七.山ごもれる国の皇子
そこで目が覚めた。
私は驚いた。私の体は、私の、自宅の中で、敷物の上に横たわっていたのである。清潔な毛布が掛けられて、着物も新しいものに替えられていた。全身の傷には包帯が巻かれ、頬の擦り傷には薬が塗ってあった。
枕元では粥を炊く甘い匂いと、ことことという煮炊きの音がする。
そこには女がいた。女はこちらに背を向けて、粥の加減を見ている。大陸風に髪を結い上げ、錦の裳を付けた白い肌の女だった。王の女官ではない、とかくこの国では見たことのない、絵のような女である。うなじに、桜の花びらのような形のほくろがあった。白粉の香りがした。
「――小李」
私は妻の名を呼んでいた。
女はこちらを向いた。真っ赤な唇。椿の花弁のような肉厚な唇が笑った。
「もう少しお眠りなさい」
女の声は柔らかくとろけるように甘い。
「あなたが私を助けてくれたのですか」
私がそう言うと、女は私の傍らに腰を下ろした。しばらく私の胸をさすっていたが、徐に私の体に覆いかぶさるようにしなだれかかった。彼女は私の耳元で囁いた。
「山中で難渋しているのを見つけました、何度も奥様の名前を呼んで」
女の生暖かい吐息を感じた。
「あなたにお礼を―――」
私がそう言いかけると、女はその人差し指を私の唇に押し当てた。
「いいえ、これはご縁です。きっと私たちは会うべくして会った」
女はそう言って指を私の下唇にそっと這わせたので、私は思わず口をつぐんだ。女はそれを見ておかしそうに笑った。
「もう少しお眠りなさい、張旦」
それからしばらく私はまどろんだように思う。夢か現かわからない靄の中で、女が私の寝顔を覗いていたような気もした。だが、次に目覚めたときにはもう女の姿はどこにもなくて、焦げ付いた鍋だけが床に放り出されてあったのである。
それから私は二日ほど床から離れることができなかった。たいした怪我はしていなかったのだが、腰を強かに打ったせいで、なかなか起き上がることができなかったのだ。無理に体を起そうとすると、そこら中の関節が軋むような気がした。
二日のあいだは近所に住む人間が代わる代わる様子を見に来てくれた。だが不思議なことに、やってくる誰に聞いても、私を山中で見つけ、ここまで運び、衣服を替え、傷の手当をしてくれた、あの女の正体を知る者は一人もなかった。張旦が山中で怪我をして寝込んでいると、どこからともなく聞いただけで、そんな女がいたことも、そもそも誰かが助けに来たということすら知らないと、皆言うことは同じであった。
誰かの訪れがあるたびに、私はあの女であることを期待した。だがいよいよあの女が再び現れることはなかった。
しかし、二日がたってようやく外へ出歩けるようになったある日、事は知れた。
白昼まず一歩外に出て私が見たものは、湖畔から王の屋敷に向かって伸びていた長い行列だった。しかしそれはいつかの黒い軍勢とはまるで違ったものだった。
先頭には、紅色の衣を来た少年が、金色の幟を高々と掲げ、正面を見据えて胸を張って歩いていた。その後ろには、錦の衣をまとった女たちが、風に袖を翻しながら十人ほども続いている。それぞれの掲げる傘は、紅や藍や群青で、いずれも日の光を反射してきらりきらりと輝く。行列は王の屋敷を目指して、周囲に彩りを撒き散らしながら進んでいく。
女たちの後ろには騎馬が五騎ほど続いた。馬上の男たちはいずれも青銅の鎧をまとい、黄金作りの太刀を佩き、首には瑪瑙や翡翠など宝玉の数々を提げていた。中でも、より逞しい黒毛に乗った男は、黄金の冠を被っていた。焼けた肌にあごひげをたくわえた体格のいいその男は、まさにいかにも「英雄」という風情であった。分厚い肩や腰がいかにも、項羽や劉邦のような武将の、そんな印象を与えたのである。誰かが「皇子だ!」と言った。
だが私は、その男の馬の手綱をとっていた者に目がいった。馬の顔に寄りそうようにして歩いている。女だった。ふと女が馬上の男を振り向いたその一瞬、結い上げた髪の襟足の、うぶげの下に、桜の花びらのような形のほくろがあるのが見えた。
――あの女だ、と思った。
この壮麗な行列を見ようと、道筋に集まっているものは多かった。皆々沿道に並びいて、爪先立ちになって前の人の頭の上からでも行列を見ようとしていた。私はたまたま隣に立った青年にこれがいかなる行列であるかを問うた。
「ヤマトの使者の一行さ」
彼はそう答えた。
「ヤマトの皇子が、タケル様に挨拶にやってきたんだ」
ヤマト――彼らの言葉では「山にこもっている」とか「山に囲まれた」といった意味である。それが異国に対する蔑称であるというのは容易に想像がついた。
だが、この行列を見る限り、ヤマトは決して蛮族ではなかった。衣服、馬具、宝飾品、彼らの身に着けているもの一つ一つ、全てが職人の趣向を凝らして作られた品々であった。それは決して、ものを食うためだけの生活の中では生まれてこない、文明の創造物であった。
