上等高校2 消しゴム同盟

消えた!

 背筋を撫ぜられるような背徳感が心中に湧き上がる。

 生殺与奪の権限が自分にあるという陶酔。僕の手が軽く動くだけで美しい物が音を立てて崩れていくというのは快感だ。謎を解き明かすときの達成感とは趣を異にする。そう、命を握りつぶすような感触。

 僕は消しゴムを握った左手を動かして、間違えて書いてしまった句点を消した。ビニール梱包から取り出したばかりの消しゴムは角を黒く汚してすり減る。

 自然と体が震えた。一線を踏み越えた、ある種やり遂げた実感と、次にこれを味わえるのが相当先になることへの後悔が込み上げる。

 消しゴムを机に置いて、しばし余韻に浸る。新品の消しゴムを使う時に決まって感じるこの酩酊は、何回味わっても新鮮だ。

「おい猫目石、ちょっと消しゴム借りるぞ」

 正面の席に座っていた長谷川将が僕の消しゴムへと手を伸ばす。その腕を僕はシャーペンで突き刺した。言うまでも無く芯が飛び出した状態で、だ。畜生長谷川に手加減など不要。

「いってぇ! 何すんだ!」

「君こそ何してる。僕の新品同然の消しゴムを使うな」

「消しゴム忘れたんだぜ?」

「シャーペンの先端に付いてるだろ。勉強を教えてもらっている分際で厚かましいぞ。恥を知れ」

 数日後には期末テストが迫っていて、今日がテスト前最後の土曜日である。テスト前の土曜日には登校して勉強するのが僕の日課なのだが、長谷川はどうやら、僕のそうした習慣を知っていたらしくて、待ち伏せされていた。

「だってよお、大概の男子は理系だし、文系の男子でまともに『できる』のお前だけなんだから……」

「改めて説明されるとそれ、壮絶な状況だよな」

 僕や長谷川が所属する十五組は、諸般の事情から文系と理系がごちゃまぜにされている。クラス内の文理の比率自体は半々といったところだが、文系の男子は僕を含めて四人だけしかいない。理系は男子が多く文系は女子が多いというのは、あながち偏見でもないらしい。

 それと、長谷川の「まともに『できる』のお前だけ」発言は適切ではないだろう。長谷川にとって勉強の指導を頼めるのが僕しかいなかったというだけのことで、文系男子四人のうち、僕以外の成績が壊滅的ということではないはず。

 悪いのは僕以外に勉強を頼めない長谷川だ。

 日本史の問題を解きつつ、片手間で長谷川の話し相手になる。

「僕は他の三人の成績なんて知らないから、まともにできるかどうか分からん。宮崎はどうなんだ?」

 宮崎とは、文系男子の中で長谷川が特に親しくしている、さわがしいサッカー馬鹿である。しかし本人はサッカー部ではない。どうやら中学時代はそうだったようだが、十五組は進学クラスゆえ運動部への入部を禁止されている。

 普段の言動などからして、確かにサッカーが好きなのだろうが、こういうやつとスポーツをするのが一番危ない。なまじ経験者で、しかしブランクがある。そして本人はブランクなんて言葉を辞書から抹消している。自分の思い通りに体が動き、他人は怪我をしないロボコップだと信じて疑わないタイプの人間だ。

 スポーツだろうがその他活動だろうが、こんな危機感の薄い人間と行動を共にしたくはない。

「宮崎のセンター模試の結果、見たか? 国語の正答率二十五パーセントだったぜ」

「じゃあ無理だな」

 センター模試は四択問題。つまり宮崎は確率通りの正答率を出したことになる。この三年間で何を学んでいたんだか。

 外でセミの声がやかましい。校舎と体育館の間にある駐車場には、種類こそ不明だが樹木が植えられている。たぶんその樹木に張り付いたセミが鳴いているんだろう。

 下卑たセミの声は否応なしに体感温度を上げる。教室内はクーラーが効いているが、長谷川は暑そうに下敷きで自身をあおぐ。

「じゃあ加水は? どう見ても勉強できそうな外見してるだろ。眼鏡だし」

「眼鏡は関係ねぇぞ」

 加水はいつも教室の隅で静かにしている、宮崎とは正反対な男だ。彼は印象が薄いというか……。『一日中欠席していたことを六時間目の段階でようやく気付かれる』というエピソードを持つ強者である。

