三.嶺にたなびく

 あの事件以来、私は王の元へほぼ毎日参上するようになった。

 傷の経過を見るためだったが、それはほとんど口実に過ぎなかった。私は、王のためにいつもの薬と、また、それとは別に役に立ちそうな新しい薬と、時には、大陸の文化を持ち込み、王の関心を得ることがこの上ない楽しみになっていた。


 王は非常に勉強熱心だった。私がいつものように参上すると、その前の日に持って行った薬の処方はすでに覚えてしまっていた。また、ある時、私は自ら竹を採り、山中で得た鹿の毛で、一本の筆をこしらえた。これを持って参上した私は、王の目の前で、割った竹の断面に「張旦」と自分の名前を書いた。正直なところ、これは文字を持たぬ彼らには難解すぎる行為だと思っていた。だが、また次に尋ねて行くと、私が作ったもの以上に上質な筆が王自らの手で作られていて、私以上の達筆で「張旦」という文字が書かれていた。


「あなたをこの国に遣してくれた神に私は感謝したい」

 王は私が退出するときにはいつもそう言う。

「この国を豊かにするのは、文化だ」

 それが王の口癖だった。


 そんな生活が続くうちに、春がきた。私は木々が芽吹く音というのを初めて聞いた。それまでじっとうずくまっていた植物が、ぷちぷちとはじけながら目を覚ます音が、この国にはあった。にわかに山は極彩色に染まり、灰色だった海と湖も爛々と輝き始める。


 私がそれまでたくわえていた大陸風の髭を落としたのはこの頃だ。また高く結い上げていた髪も全て下ろし、この国の人間と同じようにこめかみで束ねるようになった。


 王の生活の実態が見えてきたのもこの頃だ。王は朝起きるとまず食事を摂り、それから川辺に住む一人の媼を訪ねる。松の皮に娘世代の着物を着せたような老婆だが、これがこの国の最高位の巫女であった。王は彼女から神託を受けると屋敷に帰り、五人ほどの家臣(これもまた老齢な者が多い)と協議し、例えば冬のあいだに備蓄しておく食糧の量だとか、経国的な方針を定めるのである。時に王は自ら祭祀を行うこともあった。(そういう意味ではこの国の政治はやはり非常に原始的である)夕刻になると私の参上を待ち、夜の食事を共にし、私が去ると床に就く。また、妃と息子が一人あったが、遠く離れた屋敷に住まわせていた。つまるところ、この国の王は大陸の皇帝とは性質の異なるものであった。


 ある晴れた朝、私は王と連れ立って、川へ釣りへ出向いたことがあった。王は他に供も付けず、自ら釣具を持って、私と横に並び、友人同士のように会話をしながら歩いた。道すがら、すれ違う人々から声をかけられた。王はそれに対して一人一人の目を見て返事をしていた。

 私は思わず言った。

「陛下、時に民衆に威厳を持って接することも、統治する者には必要なことです」

 すると彼はこう答えた。

「私は民を支配しているのではありません、導いているだけです」そして笑った「それから、私のことはタケルと」

 王は私を秘密の場所へと案内してくれた。木立の中に隠れた淵だった。森の中に川が流れ込み、それが青白い岩間に深い淵を成していた。岩陰に魚が集まっていた。私はそこで、王と、終日、魚釣りに興じたのである。


 日も暮れかけ、いよいよ帰ろうかという時に、王は釣具をしまいながら徐にこう言った。

「この国は、そんなに暮らしよいですか。張旦」

 私ははっきりとこう申し上げた。

「戦乱の大陸に比べたら、仙境です、陛下」

「戦乱は無いわけではありません。現に先日も危機はあった」

「しかし、陛下が退けられました」

「次は退けられるかどうかわかりません」

 王は空を仰いだ。ため息をついた。引き締まった口角は、笑っているとも泣いているともつかない。彼は言った。

「近いうちに、私は、息子に殺されるかもしれません」

 私は息を飲んだ。王は釣具を肩にもたげると、軽快な足取りで木立の外へと走り出した。まるで娘のように跳ねながら私を振り返ると、

「今の言葉は忘れてください、張旦」

 と言った。


 翌日、私は、医者として隣家のお産に立ち会うことになり、その日は王の元へ参上しなかった。またその翌日も、急病人が出た家があって、そこにかかりきりになってしまった。

 そのまま足が遠のいて、二週間ほどが過ぎた。


 ある日の夕暮れ、私は患者の家から自宅に戻る途中だった。山の彼方から一筋の煙が上るのを見た。なにかしらと思ってしばらく見ていると、それはまた一本、また一本と増えていった。茜色の空に向かって、幾筋もの黒い煙がゆらゆらと幽霊のように居並んだ。その後、雨になった。


 隣国が異民族の奇襲にあって滅んだと知ったのはその翌日、患者の家族に聞かされた。その時の煙だったのかと思った。淋しい嫌な気持ちがした。こういう気持ちは、大陸で充分すぎるほど味わったと思った。


 王が危篤との報を受けたのは、この日の夜のことだ。満月が白く浮かび上がっている冷たい夜だった。私は寝巻きのまま王の屋敷へ馳せ参じた。


 いつもの居室に床が設えられていた。その白い敷物の上で、王は四肢を引き攣らせて、鋸を引くような呻き声をあげていた。頬が熟れた柘榴のように赤く血走っている。私は側近たちを押しのけてすぐに王の枕元に取り付いた。瞳孔が開いて、彼は何もないはずの中空に視線を走らせている。

 私はすぐさま側に控えていた女官たちに指示をし、布と桶と湯を用意させ、老臣たちに両脇から王の体を支えるよういい、その歪んだ口に指を突っ込んだ。何もかもをその場に吐き出させた。それを何度も繰り返した。部屋は王の苦しむ声と、女たちの泣き声で満ちた。

 私は何度も額の汗をぬぐった。

 湯冷ましと手持ちの薬を飲ませると、王はようやく眠りに就き、ぐったりと床の上に両手を広げた。だが、その下唇はぶるぶると震え続けていた。


 汚れた服を着替えようと廊下に出たとき、私は隣の部屋の様子が目に付いた。入り口を覗き込むと、その部屋の中には、白装束の女が三人、神妙な面持ちで、一列に居並び、じっと正面の壁を見たまま、何かを待っていた。彼女たちの列の後ろには、棺があった。

「誰が死ぬと言った!」私は声をあげた「今すぐここを出て行け!」

 私は拳を握り締めた。胃のあたりが底冷えするような気持ちがした。


 それから一晩中、私は王の枕元にいた。側近や女官たちは交代で休ませた。灯明を次々と焚かせた。


 明け方、鳥の囀りが聞こえる時分になって、王は目を覚ました。落ち窪んだ目で、私を見上げると、力なく笑って「疲れたか、張旦」と言った。私は思わずほっとため息をついた。全身の力が抜けた。すると思いもかけず、両の目からぼろぼろと涙が落ちた。

「さぞやお苦しかったことでしょう」

 そう言葉が口をついて出た。王は何も答えない。私は言った。

「何故わかっていて口にしたのですか」

 王は何も答えない。微笑んで私を見上げている。

「症状からして匂いの強い毒が盛られていたはずです。あなたは、気付いていながら何故…」

 私はそれ以上言葉を継ぐことができず、顔を諸手で覆って、泣くしかなかった。

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