それは消しゴムのように
昼食は帳の家で食べることになった。どうして? 理由は僕が聞きたいくらいだ。
帳に説明義務などない。ゆえに僕は帳の行動理由を知るときもあれば知らないときもある。今回は後者だったというだけだ。勝手な憶測を述べるなら、彼女はもともと忘れ物を取りに来ただけで、昼食を持参していなかったからだろう。僕は帳を学校まで送迎した車に押し込まれ、そのまま夜島邸へと搬送された。ちなみに運転手は専属の人。もう慣れたよ。
僕は弁当持参だったし、午後からも勉強するつもりだったのだが……。帳が昼食を用意していないというのならひとりで帰ればいいし、帰らなくても購買か近くのコンビニへ買いにいけばいいだけだ。僕を自宅まで搬送、もとい拉致する理由などどこにも無い。
……いや、理由が無いと思うのは僕の視点からであって、帳にはある。そうでなければこんなことしない。
「何を考えているの?」
食後のコーヒーが運ばれてきたところで、帳が話しかけてくる。今僕がいるのは、帳の部屋だ。二十四畳はあろう広大な部屋は、しかし生活感がない。以前聞いた話によると、この部屋は応接室のようなポジションなのだとか。つまり彼女の部屋はふたつあって、ここは客人を通すための部屋というわけだ。
帳が応接室ではなく私室に通してくれたことなど一度も無い。それこそ中学の時からテスト前は夜島邸で個人授業だったが、会場はいつもここだ。
こんな生活感を微塵も感じさせない部屋で『あれやこれや』があるわけもない。
私室に入ったことがあるのは、帳の家族を除けば錦くらいのものだろうか…………。
いかんな。どうも今日は、錦のことを思い出してしまう。
「現実にはおよそ理解不能な動機を持つ犯人がいるってのに、ミステリだと理解不能な動機が認められないのは理不尽だと考えてたんだよ。そういう犯人を描くと、ミステリじゃ『人間が書けてない』って言われるんだぜ?」
応接室の中央、ローテーブルを挟んで向かい合う格好で、僕と帳はソファに座っていた。ソファは二脚とも同じデザインで、横長の三人掛け。色は臙脂。互いに一人でソファに腰掛けているので、広々としていて逆に落ち着かない。鞄を隣に座らせることで、なんとか少しは狭くしてみるが……。
帳は左手でアイスコーヒーの入ったグラスを持ち上げた。挿し入れられたストローが揺れ、氷がカラカラと軽やかな音を立てる。グラスについた水滴が垂れて、彼女の細い指と、制服のプリーツスカートを濡らした。
制服を着替えていないということは、要するに学校へ戻る気があるということだ。
「事実は小説より奇なり、よ。現実が理解不能だから、せめてフィクションくらい明瞭で説明のつくものが読みたいんじゃない?」
コーヒーが彼女の喉を通ると、僅かだが喉が動く。
僕は左へと視線をずらした。そこにはどっしりとした木製の、大きな机がある。角ばって図体ばかりが大きい。校長室とか社長室とか、お偉いさんの部屋に置いてありそうなデザインだ。とてもじゃないが高校生の使いそうな机ではない。机の後ろには大きい背もたれを持つ椅子が鎮座していて、いよいよこの部屋が高校生の部屋だとは思えない。高校生らしさとはかけ離れている。高校生らしくないとか、帳に言うのも今更だが。
もっと高校生らしくないのは、僕と帳の背後にそれぞれある本棚だろう。壁に造りつけられたもので、ずらりと本が並んでいる。帳の背後にある本棚には、背表紙にアルファベットでタイトルが書かれたものしか置かれていない。
グラスを置いた帳は、思いついたような口調で言葉を発した。
「そういえばこの邸宅、朝山大九という人が建てたのよ」
「え?」
いきなりなんだ? ダイク? 大工のことか? だが帳の言い回しだと、朝山某は大工ではなく建築家という風だな。
「二十年くらい前に建てられたのだったかしら? もともとは祖父母が住んでいたらしいけど、わたしたちがここへ引っ越す時にリフォームしてね。その時、初めて大九さんに会ったわ。聞くところによると、朝山序列という小説家の息子なのだとか」
「朝山序列? まさかあの朝山序列?」
「どの朝山序列かは分からないけど、小説家の朝山序列はひとりしかいないんじゃない?」
ついさっき、話題に上ったばかりの人物だ。新藤帝都が審査員長を務める新人賞を設立した小説家。詳しいプロフィールは知らなかったが、息子がいたのか。
「お前がここへ引っ越してきたのって、十年前だよな?」
帳はグラスを置き、図体のデカいあの机へと移動する。引き出しの中を探り、何かを取り出そうとしている。
「そうね。大九さんはこの家に限らず夜島家の邸宅をいくつか設計しているから、けっこう懇意にしてるのよ。つい昨日、お孫さんから夏休みに別荘に来ないかって誘われて、それもあって思い出したの」
夏休みに別荘って、僕の生きる世界じゃフィクションですぜ?
