二.八雲立つ国の王
ある冴えた冬の朝、イデヒコは私を王の屋敷へと案内してくれた。
私の住むあたりからいくらか歩いた高台にそれはあった。王の居城とはいえ、我々の住むような粗末な家をいくらか大きくした程度のものであった。この屋敷にも柵や垣根はなく、衛兵の一人もない。我々を迎えたのは、十五歳ほどの女官一人だった。
イデヒコは戸口のところで引き返し、私だけが女官によって奥の部屋に通された。
狭い部屋だった。一番奥には獣の皮が敷かれていて、その上に、一人の青年が座っていた。彼は私を見るとまず真っ先に微笑んだ。
まるで海のような、深い水を湛えた色の目をしていた。髪は耳のところで房にして、流水のように肩に落としている。肩から下に伸びた手もまた、珊瑚礁のように白く冴えていた。
この青年だけは、私が今まで見てきた倭人たちとは違った。しっかりと結ばれた薄い唇と、鋭角的な口角。ものを食うためだけの口ではなく、ものを言うための口だった。
私は彼の前に跪くと、大陸風の拝礼をした。
「陛下におかれましてはご機嫌麗しく…」
「陛下というのはよしてください」
彼はゆっくりと一文字一文字を大切にするように言った。
「皆、私のことはタケルと呼びます。あなたも、私のことはそのように」
彼は微笑んだ。太い眉尻が下がる。
「私はあなたの王ではなく、友人として、お迎えしたのです」
私は彼の面差しに吸い込まれるような気分になった。情けないことにしばらく言葉を見つけることができずにいたくらいだ。
「光栄です、陛下」
「ほらまた」
王は鈴を転がすような声で笑った。
まもなく高杯に昼食が振舞われ、私と王は共に食事を楽しみながらいくらか話をした。
王は大陸の文化に大変な興味を抱いていた。殊に私の作る薬について熱心であった。その処方の仕方や効果について尋ねては、側近たちを呼び、共に私の話を聞かせたほどだ。
「それほどまでに興味がおありですか」
私が言うと王は大きく頷いた。
「民の命を守るのは、柵や堀、ましてや武器ではありません。まず彼らに平安な生活を送らせてやるには、医薬が必要だと思うのです」
と彼は言った。
また、王は、私自身のことにも興味を持っていた。
何故大陸を離れたのか、何故倭国を目指したのか―――。
私は長く続く戦乱のことを包み隠さず申し上げた。
「ですが、その一方でこの国は豊かで、平和で、民が等しく暮らしています」
そんなふうに私が言うと、王の顔色はたちまち冬空のように曇った。
「あなたが言うほど、私はこの国を立派に治めることができているでしょうか」
私には、そういったところもまた、この若き王が魅力的に映った。眉根のあたりに刻み込まれた深いしわに、苦悩の跡が見て取れ、それがまるで私には、民のために煩悶する尭王のように思われたのだ。
実際、彼の苦悩の源が何であるかを知るのは、これから随分先のことになる。ただ、この日に関しては、私は美味しい料理と酒と、聡明な王の美徳に酔って、まるで踊るような足取りで日暮れの道を帰っていったのだ。
あくる朝、事件は起きた。
この日、私は二日酔いの頭痛で目が覚めた。重たい体を引きずるようにして外に置いてある水がめのところへ行き、縁にもたれるようにしながら柄杓で一杯水をすくって口に含んだ。
こめかみがきんとするほど寒い朝だった。山の彼方で烏の啼くのが聞こえるほどに、やけに静まりかえった朝だった。
そこで私は異変に気付いた。
どの家も戸口を閉めたきりで、朝食の煙ひとつあがっていなかったのだ。
私は防寒用の蓑を羽織ると、我が家の裏手にある山を登った。いくらか高い場所に上がってきて、ようやく私は事の大事に気がついたのである。
彼方の湖の縁にこびりつくような黒い帯が見えた。
軍勢だった。
黒い馬と黒い甲冑が横一列に、うがたれた穴のような空っぽな目で、こちらを見ていた。この国に来て初めて見た戦争の影だった。
私はその足でイデヒコの家を訪ねた。彼は妻子に家から一歩も出ないよう言い聞かせているところだった。
私とイデヒコは連れ立って、再び山のほうへと向かった。
「あれはなんだ」
「異民族さ」イデヒコはそう言った「攻めてきたんだ」
「この国に戦争などないのだと思っていた」
「なかったさ。タケル様が王になってからは」
「その前はあったのか」
「あった。むしろ戦争ばっかりだった」
イデヒコによれば、この島は、幾多の民族、幾多の国に分かれているのだという。そうした国にはそれぞれの神と、それぞれの王があって、互いにぶつかり合っては、消滅と吸収と膨張とを繰り返している。私がこうして流れ着いたこの国もまた、その粟粒のような国々の中の一つだったのだ。
「外の人間はこの国をイズモと呼んでいる」
イデヒコは苦々しげに言った。
「山の向こうの、雲が生まれ出でる国。つまり辺境地という意味だ」
私とイデヒコは、しばらくのあいだ、山中から軍勢の様子を見ていたが、正午をまわったあたりで家に帰った。
王の屋敷から急なお召しがあったのは、その日の夕刻だった。私は女官たちに連れられて王の元へと向かった。
王は昨日会った時と同じように、獣の皮の上に座して、微笑みを以って私を迎えた。だが、私にはそれに微笑み返すことなどできなかった。
「脅威がそこまで迫っております」私は言った「すぐにでも兵を出すべきです」
すると王はますます笑った。
「もう危機は去りました」
「去った?」
「私が直接出向いて、しっかりと話をつけてきたのです」
私はその言葉を飲み込むことができず、しばらくそのまま王の面を見つめていた。
側に控えていた老臣が言うには、軍勢はこの国より東の方数百里にある小国から派せられたもので、王の祖父の代から領地を巡って衝突を繰り返してきたのだという。彼らは今回もまた、冬を越すための食糧を狙って軍勢を寄越した。だが、それを、たった今しがた、この王が、供一人付けず、たった一人で、あの軍勢の元に向かい、将軍と話し合って、いくらかの食糧と、相手方の国の産物とを交換し合う約定を取り付け、日の暮れる前には、軍勢を退かせたというのだ。
私は言葉が見つからなかった。
王はくすぐったそうに笑うと、
「全ては丸く収まったのだ。張旦を呼ぶほどでもなかったのに」
と言った。このとき、私はようやくにして、自分が王城に召された理由を悟った。王は怪我をしていた。
「斬られたのですね」
「戦争さえ避けられればそれでいい」王は言った「私一人斬られるだけで済むなら安いものでしょう」
王の傷は右ひじから肩にかけて、後ろから袈裟懸けに斬り付けられたものだった。深くはなかったが、彼の白い肌に赤黒い跡を刻んだ。私は、その傷口を十分に手当てし、そして屋敷を出た。
その頃にはすっかり夜も更けていた。
湖のほうに目をやったが、そこには暗闇があるだけで、軍勢の気配はもうなかった。道沿いのそこここで篝火がたかれ、王を讃える歌がこだましていた。
それから幾日かするうちに、私は「タケル」という言葉の意味を知った。猛々しい、雄雄しい、つまるところ、「英雄」という意味である。
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