六.異国のまろうど

 翌朝は晴れになった。私は目覚めるなり、うんと背伸びをして外へ出た。


 それは初秋の晴れであった。天は、突き抜けるような青さで、どこまでも高かった。川も湖も朝日に白く照り映えていた。凪いでいた。風は涼しかった。


 辺りは静かだった。家々からは人々の寝息が聞こえる気さえした。


 世界中が安堵している――そんな朝だった。


 つい先日まで色褪せて見えた風景がにわかに色付いたように思えた。戦争の影の去った景色とはこんなふうだったかと、私は驚いていた。全く目の覚めた心地だった。これこそまさしく、戦勝の朝である。


 私は朝食を摂ったあと身支度をして、新しい薬草を採るために山へ入った。雨上がりの甘い匂いが満ちていた。濃厚な緑の匂いである。私は深呼吸しながら諸手を広げ、その中を泳ぐように歩いていった。頭上は緑色の枝葉が多い、白い木漏れ日が水面のようにきらきら揺れる。足元は、名前も知らない、小さな白い花が一面に咲き乱れている。


 林を抜けて野原に出たとき、私ははっとして足を止めた。彼方のほうに、木組みの上に椅子を設えただけの、輿のような乗り物が、草群の中に置いてあるのを見つけたのだ。


 その周囲に、女官たちが四人ほど、籠に花を摘んでいたのでそれとわかった。王が女官たちと野遊びに来ているのであった。


 輿のほうに近寄っていくと、まさしくその通りで、輿に据え付けられた椅子の上には、王がしなだれかかるように座っていた。白い大判の布にくるまって、だるそうに四肢を投げ出し、眠たそうな目で、ぼんやりとどこかを見ている。随分痩せてしまったと私はまた思った。わずかだが、酒の匂いがした。


「戦勝のお祝いに、花を摘ませているのですか」

 ところが、私がそう声をかけると、王の瞳ににわかに鈍い光が宿った。

「兄の弔いのためだ!」

 女官たちが皆ぎょっとしてこちらを一斉に見た。私はしまったと思った。いらぬことを言ったと思った。椅子にかけた王の手がわなわなと震えていた。

「張旦!」

 彼は私を見ていない。どこか中空に視線を走らせている。

「あんな兄でも、私は戦いたくなかったのだ。死んでほしいなどとは思わなかったのだ」

 王はそれっきり押し黙った。王の激しい息遣いだけがしばらく聞こえていた。


 王は傍らに侍っていた女官に向かって「水を」と言った。その女官は、腰に提げた竹筒から柄杓に水を注ぎ、王に差し出した。王は柄杓をひったくるようにして受け取った。一口ごくりと喉を鳴らすと、彼は上目遣いに私を見た。鳶のような目であった。私は息をのんだ。彼は、柄杓を差し出した。挑戦的な瞳で、柄のほうを、私の顎先に突きつけるように差し出したのである。王は言った。

「私に、何か言うことがあるだろう、張旦?」

 私は柄杓を取り落とした。水が飛び散って、着物の裾を濡らした。

「陛下、私はただ―――」

「―――殺すものは、いずれ殺される」

 王は言った、あの薄い唇を引き裂かんばかりに大きく広げて。

「それが、大陸のやり方か!!」


 そして私は、今後一切の屋敷への参上を禁止されたのである。何の咎であるかは、王はとうとう口にしなかった。

「人死にだけはたくさんだ」とだけ繰り返し、女官たちに輿を担がせて、草叢に沈む私一人を残して、去って行った。


 雨が降り始めた。冷たい雨だった。私はそこに案山子のように立ち尽くしたまま、いつまでも雨に濡れていた。


 結局どこをどのようにして歩いてきたのかはわからない。気付いた時にはとにかく足の赴くままに霧の中をさ迷っていた。私の心は動かなくなっていた。


―――それが、大陸のやり方か。


 それ以外は何も聞こえなかったし、何も見えなかった。


 雨を吸った着物が重く、引きずるようにして歩いていたことが災いしたのかもしれない。いや、それともただ単に何も見ていなかったせいだろうか。ぬかるんだ泥に足を取られた。そして体勢を崩すと、そのまま足元を踏み外した。滑落した。


 声をあげることすらできなかった。気付けば泥にまみれてうずくまっていた。全身に痛みを感じた。それと同時に、それまで何も聞こえなかった耳に、雨の音が戻ってきた。


 見上げてみると崖は随分高かった。あんな高いところを自分が歩いていたとは思えないほどだった。


 やがて霧はますます濃くなり、視界は雨に煙っていった。雨はいつまでも冷たかった。


 このとき私は夢を見たらしい。


 夢の中の私は、そこここが赤茶色に枯れた貧しい草原の中にいた。驢馬に乗って家路を急いでいる。乾いた風に砂埃が舞うので、私は布を顔に巻きつけた。ふと、ものの焼ける臭いがしたような気がして、私の心は急いた。


 不安は的中した。帰り着いた村は静まり返っていた。そこら中に馬蹄の跡があった。井戸端には背中に矢を受けて事切れている老婆がいた。私の家は、黒くすすけた柱が一本立っているだけになっていた。あとは全てが灰になっていた。


 私は妻の名を呼んだ。四歳になったばかりだった娘の名を呼んだ。灰を踏みしめ、まだ熱い柱にすがりつき、辺りを見回して叫び続けた。


 ようやく二人のものと思われる骨を見つけた。親指の先の骨と、一本の乳歯だった。あとはもう何も残っていなかった。

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