「あったわ。ほら、これが招待状」
「見せられなくても、お前の言葉を疑ったりはしないさ」
言いつつ、帳が引き出しから探り出した招待状を受け取る。落ち着いた黄金色の封筒。中身をあらためると、そこには三枚の紙が入っていた。一枚を適当に開いてみる。
それはまさしく招待状のようで、別荘に招待する旨の文言が書き連ねられていた。あまり興味も無いので一文だけ読んで封筒に収めようとし、ふと、気付く。
模様……じゃないな。絵だ。便箋は文字の書かれた面の背景に、絵が描かれている。上部にローマ数字の『Ⅲ』、下部には英語で『The High Priestess』と書かれている。これは何だ? 何を表した絵なんだ?
「昼食も終わったから、そろそろ本題に入ってもいいんじゃない?」
今までの話題を区切るように、彼女が呟く。
「本題、ね」
招待状は封筒に仕舞って、鞄から中藤先生から預かっていたものを取り出す。
ファンシーな表紙の、あの手帳だ。ペラペラとページを捲ってみると、予定を書き込めるカレンダーが月ごとにあり、さらに日ごとに細かいメモを取れるページも用意されている。罫線だけのページ、アドレスを書き込むための表が後ろにあり、表紙から受ける印象と違い実用的な内容になっている。ハードカバーのお陰でページの端が折れたりすることもなく、半年以上使っているはずだが新品同様に綺麗だ。
そう、新品同様に。
手帳に文字どころか線一本すら書き込まれていないところを含めて、新品同様に。
「文字が消えたっていうのは、つまり書いていた内容が消えたってことなんだよなあ」
中藤先生はあの後、僕と帳に向かって「何とかして!」と頼んだ。帳がそれを了承し、現在に至るのだ。
完全に僕はとばっちりじゃないか。
「手帳に書かれていた内容を復元するのが、先生からの依頼なんだよな?」
「そうなるわね」
帳の回答はそっけない。他人事だと思いやがって……。依頼を受けたのは僕じゃなくて帳だぞ。
「みっつ、質問いいか?」
「どうぞ」
「ひとつ。どうして中藤先生は帳に依頼したんだ?」
「あれはわたしではなく、瓦礫くんに頼んだのよ」
「それをお前が了承してしまうのに、もう僕はつっこまないぞ。あと、先生が頼んだ相手が帳から僕になっても疑問が解消されない。」
「四月のボヤ事件を誰かから聞いたんじゃないかしら。その事件のことを抜きにしても、あなたは一年次と二年次でいくつか事件を解決していたもの。中藤先生の采配は的確ね」
「中学時代ほど派手に動いたつもりはないんだけどなあ」
中学生の頃、酷い事件に巻き込まれたことがある。その事件が原因で所属していた剣道部が廃部になるくらいの大事件だったのだ。事件自体は解決したのだけど、悪目立ちしてしまい、その後苦労が絶えなかった。
だから高校に入学して以降は、帳が持ち込んだ事件をできるだけこそこそ解決している。推理の過程は帳以外に話さないことにしたし、結果も当事者だけに教えている。
長谷川が四月に起こした事件を解決するまで、クラスの連中は僕が『こういうこと』に慣れているのはおろか、ミステリマニアだったことすら知らなかったはずだ。
「ふたつ。この手帳は本当に何かが書かれていたのか?」
「どういうこと?」
「先の質問で中藤先生が『猫目石瓦礫は謎を解く』ということを知っていたのは分かった。僕がどういう心持ちで事件に臨んでいるかは知る由もないだろうが、少なくとも『事件が起きれば猫目石瓦礫は動く』程度の認識はあっただろう。そこで我ながら被害妄想が過ぎるとも思うんだけど、中藤先生が僕と帳をからかって新品の手帳を用意し、その上で『手帳に書いてあった内容が消えた!』と騒いでみせた可能性を僕は危惧しているんだよ」
「確かに被害妄想ね」
「被害妄想であると同時に、もっとも高い可能性でもある。手帳に書いてあった内容がすべて消える? もともと何も書かれていなかったと考えるのが現実的だ」
ハウダニットとワイダニットの両面から考えて、『手帳に記されていた内容が消えた』とするよりは、『手帳にはもともと何も書かれていなかった』とした方が現実的なのだ。
