本物の名探偵
夜島錦は名探偵だった。小学生だてらに放火殺人強盗詐欺詐称略取誘拐拉致監禁なんでもござれのディディクティブ。現場を観察事情を聴取、皆を集めてサテと言う真物の探偵。
夜島錦は確かに名探偵だった。「……だったのだ。今は違う」なんて凡庸極まりないモノローグは後に続かない。
夜島錦は名探偵だった。今も昔も変わることなく、たとえ姿を消そうとも永遠に。僕は助手みたいな役割で錦に引っ付き、帳は事件を鮮やかに解決する彼女に憧れていた。そんなのほほんとした関係で満足していた。
帳も錦も、それ以上を望んだことなんてなかった。それなのに僕は分不相応に、不満を抱いてしまった。
錦と比肩しようと思ってしまった。
帳に振り向いてもらおうと思ってしまった。
僕は名探偵になろうとしてしまった。
登場人物一覧に、名探偵は二人もいらないのに。
優しい者は僕の行為を「魔が差した」などと柔らかく表現するのかもしれない。もしくは凡人ゆえの不運と。
魔が差した? 動機が何であれ僕が行動したことに変わりはない。
なにが不運だ馬鹿馬鹿しい。一時の運不運で人が失踪してたまるか。
錦が失踪したのは僕のせいであり、それ以外は無い。
本来なら死んで詫びるか、少なくとも帳との接触を避けるべきなのだ。
それなのに僕は、帳の傍にいる。
罪滅ぼしのつもりで――こんなことで罪滅ぼしになるとは僕自身思っていないにも関わらず、名探偵の代わりをしている。
自分では良識ある人間のつもりなのだけど、僕は案外、厚顔無恥の下劣野郎なのかもしれない。結局、いろんな弁明でもって帳の傍に居座ろうとしているだけなのか。
夜島錦は名探偵だった。僕はそこへ、割り込み押し出しをしただけだ。
「なあ猫目石。謎は解けたんだろ? そろそろ教えろよ」
畜生長谷川の声で、僕は浅い眠りから引き戻された。
「果報は寝て待てだ。今どき犬だってお座りと待てくらいできるぞ」
「俺が犬以下って言いたいのか!」
「実際言ってる」
夜島邸から戻り、再び三年十五組の教室に場所を移した。僕は手帳の復元に必要な処理を施し、復元が完了するのを待つ間、テスト勉強をした。そして数学のテスト範囲を一通り復習し終わったので仮眠を取っていたのだ。教室の窓から見える空はまだ明るいが、僕の右手首に巻いた腕時計は四時を指している。
本当は二時間も待つ必要はなく、どうやら十分も待てば良いようだが……。すぐに解答編を始めると僕の勉強時間が確保できなくなる。
帳がしびれを切らすことも無かった。僕と一緒に推理していたわけだし、彼女に出力してもらったサイトはまんま答えが書いてあるようなものだから、たぶん答えには行き着いているだろう。それを話さないのは、彼女が貞淑な享受者にして依頼人だからだ。
夜島帳は知っている。名探偵より先に事件を解決することの危険性を。
帳は一応、勉強を終えて、今は休憩中というところだった。加地さんや足軽さんたちとお喋りに興じている。彼女の才覚を思えばクラスメイトなど均一に見下していても不思議ではないのだが、帳はクラスメイトと仲が良い。
以前「お前、本当はクラスメイトのこと見下してるよな」と聞いたら、「見下してないわ。何とも思ってないだけ」と返ってきた。淑女というのは恐ろしい。「じゃあ僕のことはどう思ってるんだ?」なんて口が裂けても……。
「このカードは何?」
加地さんの声が聞こえる。寝ぼけて霞む目で必死に睨むと、机の上にカードが並べられているのに気付く。あれはタロットか? 帳の傍に、夜島邸で見たのと同じ箱が置いてある。
「これは『力』のカード。女性とライオンが花輪で結ばれているでしょう? タロットに描かれる動物は人間の本能を表しているとされているのだけど、このカードに描かれたライオンはタロットの中でも強大な生物よ。ライオンは男性的な獰猛さを表し、それを女性的な理知でもって押さえているという構造なの。そして本能と理性は決して引き離せないものであることを、このカードは示しているわ」