 存在感は希薄だが、僕の記憶では、いつも休み時間に参考書を開いていたような気がする。イコール頭が良いという安直な結論を出すつもりはないが、少なくとも勉学に対する姿勢は本物だろう。

「あいつ連絡先知らねえんだよ」

「なるほど」

 影薄き者の宿命か。ちなみに僕も連絡先は知らない。

「ていうかお前の連絡先も知らねえんだけど」

「あれ?」

 僕も影薄き者だったのか? 四月のとき、そういうことを長谷川に言われていた記憶もあるが……。

「いや長谷川、連絡先っていうのは大抵、四月の始めに交換するよな?」

 こいつとは一年生の時からの縁なので、一昨年の四月には互いの連絡先を知っていてもおかしくないと思うが……。

「お前、最初のころ、すっげえ『こっち来るんじゃねえ』オーラ放ってたぞ。それでたぶんクラスメイト全員、お前の連絡先知らない」

「あー……」

 そんなに社交性なかったのか、一昨年の僕って。

 過去の自分にショックを受けていると、教室の扉が開いた。扉は教室の前方と後方にひとつずつあるが、開かれたのは前方の扉だった。

 ぞろぞろと、四人の女子が連れだって現れる。その顔はどれも知っている。クラスメイト、しかも文系の女子たちだ。各々、鞄やコンビニの物と思われるビニール袋を提げている。ビニール袋から透けて見える中身はどれもスナック菓子の類だ。たぶん勉強会と称するお茶会でも開こうという魂胆なのだろう。これはテスト前恒例の光景なのでもう何とも思わない。

 邪魔さえされなければいい。多少、いや盛大にうるさくなるだろうが、いつものことだからもう慣れた。

「えっと、後、話題に上っていないのは紫崎だけか?」

「ああ。俺はあいつ嫌いだからな」

「奇跡的に意見が一致した。僕もだ」

 紫崎は…………嫌な奴だ。顔を思い浮かべるのも億劫だと思うくらいには。

「なんであんなやつが勉強できるんだろうなー。あいつが勉強できるなら俺もできるだろ?」

「勉強できるからあんな性格なんだろう。それより長谷川、手が止まってるぞ。さっさと続けろ」

「ぐっ……」

 僕は問題を解き終えて、解答集を広げた。さっきまで取り組んでいた記述を除けば、すべて知識を確かめる穴埋め問題だ。丸付けにそう手間はかからない。

 長谷川の進み具合は……最悪だ。九時に開始して一時間が経過しているというのに、まだ見開きの半分も終わっていない。

 こいつが今勉強しているのは、国語のテスト範囲だ。教科書の内容に準拠した問題集で、内容はさほど難しくない。当然一度は授業でやっている内容で、もう答えは知っているようなものなのだ。それがどうしてできない。

「古典ならまだしも、今やっているのは現代文なんだよな? 答えなんて本文に全部書いてあるようなもんだろ。どうして遅々として進まないんだ」

「俺も不思議なんだよ! 普段使ってる日本語だぜ? 直感的に分かりそうなもんだが……」

「直感? はっ! できないやつの言い分だな」

 思うに、国語の成績が悪いやつは、日本語もまた言語であるという認識が足りないんじゃないか? 言語である以上文法がある、語順がある、読み解き方がある。それを勘違いして直感で解こうとするから間違える。

 ……なんて、これは中学時代に帳から言われたことだ。国語の成績が落ちて困っていた時に、帳がそう教えてくれた。さすが、最近ではラテン語を勉強し始めたという語学の才媛は言うことが違う。

「まずは古典からだな。日本語にも文法があることを思い知ってから現代文だ」

 一時間も同じ問題に取り組めば集中力を失う。気分転換も兼ねて、僕は長谷川に違う問題をやらせることにした。

 かくいう僕も、さっきから日本史の問題ばかりをやり続けていた。記憶から知識を引っ張る作業など一時間続けたところで、文系の僕が疲れるはずもないのだが、さすがに飽きた。