「まずハウダニット的な話だが、まだ僕は手帳に書かれていた内容を消失させる現象に見当がついていない。しかし順当に考えて、その現象とは、自然発生的なものか人為的なものかの二択しか考えられないだろう」
「事故か事件、ということね」
「そう。自然発生的に手帳の内容を消失させる現象なんて、さっぱり分からないから、今は置いておこう。問題は後者なんだ。後者の場合、犯人が存在することになる」
「ワイダニットというのは……」
「犯人が存在する場合のみ考えられる。だけど、実際どうなんだ? 犯人がこの件にいたとして、中藤先生の手帳を内容だけ消失させる理由があるのか?」
「ないわね。もし手帳に、犯人にとって不利になる何かが書かれているのなら、その手帳を盗んでしまえばいいもの。わざわざ内容だけを消失させるというのは不可解だわ」
「ゆえに可能性が高い仮説は順に、『もともと手帳には何も書かれていなかった』、『自然発生的な現象によって内容だけが消失した』、『誰かが手帳の内容だけを消失させた』ということになる。中藤先生の性格を考慮に入れれば、わざわざ新しい手帳を用意して、僕と帳をからかったとするのが、最も可能性の高い仮説なんだよ」
一気呵成に喋ったら、喉が渇いた。元来、お喋りな性質ではない。持っていた手帳をローテーブルに置き、水滴に濡れたグラスを取って、コーヒーをストローで吸った。冷たさと苦さが染みて、喋りつかれた喉を癒す。
帳の左手は暇そうに、ストローでコーヒーをかき混ぜた。氷がグラスにぶつかるたび、カラカラと涼やかな音を立てた。
「でもそんな結末じゃあ、つまらないでしょう?」
「つまるもつまらないもあるか。まあ、先生に確認を取らないと、証明終了にならないのは確かだけどさ」
「いくら中藤先生でも、そんな手の込んだからかい方はしないんじゃない?」
「…………どうだか」
帳の意見の方がより現実的だというのは、分かっているのだが……。
「じゃ、最後の質問だ。これは中藤先生の狂言説が否定されたという前提で言うんだけど」
「なに?」
「わざわざ内容を復元する意味があるのか? 手帳って要するにメモ帳の類だろ? そりゃ半年以上使っていればいろいろメモするだろうけど、そのメモは大半が用済みのはずだ。先生にとって必要なのは七月以降のスケジュールに関するメモで、それは書いた時点である程度頭の中に入ってそうなものだ。また書き直せばいいだろう」
「却下。重大な何かが書かれていたのかもしれないわ。先生にとって重要重大なものであれば、たとえ瓦礫くんにとっては路傍の石ころ程度の価値しかなかったとしても、復元するべきね」
正論で返されればぐうの音も出なかった。もとより、最後の質問は悪あがきなのだ。諦め半分でぶつけている。
「分かったよ、仕方ない。早く勉強に戻りたいから、さっさと手帳を何とかしよう」
手帳を再び手に取って検分する。夜島邸へ向かう際中の車内で一度見ているが、あの時は仮説も推測も無く漠然と『内容の消失』を確かめただけだった。もう一度確認した方がよさそうだ。
「手帳に書かれていた文字が全部消えるって、そんな現象あるのか?」
「少なくともわたしは、寡聞にして存じないわ」
「でしょうよ」
怪しげなアングラ系サイトでだって、そんな現象は噂すらない。
「やっぱり自然発生的な現象とするよりは、誰かの手によって行われたと考える方が現実的なんじゃないかしら?」
「それなら幾分か、楽ではあるんだけど……」
僕としては、釈然としないのだ。わざわざ手帳の内容を消失させる理由が分からない。
一旦手帳を閉じて、表紙を見る。ふざけた顔のクマと目が合った。
「犯人は手帳に書かれた内容を消失させることが目的ではなく、内容を閲覧することが目的だったとか? しかも中藤先生に盗まれたとばれると困る? だから代わりの手帳を置いた?」
「結果は一緒よ。代わりの手帳を用意する理由が無いわ。盗難に気づかれたくなければコピーを取ればいいじゃない。あるいは写真を取るとか。盗まず、代わりの物を用意せずとも可能よ。どうしても代替品を置きたいなら、もっと精巧な偽物を作らなければ意味が無いわ。盗難の事実を誤魔化すという目的が達成できない」