説明する帳の声色は、難解な内容とは真逆に軽やかなものだった。グラスの中で揺れる氷が奏でるオブリガードのように、彼女の声は涼やかだ。
「あれぇ。このカード、番号が八になってるよ。あたしの知ってるタロットだと、『力』は十一番だった気がするんだけどぉ」
帳のソロに、足軽さんの疑問が割り込んできた。心底どうでもいい疑問だと一蹴するところだったが、ふと、四月の頃に帳が言っていたことを思い出した。
長谷川を逆位置の『隠者』に例えた時、ついでに帳が話した。タロットの大アルカナは構成によってカードの順番が変わるのだと。確か『愚者』のカードがその代表例だったはず。
「足軽さんが言っているのは、マルセイユ版の大アルカナね。ポピュラーなタロットはマルセイユ版とウェイト版の二種類なのだけど、この二つでは『力』のカードと『正義』のカードは順番が違うのよ」
おもむろに山札を探って、帳は一枚のカードを取り出した。
少し離れているので、僕にはそれが何のカードか判然としない。タロットに明るくないので、見せられても分からなかったと思うけど。
「今まさに使っているカードはウェイト版。『力』は八番で、『正義』は十一番になるわ。マルセイユ版ではこれが逆転するの。他にも、絵柄に差が出るのよ」
彼女はカードを投げた。呆けていた僕の額に、それが当たる。膝元へポトリと落ちたカードを拾い上げる。
カードは中央で玉座に腰掛ける女性の絵が描かれている。右手には剣を、左手には天秤を持っていて、下には『Justice』の文字。上部にはローマ数字で十一が書かれていた。
「これが『正義』。持ち物が酷似することから、最後の審判で人間を裁くという大天使ミカエルがモチーフと言われているわ。左手にある天秤から何となく想像はつくと思うけど、ある一定の基準に従った価値判断、つまり法の裁き、『公明正大さ』を表すカード。正義の質は、戦隊ヒーロー的というよりも、探偵的と言うべきかしら」
もう本日何度目になるのか数えていない。帳の言葉が終わると同時に、教室前方の扉が開かれた。入って来たのは言うまでも無く中藤先生だ。
「そろそろ、良い塩梅ね」
帳は右手首に巻いた、件のリストウォッチでもって、時間を確認した。
「加地さん。悪いのだけど、調理実習室の冷蔵庫に中藤先生の手帳があるの。取って来てくれないかしら」
「ええ? なんであたしが? 男子にやらせればいいでしょう?」
夜島嬢の下命に加地さんは不満げだった。まあそうだろう。それは当然、帳も予期していたわけで……。
「御免なさいね。男子二人に任せるのは不安なのよ。どんなヘマをするか分かったものじゃないから」
さらりと、自分が取りに行くという選択肢は隠してしまった。
「うーん。それもそうか。大事な物だもんね。じゃあ行ってくる」
同じ女子からの頼みというのもあったのだろう。もう少し不満を言うのかと思いきや、加地さんは案外すんなりと引き受けて、教室を出ていった。その後を、足軽さんたち女子連中も追いかける。
女子というのは、男子よりも集団行動するものだよなあ。確か心理学的に理由は解明されていた気がするのだけど、ちょっと思い出せない。
「謎解きを始めましょう」
「あいよ」
僕は立ち上がる。
最初から、女子連中を追っ払うのが目的だ。
冷蔵庫に入れて放置するのが、手帳を復元する上で絶対必要な措置だった。冷蔵庫に入れるだけならば夜島邸でも可能だが、女子を教室から追い出すための囮として手帳を利用したかった。帳は調理実習室を根城とするグルメサイエンス部の部長なので、この程度の越権行為は難しくない。
発案は他でもない帳自身だ。僕としては願ったり叶ったりだが、帳がわざわざ僕のためにひと手間加えるとは考えにくい。