私には衝撃的な出会いであったといっていい。いやむしろ、忘れかけていた大陸の思い出を呼び覚ますものだったのかもしれない。はっきりとした表現を用いるならば、ヤマトとイズモ、それは文明と非文明であった。帝国と周辺民族であった。こんな国が、この倭国の中に存在したのだ、と、私は驚くしかなかった。
私はいつまでも馬の手綱を引く女の姿を目で追っていた。目の前を通り過ぎて行ったがとうとうこちらを振り向くことはなかった。
なんとなく事情は知れたような気がした。
皇子の入国に先立って、使者の一行のうちからまず何人かが王の屋敷に遣わされたのであろう。その中にあの女があって、たまたま山中で私を見つけた。そんなところであろうか。いたく劇的な出会いではあったが、今向こうはヤマトの皇子の馬をひく侍女、こちらはイズモの王の屋敷への出入りも禁じられた異邦人だ。二度と近くで会うことはあるまい、私はそう思った。
私は再び行列の先頭を見たいと思って、行列のあとを追って王の屋敷のほうへと向かった。
屋敷の前には、舞台のような、板間が設えられていた。
王は背後に老臣たちを控えさせ、自分は舞台の中央に座って使節団を待っていた。王は獣の皮を羽織って、貝殻の首飾りを提げていた。
もっと近くで見たい気もしたけれども参上を停止されている以上、それより近付くのはやはり憚られた。私は背をかがめて人ごみの中に紛れていた。
王は笑顔で使節団を迎えた。王はヤマトの皇子の手を取ると、板間の中央へ導いた。侍女たちや騎兵たちも板間へのぼり、皆それぞれ挨拶を交わして着座した。
まもなく酒が振舞われた。老臣や女官たちが手に手に銚子を持って彼らを歓待した。
しばらくすると、集まっていた我々一般人にも振る舞い酒が行われた。イズモの女官と、ヤマトの侍女たちとが、我々に杯を手渡すと次々と酌をしてくれたのである。場は一気に華やぎ、私もまた、つい杯を持つ手を伸ばして酒を頂いた。
銘々木陰や石の上で車座になって、あちらこちらで小さな宴会が始まった。私もその場に腰を下ろし、王と皇子の着座する舞台を見上げながら杯を干した。初秋の風が心地よかった。酔って火照った頬にひんやりと心地よい。
そのとき私は背後から不意に声をかけられた。
「お加減はもうよろしいのですか」
振り向いて私は驚いた。あの女だった。女は私の返事も待たずに、傍らに腰を下ろした。俯き加減に小首をかしげ、私の杯に酒を注ぐ。私は思わずまじまじとその姿を見つめてしまった。歳は思ったよりも若いかもしれない、二十になっていないのではなかろうかと思った。胡粉を塗ったような白い顔に、赤い唇が眩しいまでに鮮やかだった。長い睫毛には露が置いたようである。春雨に濡れた茨の棘とでもいうべきか。
「そんなに私の顔がお珍しい?」
女が笑った。白い歯がこぼれた。私は思わず目をそらして杯をあおった。
「またお会いできて嬉しい」女は言った「やっぱりあなたとはそういうさだめなのですね」
王のいる板間の上には、ヤマトの使者たちによって次々と丹塗りの長櫃が運び込まれていた。
「あれはすべてヤマトからイズモの王への贈り物なのですよ」と女は言った「友好のしるしです」
私はしばらく言葉が見つからずに黙っていた。丹塗りの長櫃には、いずれも龍の彫刻の施された青銅の鋲が打たれ、紫色の絹が被せられていた。その中身が空だったとしても、その箱だけですら、この国には似つかわしくないほどの財宝であった。
「代償はなんだろう」私は言った「私がヤマトの皇子だったら、何の見返りもなしにあんなものを贈ったりはしません」
すると女は袖を押し当ててくくくっと鳩のように笑った。そして私の肩にもたれかかると、私の手を取ってその指を絡ませた。
「そうね、見返り―――」女は上目遣いに私の顔を下から覗き込んだ「私は、あなたが欲しい」
女の瞳の中に私の顔が映っていた。
そのときだった。私はぎょっとして思わず女をはねのけた。
目の前に、王が、立っていたのだ。
彼は、落ち窪んだ目で、鷹のように、私と、女とを睨みつけていた。
「何の真似だ」
彼は言った。深い地の底から響くような声だった。
「私を試しているのか、それとも単なる茶番なのか」
彼は手に持っていた杯を地面に叩き付けた。乾いた音と共に破片が飛び散った。
私は唖然としてそれを見つめていた。女のほうは地面に平伏した。だが王は、女の手首を掴むと強引に引き寄せた。
王は女の顔を覗き込んだ。
「我々はクマソとは違う。色香や酒に惑わされたりなどはしないし、ましてやこんな謀略などにはかからない」
王は言った。
「友好の使者ならばどうぞ誠意あるお振る舞いを―――ヤマトの皇子」
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