五.雨のそぼふる
巷で戦争が噂されるようになったのはこの頃からだ。
私が初めて耳にしたのは、ある早朝に川へ水を汲みに行ったときのことで、同じように水がめを持ってやってきた女たちが、口々に「近いうちに報復の軍勢がやってくる」というようなことを話しているのを聞いたのだ。それだけ聞けばだいたいの想像はついた。
妻子を失った兄の報復だと思った。
王の兄はどこか遠国に追放されたとしか聞いてはいなかったが、かの地で軍勢を整えて、王位を奪った弟に対する報復の機会を伺っているというのも、いかにもありそうな話だった。いかにもありそうだったが、嫌な気分のする想像だった。
ある病人のいる家を訪ねたとき、表で二人の子供が、手に手に杉の木の枝を持って、剣に見立てて戦いの真似をして遊んでいるのを見た。杉の枝先で斬りあうたびに葉がぱらぱらと飛び散った。片方の子が、相手の子供の首にその杉の剣を撫で付けると、「死んだ」と言ってきゃっきゃと笑った。
そして湖畔一帯に、柵が設けられ始めたのもこの頃だ。人々が互いに材料を持ち寄って、外から集落に続く道を塞いだのである。日中、表を歩いていると、彼方からカーン、カーンという、杭を打つ音が聞こえるようになった。堀もあちらこちらに掘られ始めた。私の家の近くには、花畑を掘り返して、そこに逆木を立てたところがあった。えぐられて真っ黒い土をさらしているのが、痛々しかった。また、どこから聞きつけたのか、弩というものを自分にも作ってほしいと言って私を訪ねてくる若者もあった。
山の色も、川の色も、空の色さえも変わってしまったように見えた。大陸に吹き荒れる戦乱の風が、ここまで届いてしまったように思われて、私はまるで死神に追いつかれたような気分で日々を過ごした。家に引きこもることが多くなった。
そして、にわかに暑くなったある日、人々が恐れていたものが、いよいよ訪れた。蝉が猛り狂ったように鳴く、炎天下の昼日中だった。陽炎のゆらめく湖畔に、葬列のような黒い帯がやってきたのだ。王の兄、エヒコの軍勢だった。
国内はにわかに混乱した。手押し車に家財を積み、山道を通って隣国へ脱出する家族が相次いだ。連日、蝉時雨の中に、車輪が軋む音や慌てふためく足音が交じり合った。
しかし、私はこの場を動く気にはなれなかった。戦いになれば自分も戦うのだろうというくらいの気持ちでいた。もはや、大陸で死ぬのも、この国で死ぬのも、さして変わりはないのだというふうに思った。
軍勢はすぐには侵攻してこなかった。不気味な静寂を守ったまま、湖畔にじっとりと駐屯したのである。
それから私は何日か続けて、王の屋敷の近くへ出向いた。丘のふもとのあたりまで行って、屋敷のほうを見上げる。白い陽射しの照りつく中、王の屋敷は影を地面にくっきりと落としていた。中の気配は感じられなかった。
そのまま膠着状態が続いて一週間ほどが過ぎた。だが、ある満月の夜に敵兵の一人が侵入し、ある家族を殺して家財の一切を奪うという事件が起きた。殺された中には赤ん坊もいた。この噂はまたたくまに巷間に広まって、にわかに国内は沸騰した。人々の群れが王の屋敷の前に押し寄せたのである。群衆は怒りで熱気を帯びていた。
この日も蝉の声がうるさかった。私もこの群衆の中に混じった。
王が屋敷の戸口に姿を現すと、引き潮のように群衆のざわめきは鎮まっていった。王は、唇を固く結んだまま、人々の顔を一人一人見るかのように辺りを見回していた。しばらく見ないあいだに、また随分と面やつれしたように私は思った。
王はか細い声でこう言った。
「―――私はこの国を兄に明け渡す」
誰もが息をのんだ。
「戦争だけはしたくない」