「冷蔵庫に私の手帳があるの?」
不安そうな表情を浮かべたまま、中藤先生が帳に聞く。帳は先生の不安を払底するように、柔らかい笑みを浮かべて答えた。
「はい。もう、手帳の復元は終わっていると思います」
中藤先生の顔がパァッと明るくなる。照明装置で顔だけ照らしたんじゃないかと勘繰ってしまうくらい、極端な変化だった。
「これから、どうして手帳の内容が消えてしまったのか、瓦礫くんが説明してくれます」
「あれ? でも女子のみんなは待たなくていいの?」
「あの子たちには、もう説明してありますから」
ピノキオだったら鼻が伸びてるぞ。
帳はこちらへと歩み寄った。僕は反射的に立ち上がる。
「じゃあ、お願いね瓦礫くん」
「どうして女子を追っ払ったんだ?」
先生に聞こえないよう、声量を絞って帳に聞いた。
「群盲がいると無駄な時間が掛かるのよ」
辛辣であるが、まあ、僕にとってもやり易い条件になったので何も言わないでおこう。
帳による準備は万端。それでは仕上げをご覧じよ。
「さて、先生にはテスト関係の仕事がまだ残っているでしょうから、できるだけ手短にお話しします。手帳の内容がどうして消えたのかを」
注目されるのは得意じゃない。たった三人からの視線であっても、突き刺さるものは痛いのだ。僕は歩きながら言葉を繋いだ。
「まず僕は、先生が狂言を回したのではと疑いました。つまり、手帳に記された内容が消えたというのは真っ赤な嘘で、僕に見せた手帳は入れ替えた物なのではと。先生の手帳はハードカバーでしたから、半年間使っても痛みが少なかったでしょう。そのため、入れ替えは十分可能だと思われました」
「私は入れ替えてないわよ」
「そうでしょうね。実際、入れ替えは不可能でした。なぜなら、現在、先生の持つ手帳と同タイプの物は価値が不穏当に高騰し、入手が非常に困難となっているからです。入れ替え以外のトリックで手帳の内容を消失させるというパターンも考慮に入れましたが、たかだか一生徒をからかうためだけに先生がそんな手の込んだことをするとも思えないので、結果、狂言説は却下となりました」
ちらりと中藤先生を見遣る。狂言という不当な可能性が棄却されて、あからさまに胸をなでおろしていた。
「狂言ではないとなると、ふたつのパターンが考えられます。ひとつは、自然発生的な現象によるもの、いわゆる事故。もうひとつは、誰かが手帳に細工をしたとする犯行説」
「お、俺は何もしてねえ!」
一応、四月の件で何も思わなかったわけではないらしい。脊髄反射のような俊敏さで、長谷川が怪しい台詞を吐いた。
「僕はお前が犯人だとは言ってない。そもそも、犯行説ってのは一番あり得ないんだよ。犯人が中藤先生の手帳に細工をした理由は何だ? 手帳の中身を読まれないため? オークションで転売するため? 盗めばそれで終わることなんだ。それをわざわざ内容だけ消失させるというのは合理性に欠ける」
「愉快犯の可能性は? 面白がって文字だけ消したとか」
「四月のお前みたいに?」
「俺は違う」
「愉快犯だろうが長谷川だろうが、今回はあり得ない。手帳の内容だけを消失させるという離れ業は、それこそ一朝一夕にできるものじゃない。だから犯人がいるとするならば、計画的に動いたんだろうと想定することに無理はない。しかし、車内に中藤先生の手帳が放置されたことは犯人にとって、完全に計画の埒外だったはずなんだ」
推理をする際、僕は愉快犯という可能性を考えていなかった。それは単に可能性を見逃したのではなく、犯人の動機が何であれ犯行説は取りえないと判断したからだ。
「埒外? どうしてそうなる?」
僕としてはほとんど答えを言ったつもりだったのだけど、まだ長谷川は理解していないらしかった。ううむ、こりゃ確かに煩雑だ。帳が女子連中を追い出したのは適切な判断だったとあらためて実感する。