 こちらも趣向を変えて、数学でもしよう。難しすぎる問題は御免だが、ほどよい難易度の問題はパズルみたいで楽しい。僕は文系だが、数学にそこまで苦手意識を持っていない。

 不意に教室の扉が開かれる。さっき女子たちが開いたのと同じ、教室前方の扉だ。

「あら、朝早くから勉強頑張ってるね」

 入って来たのは、我がクラスの文系古典を教えている中藤先生だ。おかっぱ頭で中肉中背、いつも張り付けた笑顔以外は外見上の特徴を持たない女性教師。年齢は三十代前半(当たり前のように年齢非公開なので推測)だが、精神年齢は永遠の十六歳という驚異的な個性の持ち主だ。

 僕はできるだけ身を屈めて、取り出したばかりの数学の問題集に取り組むふりをした。

「あ、中藤先生!」

 女子集団の中から声が上がる。その声は加地さん? いたのか。

「今何してるの?」

「理科。生物だけど、覚えるのがメンドイから」

「それは大変。私は教えられないけど。頑張ってね」

 加地さんが話しかけたお陰で、中藤先生の注意は女子集団に向かう。あの集団は全員文系だから、先生の注意もしばらくはそちらへ逸れるだろう。

 今の内に退散だ。適当に理由はでっちあげ……なくてもいいか。僕の相手してるのは長谷川だけだし。

「そっちはどう、猫目石くん」

 くるりと、それこそ僕が腰を浮かせたのを察知したかのように中藤先生は視線をこちらへ向けた。

「まあ、順調だとは思いますよ」

「そりゃ猫目石くんなら順調だろうねー。上等高校稀に見る優等生と名高い夜島ちゃんと『これ』だから」

 先生は右手の小指だけを伸ばして軽く振る。なんだっけそのジェスチャー。

 電話、じゃないよな。

「『これ』が何を指すのかは知りませんが、たぶん先生が想像してるような仲じゃないですよ、僕と帳は」

「またまたー。個人授業、してもらってるんでしょ?」

「まあ、否定はしませんよ。お互い、苦手はあるんで」

「で、個人授業にかこつけてあれやこれや」

「できたら僕も男冥利に尽きるんですけどね。生憎、帳とはプラトニックな関係なんで」

「おや驚き。猫目石くんからそういう横文字が飛び出すなんて」

「先生が意味を理解しているのに僕は驚いてますよ」

 僕が日常使用する横文字は大抵、帳が喋っていたのを覚えたものだ。だから英語どころかラテン語すら混じるので、他の人と話すときは気を遣う。幸い、プラトニックくらいなら中藤先生に通じるらしい。

「もー。猫目石くんが夜島ちゃんにホの字なのはバレバレなんだから、隠さなくたっていいのに」

 ホの字って古いな。本当は何歳なんだろ、この人。

 それとゴシップ好きも大概にしてほしいところだ。僕と帳の付き合いはなまじ長期間に及ぶので、その気で叩けば埃が大量に出る。話題には事欠かないのだろうが、当事者の僕は気持ちよくない。帳ほど無頓着になれたらどんなにいいか。

 いっそ密室トリックでも構築して、中藤先生を殺害しようか。

「なんか言った?」

「別に」

 ちくしょう内言まで読んできやがる。思想の自由が無い。

「そうだ。先生、長谷川の国語見てやってくださいよ。こいつ古典はおろか現代文すらできないんで」

「おい馬鹿やめ……」

 腹いせに長谷川を犠牲として中藤先生から逃れることにした。長谷川の静止は聞こえない。

「へえ。じゃあ見てあげようか。理系のテスト範囲知らないけど、たぶん文系と大して変わらないよね?」

 理系は国語を見ている先生が違う。でも中間テストはほとんど範囲が一緒だったから、たぶん進行具合に差はない。文系と理系でそこまで内容が変わるような教科でもないのだ。

「猫目石、なんてことしてくれたんだ!」

「がんばれー」

 長谷川と中藤先生の個人授業が始まり、僕は子守から解放された。よし、コーヒーでも買いに行くふりして部室へ逃げよう。

 僕はこの先生が天敵なのだ。アブラムシにとってのテントウムシがそうであるように、グーにとってのパーがそうであるように、僕と中藤先生の相性は悪い。

 最悪といっても差支えないのかもしれない。向こうはそんなこと、全然思っちゃないのだろうが。

 永遠のモラトリアム期間たる中藤先生はよく生徒にちょっかいを出す。僕に限った話では無い。生徒に対し極めてフレンドリーに接するのが彼女の流儀なのだろう。だからなのか生徒からは信頼されている。