「しかも偽物を作る段階で、本物の内容は閲覧できてるよな、それ」
そうでなければ精巧な偽物が作れない。じゃあ中身は問題ではなく偽物を置くのが目的だったのだと仮説を立ててみると……。すぐに偽物だと気付かれる物を置いて何が楽しいんだよ。
「そうなると自然発生的な現象が原因って仮説に戻るんだけど……」
堂々巡りだな、これは。犯人が手帳の内容だけを消失させるというのは、やはりどんな理由があったところで合理性に欠ける。自然発生的な現象というのはいささか現実味に欠ける。結局、僕の思考は中藤先生の狂言説に着地してしまった。
「ちょっと貸して」
帳は僕から手帳を取り上げて、一ページずつ慎重に捲り始めた。まるで古文書を扱う考古学者か国文学者のような手つきで、白い手袋を嵌めれば様になったんじゃないだろうか。
「せめて狂言説を否定できる客観的な証拠があれば、話は別なのだけど……」
「あるいは視点を変えてみれば、可能性を絞れるかもしれないな」
ひとつ思いついた。どうせ無駄骨になるだろうけど、大した手間じゃないなら調べても損は無い。
「帳、パソコン貸してくれるか?」
「タブレットなら机の上にあるわ。パソコンじゃないと駄目かしら?」
「ネットが使えればいいんだ」
彼女が指さしたのは例の、重厚な存在感を放つ木製の机だ。立ちあがって近づいてみると、大学ノートくらいの大きさのタブレットが無造作に置かれている。革製のカバーが装着されていて、見た目はそれこそ、大きな手帳のようだった。
タブレットを手に取ろうとして、机の隅に写真立てがあるのに気付いた。ガラス製のシンプルな意匠だが、向こうをむいていて、こちらからでは何の写真かまでは判断がつかない。
机の上にはタブレットと写真立ての他に、ハガキ大の箱が置かれていた。薄い色合いのそれはおそらく桐とか、そういう上質な類の木で作られているのだろう。中に何が入っているのかは、まるで想像できない。文房具の類だろうか。宝飾品だったら、帳がこんなところに置いておくはずもない。
「この箱、何が入ってるんだ?」
「タロットよ。大したものじゃないわ」
「わざわざ桐の箱に?」
「紙製のカードは湿気に弱いから、木製の箱に入れて湿気から守るのよ」
「ふうん」
どうでもいいことを聞いたのは、タブレットの使い方が分からず四苦八苦しているのを悟られないためだった。僕は帳に背を向けているので彼女の表情は読めない。ばれていないか不安になる。
ようやっと側面の電源ボタンを押して、画面を明るくする。検索エンジンを起動して調べたのは、大手の通販サイトだ。手帳の販売元は裏表紙に、小さく書いてあった。それを入力して、このサイトでどんな商品が取り扱われているのか見てみたかった。
可能性を潰したい。特に先生の狂言説。
幸運なことに、僕の祈りは通じたらしい。検索結果は面白いものだった。
「なんだこれ。おい帳、見てみろよ」
「なにかあったの?」
帳が回り込んで、机とセットになっていた椅子に腰掛ける。向かい合う構図はソファに座っていた時と変わらないのに、今は距離が近い。僕が机に置いたタブレットを、帳は覗き込んだ。
「これは、凄いことになってるわね」
「そうだな。調べてみて正解だった」
結果から先に言えば、無駄骨にならずに済んだ。中藤先生の狂言説、そして第三者による犯行説も否定されたのだ。
それというもの、中藤先生が使用していた問題の手帳は、七月現在では入手が相当困難になっていたからだ。
「現実離れした勢いで値段が上昇しているわ。しかも中藤先生のものと同タイプの手帳だけ。何があったのかしら?」
「レビューに何か書いてないか……? あった」
「『表紙を描いた画家が四月に亡くなり、非常に残念です』。あとは『もともと限定販売だったので、もう手に入らないと思いますよー』。なんとなく事情は見えてきたようね」
「つまり、数量限定で販売した後で、急に価値が上昇したってことか」
詳しく調べてみると、手帳の表紙を描いた画家はフランスの児童文学界では有名で、多くの挿絵を手掛けてきたのだとか。