「長谷川。お前は手帳を使ったことがあるか?」
「……ないな」
「僕も無い。でも、手帳が携帯するのを前提とした道具であることくらい、想像はつくだろう? 中藤先生も当然、手帳を携帯していた。『手帳を車内に置きっぱなしだった』、『回収するのを忘れていた』という先生の言葉から、それは察しがつく。犯人が手帳の内容を消失させるという荒唐無稽な犯行計画を練っていたとして、それだけの計画を練れる犯人が『手帳は車内にあるはずだからそこを狙おう』なんて飛躍したことを考えるか? 普通なら、『中藤先生の荷物に入っているはずだからそこを狙おう』となるはずだ。つまり、犯行説を取ると、犯人は職員室に行き、あるはずだと考えていた手帳を見つけられずに終わるというオチになるんだよ。そんなんじゃ犯行はできないから、論理が破綻するんだ」
捜索中に「車の中に置き忘れたのでは?」と思いつく可能性はないではないが、計画を綿密に練っている犯人なら職員室で手帳が見つからなかった時点で諦めているだろう。車のキーを盗むなんてリスクを負うとも思えない。
長谷川への反論はこれで畳むとして、僕は中藤先生の方を向き、一瞬だけ足を止める。
「結局、手帳の内容が消失したのは、自然発生的な現象によるものだったんですよ」
再び歩きはじめる。
「ところで中藤先生。僕がちょっと前に、電話でいくつか質問をしましたよね? 最後の質問、覚えていますか?」
「覚えてる。私がどんな筆記具で手帳を書いたか、でしょ?」
「ええ。念のため確認しますが、その答えは『ボールペン』で間違いなかったでしょうね? より正確には、『消せるボールペン』だったと」
中藤先生は無言のまま頷く。
「どうも猫目石くんは、私が使っていた筆記具が消せるボールペンだって気付いてたみたいだけど、どうして?」
「そりゃ気付きますよ。先生の使っていた手帳には、誤字を修正した跡すら無かったんですから」
今回の謎解きは、それがきっかけだった。
「修正した跡?」
「修正液や修正テープ、砂消しゴムで消した跡のことです」
「手帳の内容を消失させた現象で、一緒に消えたとは考えなかったの?」
「もちろん考えましたし、帳にも指摘されました。しかし、修正液や修正テープの跡すら消失させる現象というのは想像しづらかったんです。なので、まず『そもそも修正の跡は無かったんじゃないか』と考えました。消せるボールペンの存在は加地さんの物を見て知っていましたから、修正の跡すら消失させる現象よりは想像しやすかったんです。結果、僕は謎を解くことが出来ました」
先生、ついでに長谷川を交互に見ると、二人とも呆けた顔をしていた。ピンときていないみたいだ。
帳の方を向く。やはり彼女は分かっているようで、その瞳には刀の様な怜悧さが宿っている。
「えっと……先生は消せるボールペンが消せる理由を知っていますか?」
「消せるボールペンだからでしょ?」
ど真ん中ストレートな回答が返ってきた。直球過ぎて見逃した。
「…………ああ、あの、まさかキャップの先端に付いているラバーで擦ると、インクが落ちると思ってたんですか?」
「違うの?」
違うに決まっているだろう。
「まったく違います。説明しますと、消せるボールペンに使用されているインクに秘密があるんですよ。このボールペンに使われているインクは、熱されると透明になるという性質を持っているんです。そこで、専用ラバーでもって消したい部分だけを擦れば、その部分だけが摩擦熱によって熱されて透明になるという寸法です」
帳が一枚の紙を先生に渡した。あの時印刷してもらったサイトのページだ。そこには先ほど僕が説明したのと同じようなことが書かれていた。
消せるボールペンのインクは、だいたい六十度から七十度で変色するようである。ボールペンの注意書きにも、高温の場所で保管しないようにと書かれているらしい。
