったのだが、おれのほうから頼んだのだ、今宵は張旦のところに泊まると」

「何故―――」

 そう言いかけた私の顎を掴むと、彼は強引に私の顔をあげさせた。そして私の顔を上から覗き込んだ。

「あなたが欲しい」彼は言った「昨日も言ったが、それは冗談ではないのさ」


 彼は再び敷物の上にどっかと腰をおろすと、今度はうつ伏せに寝そべった。そして侍女たちを呼び寄せて、背中をもみほぐすよう命令した。女たちは手に香油を塗って、皇子の傍らに跪くと背中に手を滑らせた。彼は手の甲を組んだその上に顎を乗せて、真っ直ぐ遠くを見つめていた。

「弩というものを見た。若者が持っていたぞ」彼は言った「あなたが作ったんだろう?」

 私がそうだと答えると彼は笑った。

「おれは、そういうものが欲しいのさ」

 彼は目を細めると恍惚的な表情を浮かべた。侍女にもっと力を強めるよう命令した。そして言った。

「大陸の武器は能率的だ。医薬も優れている。そういうものを手にしたらヤマトはもっと強大になれる」

 私は息をすることができなかった。身を縮めて、跪いたまま体を強張らせるしかなかった。

「おれと一緒にヤマトに来い。おれならば、こんな粗末な家にわび住まいなどさせないぞ」

「それは、私に、このイズモを捨てて、ヤマトのために働けということでしょうか」

 私がそう尋ねると、彼はまた甲高い笑い声をたてた。

「そのための貢物さ!丹塗りの長櫃に五つ分のヤマトの財宝!あなたに対する充分な対価だと思うが」

「オウス様は私を買うためにいらしたのか」

「そうさ」彼は舌を出すと唇を舐めた「あなたはイズモタケルには不釣合いだ」


 私には何も答えることができなかった。私はそのまま彼に一礼すると家を出た。蛇に睨まれたような気分でいた。だが妙な高揚もあった。しばらく夜寒の中を放浪した。一瞬だけ王の屋敷に足が向きかけたが、思いとどまった。結局その日はイデヒコの家に押しかけて、彼の女房や子供たちの眠る中にうずくまるようにして一泊した。


 翌朝自宅に戻ってみると、そこにもう皇子の姿はなかった。昨晩はあのまま侍女と睦みあったようで、敷物が乱れていた。

とろけるような甘い匂いが残っていた。私はしばらくのあいだ、そこに寝転がっていたが、どうにも堪らなくなって家を出た。


 この日はいよいよ秋の気配の深まった一日だった。空の色は淡く、高かった。海も湖も、山までも静まっていた。時折、鹿の鳴く声が遠くから聞こえた。


 私は川辺を散歩しながら昨晩のことを考えていた。思い出してみるとまるで寝苦しい真夏の夜の夢であったような気がした。ただ思うのは、王に初めて会ったときも、それまで見てきた倭人とは違うと感じたが、それ以上に、ヤマトの皇子オウスは、私の知っている倭人ではなかったということだ。彼は、食うものだけを採って暮らす生活に満足はしないであろう。彼には、欲しいものがたくさんある。あまりにもたくさんある――そう考えると薄気味悪い感じがした。


 足を止めてしばらく川の流れを見ていた。白く冴えていた。音も聞こえない。水底には死んだような顔をした灰色の石が並んでいるだけだった。対岸の葦原の中に青鷺がいることに気付いた。作り物のようにじっと動かない。風が吹いた。葦原がほんの少しだけ揺れた瞬間、青鷺は右足をあげた。また、それっきり動かなくなった。


 私は昼を過ぎたあたりで山に入り、夕飯用に茸をいくらか採って、それから自宅に戻った。かまどの前に座り込んで、採ってきた茸を選り分けているとき、異変に気がついた。ものの焼ける臭いがした。私は周囲を見回した。囲炉裏にもかまどにも火は入っていない。私は立ち上がった。気のせいかと思った。だが、ぱちり、と何かが弾ける音がして、私は息をのんだ。やおら壁が火を噴いた。軒が落ちた。忽ち煙が充満し、私はその場に身をかがめた。考えている暇はなかった。出口に突進した。だが、戸が開かない。私は全身で体当たりした。それでも開かない。繰り返す。だが、戸板は軋むばかりだ。また軒が落ちた。私は声をあげた。戸板を拳で叩いた。開かない。鋲かあるいは釘のようなものが飛ぶ音がした。扉は外から塞がれていた。のどが焼け付くように痛い。咳き込む。身をかがめる。視界は暗い。軒が落ちる。火の粉が飛ぶ。私は叫んだ。床に這いつくばって、爪を立てた。


 声が聞こえた。私の名前を呼ぶ声だった。


 戸板が破れた。光が差し込んだ。視界は真っ白になった。その光の中に立つ影があった。オウスだった。彼は私を肩に担ぎ上げると外へ引きずり出した。


 背後で軒が落ちた。炎があがる。家は徐々に傾くととうとう地面に寝そべった。炎は燃え続けた。


 私の体は草むらの中に転がっていた。草むらは冷たかった。私は咳き込んだまま、ずっとそこにそうしていた。私の体を抱き起こす腕があった。冷たかった。白くぼやけた視界を彼の顔が覆った。

「しっかりしろ」

 彼はそういうふうなことを言ったように思う。しかし、私の耳には、自分のあえぎ声と、心臓の脈打つ音ばかりが聞こえていた。気を取り直すのには随分な時間が要った。そのあいだ中、彼は私の背中をさすっていた。


「火を付けられたな」彼は言った「殺されかけたんだ」

 私はその言葉に驚いて起き上がった。彼の顔を覗き込んだ。あの白い顔は煤けて汚れていたが、唇だけが赤い。口角を引き攣らせたような笑みを浮かべて彼は言った。

「あなたをヤマトに取られるくらいならいっそのこと、とでも思ったんだろう」


 彼が抜き身の太刀をその右手に持っていることに気付いたのはそのときだ。それもその太刀は、鍔元から切っ先まで黒い血で濡れていた。腐った魚の赤身のような肉片が、斑状にこびりついていた。

「何を―――」

 私がそう言いかけると彼は、太刀の切っ先を掲げ、私の背後を指して見せた。見覚えのある、王の老臣が二人、不自然に四肢を内側にめくれこませるような格好で、地面に顔を押し付けて息絶えていた。ひしゃげた鼻からおびただしい血があふれていた。

「火を付けた賊を斬ったのさ」

 オウスは太刀を空中に振った。血が一列の点線になって飛び散った。

「これでおれは、あなたを助けた英雄だな」

 彼は私を抱きしめて肩を叩いた。そして甲高い声で笑った。

「貸しができた」


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