「知ってるか?」
「さあ。さすがにわたしも、ここまでコアな業界には精通してないわ。どこかで聞いた名前だとは思うのだけど」
「フランスの児童文学界って、日本人にはまったく馴染の無い業界だよな。ふむ、しかし有名人であることには変わりないから、手帳の販売元が目をつけて表紙の製作を依頼したって具合かな?」
「たぶん、そうなんでしょうね。小さな販売元みたいだから、数量限定で発売したというよりも、採算を考えて販売部数を減らしたといったところかしら」
販売元からすれば妥当な計算だったんだろうけど……。世の中何が起こるか分からないな。あれよあれよという間に価値が上昇していく。
細い指を動かして、帳はタブレットを操作していく。
「この販売元、ネット上でしか取引をしてないみたい。レビューを見たところ、在庫はもう無くなっていると公表されているみたいだけど、たぶん嘘ね」
「え?」
「これを見て」
帳が画面に表示させたのは、見たことの無いサイトだった。文章は全部アルファベットで書かれているが、だから英語だという安易な帰結はしない。帳がフランス語やドイツ語にも通暁しているのを忘れてはならない。比較的単純な操作で開いていたから、お気に入り登録でもしてあったんだろう。彼女はこのサイトをよく見るらしい。
画面上には、中藤先生の手帳と同一のデザインの物がいくつも掲載されている。その隣には赤字で数字が書かれていて、それはアラビア数字なので僕でも読めた。数字の後ろにはEUROと書かれていて、ようやくこのサイトの正体を理解した。
「もしかしてオークションサイトか? 通貨の単位からして、ヨーロッパの……」
「ええ。呑み込みが早くて助かるわ。これを見てほしいのだけど」
帳が指で示したのは、出品されている手帳の中で最も高額な値段がつけられているものだ。
その額三千ユーロ。
「一ユーロって何円だ?」
「たぶん今は百三十円くらい。だから……」
二人して暗算を始める。こういう時だけは、自分が文系であることを恨む。昔から暗算は苦手で、今でも指折り数えて計算する癖が抜けない。
早々に諦めて、帳がタブレットの電卓機能を使う。
「約四十万円ね」
「手帳一冊に四十万? 大学の入学金が払えるぞ」
自分で口にして、嫌な現実に閉塞する。そんな大金を手帳一冊のために費やす気持ちは、まったく理解できなかった。帳ならあるいは、分かるのかもしれないが。
「これだけ値上がりしているのは、理由があるのよ。ここを読んでみて……ああ、瓦礫くんはフランス語、読めないのよね」
「嫌味か? フランス語が読める高校生の方が少ない」
「わたしの心も読めない」
「そりゃ読めないでしょうよ。なにせ――」
なにせ夜島帳さんなんですから。口がそう発する前に、帳の人差し指が僕の唇に触れる。あまりに唐突な出来事に、言葉が出なくなった。
僕を見る帳の目は、どこか氷の様な冷やかさがあった。
「読む気が無いだけよ」
「……さいで」
ボヤ事件の時を思い出す。あの時同様、無意識に地雷を踏んだのだろうか。
僕の心配をよそに、帳の目はすぐに元の温度を取り戻していた。
「出品情報に『新品未使用品』の記載。それと、出品者がこの手帳の販売元と同じになっているわ。大方、値上がりしたから倉庫に残っていた在庫をオークションに出品したんでしょう」
「…………売れ残った商品が、販売元に残っていたってことか?」
「販売元は零細企業で、唯一のセールスポイントである表紙の絵は日本人になじみの無い画家が描いている。そんな商品の在庫を全て捌き切れたとは思えない。『在庫がある』と言ってしまうと定価で売らなければならないから、在庫は無いことにして、ばれないように海外のオークションサイトで売ってたのね」
「汚い商売だな」
「稼ぐというのはこういうことよ」
社会の暗部を垣間見てしまったが、想像以上に成果は上がった。当該手帳は中藤先生が購入した時点では平凡な価値しか持たない手帳だった。しかし画家の死亡によって、特にフランスでの価値が高騰。現在は入手不可能な状態にある。