 しかし僕にとって、そういう性格の人間はひたすら面倒なだけだ。教師以外の職業人ならば、もう少し接しやすいのかもしれないが。

「じゃあ猫目石、こっち教えてよ」

 意気揚々と教室を去ろうとしていた僕に声を掛けたのは、まぎれも無く加地さんで。

「はあ?」

「はあ? じゃないって。こっちの生物教えてよ。暇なんでしょ?」

 テスト前に暇なやつなんているわけないだろ。

 僕が反論をしようと口を開く前に、加地さんは追撃する。

「男子なら理科もできるよね」

「できるかできないかは、この場合大した問題じゃないと思うんだよなあ」

 僕がするかしないかの問題でしかない。そしてしない。したくない。

 他の女子も加地さんに乗じる。

「ほらー。頼むからさあ。お菓子あげるって」

「男子なんだから女子の頼み聞いてよ」

 めんどくさいなあ僕に頼まないでくれ。男だからって女の頼みを全部聞くと思うなよ? 長谷川の相手が子守なら君たちの相手は大守だ。何人か長谷川より横幅大きいやついるし。

「……仕方ないな、生物の範囲だったか。あとお菓子はいらない」

 本音を口にすればボコボコにされるのが目に見えているので建前を使う。男が紳士であるべき最大の理由って、我が身を守るためなんじゃないのかい?

 女子がお菓子を広げている机へと歩み寄る。女子四人は机をくっつけて、互いに向かい合う格好にしている。中央にはスナック菓子の大袋が広げられ、油っぽい匂いが鼻につく。

 四人の中で特に食べているのは、一番横幅の大きい足軽さんだ。彼女はポテトチップスを食べながら「全然痩せないなぁ」と呟くことで僕を恐怖のどん底に落としてくれやがった人なので、顔と名前が一致する。

 加地さんと足軽さん以外、誰が誰だが。

 それにしても女子連中はよく食べる。僕はお菓子を摘まみながら勉強なんてできないな。食べるか勉強するか、どちらか一方しかできない。

 女性の脳は男性のそれと違い、複数の物事を同時に行えるという話を聞いたことがある。彼女たちが喋りながら食べながら勉強できるのはそのせいか……。いや、単に集中していないだけだと思うけど。

「確か今回の生物って、遺伝のところだったよな」

「うん。優性遺伝とか意味わかんない」

「字義通りだと思うんだけど……」

「ジギ?」

「何でも無い」

 帳の相手をするのとは勝手が違う。なんで同年代相手に言葉を選ばなきゃならないんだ。

「おっ! なにこれ凄い」

 加地さんの隣でスマートフォンを見ていた足軽さんが突然声を上げる。全然勉強してないじゃないか。

「え、なになに」

 女子が全員わらわらと、足軽さんの持っていたスマートフォンに群がる。こいつら勉強する気ないよな。知ってた。

「『新刊の盗作疑惑、進展は? ドラマ原作者VS毒舌コラムニスト』? なにこれ?」

 加地さんがニュース記事の見出しを読み上げる。声色からして、ニュースにピンときてないらしい。

 僕もピンとこない。疑惑の渦中にいる人間の一人はドラマ原作者とのことなので作家に違いないのだろうけど、それと対立構造を取る毒舌コラムニストとは何者だ? コラムニストの新刊と作家の新刊、どうやったら盗作疑惑で繋がるんだ?