「もう分かったでしょう? 先生が消せるボールペンで手帳に記入し、それを終日車内に放置したから、インクが熱されて変色したんです。真夏の車内は、インクを変色させるのに十分な気温だった」
手帳の置き場所も不味かった。ダッシュボードの上はフロントガラスを通して日光が降り注ぐ。たぶん昨日の夕方頃には、もう手帳の内容は消失していたんじゃないだろうか。
「そ、そういうことだったのね……。あ、じゃあもしかして、手帳を復元させるには」
プリントアウトされた内容を読んで、さすがに思いついたようだった。中藤先生は声を張り上げる。
「ご想像の通りです。熱して透明になるのなら、冷やせばいい。だから冷蔵庫に、手帳を置いておいたというわけで……」
まるで図ったように、教室前方の扉が開く。現れたのは女子連中で、先頭を歩く加地さんの手には、ファンシーな絵柄の手帳があった。
「ご苦労様」
「どうも」
中藤先生からの依頼を完遂し、その後しばらく勉強に勤しんだ僕と帳は、六時ごろになって上等高校を後にした。
あの後、結局僕は女子連中に何も話さなかった。どうして手帳がまっさらになったのか、どうして冷蔵庫に手帳を入れたのか。説明の代わりに、加地さんが持っていたボールペンの注意書きを指さして、それで終わりにした。
注意書きにはちゃんと、『高温の場所で保存するとインクが変色して透明になります』と書かれている。あとはそれを手掛かりに、勝手な憶測を述べてもらうことにした。
ひとつ気になるのは、帳が女子連中を追い払った理由だ。女子連中も交えていたら、確かに説明に余計な時間が掛かったかもしれない。でもそれは、帳にとって我慢できないほどのことだったのだろうか。
悪意があって、わざと追っ払ったような気がしてならない。既に舞台を下りた僕には、もう推理する力がなかったけど、なんとなくそう思うのだ。
帳は言動の理由を、すべては僕に話さない。ただ、確実なことがひとつある。
彼女の言動は推理小説の登場人物のごとく、必ず何かしらの理由を伴うということ。それだけは、九年間一緒にいるものだから、さすがに分かる。
「謎解きも終わったんだから帰ればいいのに。どこで勉強しても大差ないんじゃなかったのか?」
呟いた僕に、帳は言った。
「用事があるのよ」
彼女の用事について、具体的な内容はさっぱり想像できないが、二つだけ確かなことがあった。
ロクでもない用事であることと、僕を必要とする用事であることだ。
どうしてそうだとわかるのか? 僕は再び拉致の憂き目に遭い、帳を迎えに来た車に押し込まれていたからだ。僕を必要としなければ帳がこんなことをするはずもないし、僕を必要とする用事とは大抵ロクでもないことなのだ。
「畢竟、今回の事件は中藤先生の独り相撲だったということね。あるいは、独り芝居と表現した方が適切かしら」
「誰も相撲なんて取ってないし、舞台にも上がっていない。安いコージー・ミステリみたいに、犯人はいませんでした、悪人なんていませんでした、みんな優しい他人思いの善人です、チャンチャンってやつだよ」
車の後部座席、座り心地の良いシートに体を預ける。帳は僕の左隣で、足を組んで優雅に腰かけていた。僅かにでも身じろぐと、スカートが揺れて瞬間、夏だというのに処女雪を連想させる太ももが覗く。白々しいほどに悩ましい。僕は右を向いて車外の景色が過ぎ去っていくのを無心で眺めた。
「用事があるって言ったな? もしまたぞろ事件を解決するようなものだったら、今の内に概要だけでも話してくれないか」
「あら、意外なほどやる気十分なのね」
やる気十分? そう見えてしまっているのか。それならば態度をあらためなければならない。
「別に。あいつの代わりにできることは、なるべくやってやるってだけだ」