王はそう言うと踵を返して屋敷の中へと戻ってしまった。
乾いた風が吹いた。それは人々の嘆息かと思われた。人々は互いに目を合わせるしかなかった。
皆、雄雄しい英雄「タケル」の力強い言葉を聞きたかったのかもしれない。
私は、重たい体をひきずるようにして、群衆の中を這い出し、帰途についた。やけに疲れていた。
家に帰って寝転がると、胃の中に虫が巣食ったような気になって、気分が悪かった。それは時間がたつにつれてますます膨れ上がって、その晩、私は、とうとう泣いた。ようやく見つけ出した仙境が、砂漠のように色褪せていくその様が、私にはたまらなく悲しく、憎かった。憎くて仕方がなかったのだ。
一瞬だけ見えた王の背中を思い出した。あまりにも小さな、薄く、痩せた背中に見えた。理想に疲れ切った背中だった。どこかしら滑稽でさえあった。
翌朝になって、私は静けさのあまりに目を覚ました。家の戸口から顔を出して驚いた。甲冑に身を包んだ兵士が、幾人も幾人も、そこら中に竹のように突っ立っていたのだ。いよいよ軍勢が市中に入ったというわけだ。兵士たちはいずれも粘土細工のような、はれぼったい、精気のない顔をして立っていた。しかし、やけに目だけは、油を張ったようにぎらぎらとして、舐めるように、あちらの家、こちらの家と見ている。
ヒグラシが遠くで鳴いた。
ある思い付きが脳裏を過ぎった。
やるか、やるまいか―――
私は家の戸口に立ち、側に置いてある水がめの縁に手をかけて、その水面を見ていた。骸骨のように痩せた男が映っていたが、それが自分だと気付くのに時間が要った。私は柄杓で水をすくった。顔をあげると、兵士たちの中に、将らしき男を見つけた。途端、私の心は動かなくなった。
男は、馬上にあった。黒い甲冑に身を包み、額には黄金作りの天冠を当てていたが、その紐に汗がじっとりと染みているのがわかった。真っ黒く焼けた肌に、毛虫のような髭を生やしていて、鼻のてっぺんに、大きな吹き出物があった。彼はひっきりなしに、こめかみに流れる汗を手の甲で拭っていた。
私は、彼の前に進み出た。
「恐れながら王の兄君とお見受けいたします」
そう言うと、彼は私のほうに視線を向けたが、じっと黙っている。私は、水を汲んだ柄杓を差し出した。すると、彼は眉一つ動かさず「大儀」とだけ言って、それを受け取った。しばらくその水面を見ていた。そして言った。
「毒を飲んだ弟を助けた大陸の医者というのは、お前か」
心臓が喉元で脈打っていた。
「確かに私めのことにございます」
「徒労だったな。おれは、これからあれを殺すつもりだ。おれの妻子を奪い、殺したあれを、同じように縊り殺してやる」
私の腹の中に巣食った黒いものが、渦のようにうねるのが自分でもわかった。彼が柄杓の中の水を飲み干すのを見届けると、その黒い渦がすとんと、腹の底に落ちた。私は言った。
「殺すものは、いずれ殺されます。ご自身もゆめゆめご油断無きよう」
私は柄杓を受け取ると、自宅に戻った。柄杓はそのままカマドの火にくべた。心は、乾いていた。
それからまもなくだった。王の屋敷に入り、王を引き出そうとした兄・エヒコは、にわかに昏倒し、一晩中、喉元をかきむしり、苦しんで苦しみ抜いた末、明方、死んだ。
昼頃から生ぬるい雨が降り出した。軍勢はその日のうちにまとめられた。甲冑を雨に濡らしながら、棺を挽き、葬列さながらに、うなだれた黒い帯は、じりじりと遠ざかっていったのである。こうしてこの国は、危機を脱した。
巷では噂が絶えなかった。エヒコに毒を盛ったのは誰か―――と。
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