「このドラマ原作者って誰?」

「ほらあ、今月から始まるドラマあるじゃん? あの原作書いてる人。名前は忘れた」

「あの刑事ドラマ? 原作あったんだ」

 足軽さんの方が加地さんよりも、そのドラマとやらには詳しいようだ。足軽さんは画面の操作を続ける。群がる女子たちの頭が邪魔で画面は見えないが、たぶんより詳細な情報を検索しているんだろう。

「その原作者って、須郷大覚だろ?」

 大変驚くべきことに、声を上げたのは長谷川だ。

「この前ワイドショーでやってたぞ。俺も詳しくは知らないがな」

「須郷大覚か。そうか、じゃああの人か」

 名前が出てきたお陰で思い出した。

「猫目石、知ってんの?」

「加地さんの疑問にどこまで答えられるかは分からないけどね。須郷大覚は海外ミステリの翻訳を多く手掛ける人で、自分でも作品を書いている。今月から始まるドラマの原作は、須郷の人気シリーズだな」

 つい最近本屋に行ったら、平積みされていたのを見つけたのだ。

「ミステリのジャンルとしては主に、社会派を得意とする作家で……」

「社会派?」

 頭にハテナマークを浮かべたのは中藤先生だ。あっちこっちから疑問が飛んできて忙しい。

「……まあ、ドラマでよく見る刑事物を連想してくれれば、それでだいたい合ってますよ」

 正確には全然違う。ただ、中藤先生や加地さんたちに松本清張が云々なんて言っても始まらない。それに僕は社会派に詳しくないから、説明が面倒だ。

「じゃあ猫目石くん、盗作疑惑の新刊は?」

「ドラマ原作のシリーズではないです。たしか短編集だったような……。もしかして毒舌コラムニストってすぎたのことか」

「この人?」

 足軽さんがスマートフォンの画面をこっちに向けた。『渦中の人気毒舌コラムニスト・すぎた』と注釈のついた写真がそこには映し出されている。ダークグレーのスーツを着こなしているが、おかっぱ頭とサングラスがどこかちぐはぐな男性である。

「すぎたって人、作家だったんだ。テレビによく出てるから、てっきりタレントだと思ってた」

「書いているのがトリック重視の本格ミステリ、しかも一作品が鈍器になるくらいの厚さを誇る人だから刊行ペースが遅いんだよ。だからコラムの仕事を次の新作ができるまでの繋ぎに引き受けてたらしいけど、今じゃそっちが本業だよなあ」

「ふうん。結局この盗作疑惑って何だったの?」

 どう説明すべきか。足軽さんや加地さんにも伝わるような表現を心がけねば。

「問題の新刊が出たのは四月。須郷、すぎたの新刊はともに短編集で、盗作疑惑が持ち上がったのは短編の中のひとつだ。どうもその短編で使われたトリックが、二人とも同じだったらしい」

 トリックの重複をどこから盗作とするのか。これは少し難しい問題になる。ミステリのトリックは既に出尽くしているとはよく言われるし、早業殺人など固定化して名前がついているトリックなんかもある。

「僕は読んでないから詳しいことは言えないけど、トリックに限らず登場人物の設定とか舞台背景とか、重複する部分が多く見つかったらしい。須郷の新刊は会談社、すぎたのは丸川書店が刊行していて、どちらも発売は四月。さあ、どっちが盗作したのでしょうという話になって、どちらが先だったかさっぱり分からない」

 そういえば四月、部室の掃除をしている時にそんな記事を見たな。まだ部室にあるかな? 捨てたんだっけ?

 会談社も丸川書店も大手の出版社で、その新刊をかなり大々的に宣伝していた。刊行ペースの遅いすぎたはもちろん、最近は翻訳作家としての仕事がメインだった須郷にとっても四月刊行の短編集は久々の新刊で、ミステリ界隈ではかなり注目された短編集だった。そんな作品に盗作疑惑なんてあやが付けば会社としてもダメージが大きいので、自然な流れとして出版社は互いに相手方が盗作をしたのだと言い張る。

 当の作家本人たちはどうだったかというと、ここは釈然としない。その盗作疑惑の持ち上がった四月から、両作家は公に姿を現していないからだ。すぎたは雑誌でのコラム連載を続けていたが、この盗作疑惑については何も言及していない。須郷は音沙汰もない。

「見て見て。和解したらしいよ」

 スマートフォンは足軽さんによって操作され、さっきとは違う写真を見せた。すぎたと須郷の二人が握手する様子を撮影したものだ。背景は白くて特徴が無い。注釈によれば、朝山序列探偵小説新人賞にて、と書かれている。