あいつが誰なのか、言わなくても僕と帳の間では通じる。どうしても錦の話を持ち出さねばならない時は、『あいつ』と言うようにしている。それにどれほどの効果があるのかは不明だが。
「瓦礫くんには瓦礫くんにしか出来ないこともあるのよ?」
「オンリーワンを無邪気に信奉していいのは小学生までだ」
「わたしたちは全員、小学生のようなものでしょう」
帳にしては珍しい、それは皮肉だった。
帳を見る。彼女もひるむことなくこちらを見た。彼女は僕ではなく、僕の後ろにいる存在を見透かしているような気がした。気のせいであってほしいという願望はきっと破廉恥だ。
間違いなく、帳は僕の後ろに、錦を見ている。
僕と帳の乗る車がウインカーを出したらしい。メトロノームのように一定の間隔で、ウインカー特有の無機質な音が鳴る。定まったリズムで鳴り響く音に、掻き乱された心が落ち着いた。
「用事というのは、探偵としての瓦礫くんを必要とするものじゃないわ。少なくとも探偵能力がただちに必要となる用事ではない、という意味だけど」
彼女は組んだ足を解くと、足元に置いてあった鞄から封筒を取り出した。黄金色で典雅な、文具屋ではまず見かけないデザインのものだった。
「……はあ?」
封筒を突きつけられる。僕はただ、受け取る以外の行動を取れない。
「わたしの家を建てた建築家のお孫さんと懇意にさせてもらっているというのは、もう話したでしょう?」
「ああ。朝山序列の息子が建築家で、夜島家の邸宅をいくつか手がけてるんだったな。その建築家の孫のことか」
「夏休みに別荘へ招待されているというのも」
「聞いた。覚えてる」
「わたしはそのお孫さんに、瓦礫くんを紹介した。彼女、すごく探偵さんが好きなのよ。あなたに興味を持ったみたいで、会いたいって」
「なんつう紹介の仕方だ」
その、初対面の人に『名探偵です』って紹介するの止めていただけませんか? 事の真偽に関わらず、第一印象が著しくマイナスになってしまう。
「……この封筒ってのは」
「夏休みに開催するサロンの招待状。お孫さん――ロッタという名前なのだけど、彼女は毎年夏に、ミステリ作家を招いて二泊三日のサロンを開催するの。ミステリ好きの道楽ね」
「ミステリ作家?」
食いついてしまった。悲しい性だな……。
僕の反応に満足しているのか、帳は艶然とほほ笑む。
少しだけ、僕と帳の距離が近づいた。帳がこちらへ体を傾けたのだ。
「社会派の大御所新藤帝都に翻訳作家須郷大覚、有名コラムニストのすぎたに新進気鋭の道明寺桜。さらに作家にして名探偵の呼び声高い宇津木博士。彼女でなければ招集しえないメンツでしょうね」
「僕をそこに招待するって?」
「ええ。きっとあなたの望む人にも会えるでしょう。まあ、主催者はわたしではないのだけど、日頃お世話になっている瓦礫くんへ、わたしからのお礼だと思って受け取って頂戴」
受け取る権利がはたして、僕にあるのかどうか……。
僕の沈黙をどう理解したのか、帳はさらに体を寄せてくる。彼女の熱っぽい命の脈動を感じるくらいに近い。おおよそ、僕と帳が今まで取ったことの無い距離感。
それは本来、帳と錦が取るべき距離。
反射的に、僕は右へ動いた。もうそこにはほとんどスペースが無いと分かっていながら、体をさらに窄めて無理にでも帳との間隔を広げた。
帳からの感謝など、僕は受け取る権利を持たない。僕の探偵行為はすべて、錦の代行であり、例えるならボランティアに近い。
見返りを受け取れば、僕は偽善者よりも醜悪な何かへと自分を貶めることになる。
しかし同時に、帳の申し出が如何なるものであっても僕は拒絶できないのも事実であり。
結果がどうなったかは、名探偵でなくても推理できた。
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