つまり、犯行説を取った場合、犯人が中藤先生の手帳と同タイプの新品を用意し、それを交換するという作戦は使えないということだ。同時に、中藤先生自身が同タイプの手帳を用意して入れ替え、僕と帳をからかったという可能性も無くなった。
さしもの中藤先生も、生徒をからかうためだけに四十万を払うとは思えない。
「狂言説と犯行説が実質、否定されたわけだ。まだ入れ替え以外のトリックの可能性が残ってるけど」
ただ、まあ、犯行説は入れ替えトリックですら現実味が無かったし、狂言説は入れ替えトリック以上の手間を惜しむとは考えにくいのだけど。
「自然発生的な現象による事故説。ようやっと、明確な進路が決まったようね」
「……ああ」
可能性を絞り切ったところで、もう一度、手帳を確認しよう。あの新品同然にまっさらとなってしまったあの手帳をこれ以上検めて何になるのだという気もしないではないが、手掛かりがあるとしたら、あの手帳以外に残されているとも思えないのだ。
…………うん?
「どうかしたの?」
帳が僕の顔を覗きこんで来た。珍しく、心配そうな声色をしている。
「いや、ちょっと……。中藤先生の手帳って、新品同様にまっさらだったんだよなあと」
「そうね。わたしもさっき検めたけど、まっさらだったわ」
「中藤先生は手帳に文字を書く際、どんな筆記具を使ったんだ?」
聞き忘れていた。当初は漠然とボールペンか何かだろうと思っていたが、今は、それが重要なことのような気がするのだ。
「わたしも聞いていないわ。ただ、いくら精神年齢義務教育の中藤先生でも、手帳にペンシルはいただけないんじゃないかしら」
「だよなあ。要確認だけど、もし中藤先生がボールペンを記帳に使っていたのなら、ひとつ問題が発生する」
考えてみればおかしいのだ。手帳がまっさらなんて。何の痕跡も残さず、手帳に書かれた文字はおろか、誤字を修正した跡すら残さず消えてしまうなんてことは。
「帳は手帳を半年間使い続けて、その間一度も、手帳に記す文字を書き間違えないなんてことができるか?」
「不可能よ。誰だって間違えるわ」
「あ、そうなんだ」
てっきり帳のことだから、「できるに決まってるじゃない」と言うのかと。
「ではこの中藤先生の手帳に記された内容にも、誤字があり、その誤字を修正し書き直した跡があったはずだと考えるのは自然だ。すると、誤字を修正した方法の如何に関わらず、その痕跡も手帳の内容と一緒に消えているというのは何か、暗示的じゃないか?」
砂消しゴム、修正液に修正テープ。ボールペンの書き損じを消す方法はいくつかあるが、少なくとも僕が思いつく方法はすべて消し跡が残るのだ。それにも関わらず、この手帳には何の痕跡も残っていない。
「つまり文字を消失させた現象は、同時に消し跡すら消失させたということ?」
「違う。もっと単純な可能性がある。それは、この手帳に消し跡なんて最初から無かったという可能性だ。」
中藤先生は精神年齢少年Aだが、大人である以上手帳にはボールペンで字を書くだろう。
しかし誤字を修正した跡が手帳にはなく、それは文字を消失させた現象によって同時に消されたか、あるいはそもそも、手帳に消し跡なんてなかったか。そのどちらか。
前者の場合は複雑だが、後者の場合はシンプル。
僕は後者のパターンにひとつ、仮説を思いついている。
机の上に置かれたタブレットを再び操作し、大手文具メーカーのサイトを開いた。そこから商品ラインナップのページを探す。
目的の商品を見つけたら、さらにジャンプ。
ビンゴだ。
間違いない。中藤先生の使用した筆記具がこれならば、すべての符号は一致する。
「帳、このページ印刷できないか?」
「わたしの部屋にあるプリンターならできるわね」
では僕が印刷に行くわけにはいかないな。
「頼めるか?」
「いいわよ」
彼女は微かに笑みを浮かべると、タブレットを取り上げて部屋を出ていく。
印刷を待っている間に確認したいことがあるのだが……。その前に、僕は机に置いてあった写真立てを自分の方へと向けた。内心、気になっていたのだ。野卑な好奇心ではあるけど、帳からどんな種類のものであれ、写真というものを見せてもらったことが無いのだ。