 記事によると、二人の短編におけるトリックなどの類似は『偶然の一致』であり、盗作などは無かったと解釈することにしたらしい。写真は記者から「本当に和解したんですか?」と冗談半分に質問され、須郷が「握手でもしようか。いい写真が撮れるかい?」と切り返す場面を撮影したものだとか。

 この盗作疑惑の終着地点としては妥当なのかもしれない。真実はともあれ、お互いにダメージのない形で決着したなら万々歳だろう。

「朝山序列探偵小説新人賞って、あの道明寺桜が受賞したやつだよね?」

 一歩近づいて、中藤先生が僕に聞いてくる。一歩下がる。

「でしたっけ? 賞の名前は忘れてましたよ。すぎたと須郷が審査員していたっていうのも、今知りました」

「うん。あと新藤帝都って人が審査員長だった。その人だけがやたら、道明寺の受賞に反対してたんだよねえ」

「詳しいですね」

「好きだからね、『白猫』シリーズ。そういえば最近、新刊出たよね。それと九月ごろに『白紙のラブレター』ってタイトルのシリーズ新刊を出すって告知があった」

「すぎたと違って速筆ですねえ、あの人」

 思い出した。平積みにされた須郷作品を見たのは、ちょうど中藤先生が言う道明寺の最新刊を買いに本屋へ行ったときだったのだ。

「…………って、そんなことどうでもいいんだよ! さあ、勉強の続きしよっ!」

 精神年齢が幼いとはいえ、中藤先生は教師なので、至極まっとうなことを言って雑談に終止符を打つ。

 スマートフォンを見ていた女子四人も、自分が座っていた席に戻る。生物の問題集を迷いなく開いたところから、自分がするべき教科は忘れていないと思える。

「猫目石、この優性遺伝のところなんだけど」

「うーん、ここか。慣れれば難しいところじゃないな」

 僕も本来の仕事に戻る。生徒は生徒として、教師は教師としての本分をまっとうする時間が続く。

 聞こえるのはセミの独唱、エアコンの呼吸音、シャーペンの足音。あとは質問と、それに答える声だけだった。

 ショウジョウバエを例とした優性遺伝の問題を一通り教え終わった頃、中藤先生が不意打ちで声を上げる。

「あ、そういえば、車の中に手帳、置きっぱなしなんだった」

「手帳?」

 長谷川が反射的に言葉を反芻する。

「うん手帳。いろいろメモするやつ。昨日の昼から車内に放り出してたんだけど、回収するの忘れてた。ちょっと取ってくるね」

 先生が教室を出ていく。それが合図、というわけでもないのだろうけど、一時間ほど勉強していた僕たちは、そこで小休止を取ることにした。

 その前に。

「加地さん、そこ、漢字間違えてる」

「え?」

 彼女が問題を解くのに使っていたノートを指す。記述問題の正答例を赤ボールペンで書いていたが、漢字を書き間違えている。

「遺伝の『遺』が遣唐使の『遣』に」

「ほんとだ」

 加地さんが自分のペンケースを探る。修正液でも取り出すのかと思ったら、彼女が取り出したのは、正答例を書いた当該ボールペンである。キャップ式だ。

隣にいた足軽さんも自分のペンケースをごそごそ探る。

「修正液無いなら貸そっか?」

「ううん。大丈夫」

 足軽さんの提案を加賀さんはやんわり断って、キャップの先端でそのまま、誤字をした箇所を擦り始めた。

「な、何してんの?」

「足軽って、これ知らない? 消せるボールペン」

 僕も気になって、足軽さんと一緒に加地さんのノートを覗き込む。

 加地さんがキャップの先端を擦りつけた部分は、瞬く間に消えた。後には何も残らない。

「わっ、何これ」

「文字通り、消せるボールペン。最近人気なんだよ?」

 文字を消した個所に加地さんが正しい字を書いている間、足軽さんはボールペンのキャップを手に取りじっと観察していた。デリカシーが無いと彼女たちは批判する言い方だろうが、その様子は未知の物を手に取る猿のようだ。

 キャップの先端を、足軽さんの人差し指が突っつく。どうやら先端はゴム製で、これが消しゴムということか。しかしどうして消えるんだ? 消しカスすら残らなかったところから、表面を削っているというわけではなさそうだ。気にはなったが、そこまで根を詰めて追及する問題でもない。

 しばらく弄って興味を無くしたのか、足軽さんはキャップを加地さんに返す。

「あー、疲れる。あんたって、よくこんな面倒なことできるよね」

 キャップを受け取った加地さんはイスに座ったまま、大きく伸びをする。

 僕は女子四人に勉強を教えている間、ずっと立っていたので、手近な椅子を引き寄せて座ることにした。

「面倒なこと?」

「さっきの問題」

 つい先ほどまでやっていた遺伝の問題を、彼女は言っているらしい。

「これに限らずさあ、猫目石っていろんなことこねくり回して考えてるよね。ほら、四月の、長谷川が起こした事件とか」

 張本人の長谷川は身じろぎ、勉強しているふりで誤魔化そうとしていた。僅かにでも自覚はあるらしい。

「あれか? あれは長谷川がお粗末だっただけで、僕は何も……」

「あの事件現場見ただけで発火装置がとか、さらにその発火装置はこの種類が考えられるとか、普通なら思いつかないでしょ?」

「そ、そうか?」

「そうだよ。いったいあんた、どういう頭してんの?」

 勉強を教えてあげたにしてはあんまりな言い方の気がする。

「現場を見て情報を集めれば、可能性はおのずとひとつに収斂される。その結果を僕は提示したに過ぎない。あの時は長谷川が犯人って分かり切ってたから、検討しなければならない可能性も少なかった。決して僕は、こねくりまわして考えたりはしていない」

 一応、弁明は試みるが、それに露ほどの効果もないのを僕は知っている。だからこれ以上は、何も言わないことにした。

 探偵にとって事件の謎を追う作業は、創造ではない。ジグソーパズルを組み上げるような工程とも異なる。

 真実をつまびらかにする探偵行為は例えるなら、山になったカードから犯人が取り上げた一枚を推理するようなものだ。

 犯人が選んだ一枚は、いったいどれか? 当てるのは簡単だ。山札を上から一枚ずつあらためればそれで終わる。トランプなら五十三枚、大アルカナなら二十二枚。きっちり決まっていて、それ以外が入る余地などありはしない。つまり上限が、限界があって、犯人が人間である以上はその限界から逃れるすべはない。

 事件が起きたのが現実世界なら、トリックも現実的なものだ。トランプの山に『愚者』のカードは入り込まない。

 舞台装置として十角形の館は登場しない。怪しげな伝承の残る村は無いし、空を飛ぶための一人用ヘリコプターも、赤ん坊を原材料にした毒もない。およそトリックのためだけの、事件を起こし探偵が活躍するためだけの設定など、現実には存在しない。

 たぶん合理的じゃないからだ。そして探偵は、その合理性に沿ってのみ事件を推理する。

 僕の知る唯一の探偵、夜島錦もそうだった。

 だからこそ、あいつは失踪した。

 夜島錦のことを思い出すと、あまり気分は良くない。ぶっちゃけ後ろめたいというか、ある種の罪悪感が僕の胸中に残っているのかもしれない。なにせ僕と帳が今現在の関係を築いているのは――。

 ガラリと、教室の扉が開かれる。開かれたのは今まで何度も開閉されて過労死寸前の、教室前方の扉ではなく、今まで一度も働かなかった後方の扉だった。

「用事があって来てみれば、けっこういたのね。中藤先生と途中ですれ違ったから、誰かしらいるとは思っていたけど」

 声がした。噂をすれば何とやらというやつか。

「お前が休日に顔出すなんて珍しいな、帳」

「調理実習室にエプロンを忘れて。回収ついでに教室にも寄ってみたってところ」

 扉の向こうから姿を現したのは、まぎれもなく夜島帳だった。七月なので当然、着ているのはブレザーではなく夏服の半袖ブラウス。僕でも簡単に折れそうな細くて白い腕が目に飛び込んでくる。少しだけ視線をずらして回避する。