昔にその話をしたら、あいつは次の日にレントゲン写真を持ってきやがった。しかもわざわざ、僕に見せるために撮影したやつを。
だから僕が写真を見ようと行動したのは、好奇心からの発露以上に、あの時の腹いせというのが大きかった。
写真には三人の人物が写っている。三人とも小学生くらいの幼さで、左のひとりが男の子、中央と右に写っているのは女の子だ。男の子は二人から少し離れるように立っていて、右のいる女の子は中央の女の子に寄り添うように立っている。
二人の女の子は、別に驚くほどのことではないのだが、容姿がそっくりだ。背丈にも差がない。異なっているのは服装と表情くらいだろうか。
中央の女の子は快活そうな笑顔を浮かべ、写っている三人の中で一番の存在感を放っている。ボーイッシュな格好をして、右手はピースをしてカメラに突き出す。左手は隣の女の子の手を握り、フラッシュが反射したのか、手首の腕時計が輝いている。リーダー格というか、左右の二人と違って、自意識や自我というものが態度に現れている。しかもそれは、少年少女特有の根拠無き浅薄なものではなさそうだ。自分が何者であるかを、はっきり理解しているようだった。
右の少女は、ビスクドールが着ている物のように豪奢なドレスに身を包んでいる。レースとリボンに包まれた中、カメラを怖がっているのか、表情が弱々しい。だが、その弱々しさが逆に、背中にふわりと寄り添うような美しさとなっている。容姿はそっくりだが、美的な完成度はこちらの方が数段高いと思わせる。それはビニール梱包を剥がしたばかりの消しゴムのように、触れればすぐに壊れてしまいそうだからか。
よく似た二人の少女。彼女らは双子ではなく、従兄弟同士である。
僕がどうしてそれを知っているのか? 写真の左に写っている冴えない男の子が、僕だからだ。
まったく、我ながら今見ると、こう、いかにも素直じゃなさそうな顔をしている。
写真の右に写っているのが帳だ。あいつは僕が知る限り『可愛い』という形容詞が似合った時期が無い。今でこそあんなだが、小さい頃は内気というか、怖がりというか、いつも錦について歩いていたのだ。体が弱く入院生活が長かった帳は同年代の友達がほとんどおらず、錦だけが頼れる存在だった。
……だった、というか、今もそうなのかもしれない。あいつが失踪して九年が経っても、未だ錦の存在は大きい。
僕が永遠にあいつの代わりであるように、帳があの瞳の中に捉えているのも、きっと錦だけだ。
つまらない感傷は終わりにして、僕は写真立てを元の位置に戻し、ケータイから長谷川にコールする。ここへ来る前、学校に残っている連中と連絡ができるようにアドレスを交換しておいたのだ。
「よう猫目石。なんか用か?」
やつは三コール目に出た。こいつの声を耳元で聞いていると思うといささか不愉快なんだが、今は我慢しよう。
「中藤先生はいるか?」
「目の前にいる」
「代わってくれ」
しばらくケータイの向こう側で雑音がして、それから中藤先生の高い声が聞こえてきた。いつもより覇気に欠けている。
「どう? 手帳の方は何とかなりそう?」
「ええ。三つ、確認が取れれば」
もっとも、僕はこれ以外に可能性はないと踏んでいるが。
手帳復元の目途が立ったお陰か、少しだけ先生の声に力が戻った。
「分かった。何が聞きたいの?」
「まず一つ目は、手帳が置いてあった場所です。昨日から車内に放り出していたんですよね? 正確には車内のどこに、手帳を置いていましたか?」
「えっと……。ダッシュボードの上。助手席側のね。そこに昨日の昼から」
「なるほど。では二つ目。今日はロータリーの所に駐車していましたが、昨日はどこに駐車していましたか?」
「昨日も同じ場所だったけど……それが意味あるの?」
「もちろん。意味の無い質問はしません。時間と言葉の無駄ですから。それでは最後の質問です。先生は一体どんな筆記具で、手帳にメモを取りますか?」
中藤先生の答えが僕を満足させるものだったのは、言うまでもない。
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