「調理実習室? そういえば帳って、グルメサイエンス部だっけ?」

 グルメサイエンス部とは、要するに料理研究部で、帳が部長を務めていたはず。インターアクト部といい、活動内容の平凡さに対して名前が長大だ。

「瓦礫くんは何をしてたのかしら?」

「ご案内の通り、勉強だよ。テスト前の学生で勉強をしないのはお前くらいのものだ」

 帳は僕をじっと見る。それから教室を軽く見渡して、目を細めた。

「わたしだって勉強はするのよ。あなたと違ってどこでしても同じだから、家でするだけ」

「家じゃ集中できない人間がこうして集まってるんだよ」

「あなたの集中力に大きな差があるとは思えないわ」

「なんでさっきから僕限定みたいな言い回しなんだ?」

 帳は教室内に入って、僕の机の前に立つ。机には勉強しようとして、結局加地さんに生物を教えていたのでできなかった数学と、片づけ忘れていた日本史の問題集を広げたままだった。

「ところで瓦礫くん」

「なんだ?」

 帳は教室内に入って、僕の机の前に立つ。机には勉強しようとして、結局加地さんに生物を教えていたのでできなかった数学と、片づけ忘れていた日本史の問題集を広げたままだった。

「日本史と数学は勉強しているようね。他の教科はやったの?」

「いや、今日はまだだな」

「この前も酷い点数だったんだから、ちゃんと勉強しないと駄目よ?」

「悪い点数? いや、全部八十点以上あっただろ。文系教科は九十点以上だったし」

 僕の疑問に対し、帳は目を丸くする。

「中間テスト、どの教科も点数が二桁だったじゃない」

「学校中の総員が二桁だよ! 点数が三桁あること前提で動いてるのお前だけだからな!」

 帳が荷物を持ったまま、こちらへ歩み寄ってくる。僕の近くにいた加地さんと足軽さんが少しずつ離れていく。彼女らは僕と帳の関係を慮って行動するタイプには見えないだけ、余計にその行動が不審に映る。

 なんか変だな。帳の様子といい、彼女たちの態度といい。

「瓦礫くんの点数が悪いと、教えたわたしが恥をかくの。次は頑張って頂戴」

「はいはい」

 足を踏まれた。思いっきり踵で。

「いてっ!」

「今日は不義理と不真面目が過ぎるようね」

「な、なにが?」

 帳の目は相変わらず細められていた。そこに普段、僕に対し暴力や暴言を振るうときに見せる加虐の光はなく、ただただ暗かった。

 星ひとつない曇天の夜。その双眸は僕もあまり見たことの無い空模様だった。

「別に大したことではないわ」

「足を踏んでいる時点で大問題だよ」

「あなたの足なんて一本くらい使い物にならなくても大丈夫よ。わたしが助けてあげるから」

「僕の体を思ってくれているのかいないのかどっちなんだ!」

 徐々にではあるが、やり取りを繰り返す内、帳の目は星空を取り戻していた。いつも通りの、加虐に満ちた光。よく分からないが、どうやらイレギュラーは僕と帳の間をすり抜けていったらしい。

 そのことにほっとしたのも束の間。

 突然、悲鳴が上がった。

 声の主は、中藤先生だ。

「何だ?」

 教室の外から聞こえたが、正確な場所は掴めない。

「今の声、中藤先生よね?」

 帳は窓側に移動する。つられたように、加地さんたちも窓へと近づいた。

「見て! あんなところにいる」

 僕も窓に近づいて、足軽さんが指さした方向を確認する。中藤先生は自身のものと思われるクリーム色の軽自動車の傍にいて、棒立ちしている。

「悲鳴からして誰かに襲われたのかと思ったけど、違うみたいだな」

「悲鳴というより、驚いていたような声だったわ」

 しばらく中藤先生を見ていた帳は何かに気付いたのか、音も無く窓を離れて、扉へと向かう。そのまま扉も通過して、教室から姿を消してしまう。

「……おい!」

 あまりに自然な動作だったので呆然としていたが、すぐに帳を追う。

 帳がイレギュラーを起こすと、何かがあったんじゃないかと心配になる。今でこそ彼女はああだが、昔の、メンタルが不安定だった頃を知っている僕としては、放っておくわけにもいかない。

 駆け足で廊下を進み、昇降口に辿り着いたところでようやく帳の姿を見つける。彼女は手早く靴に履きかえると、昇降口を飛び出そうとする。

 心配になった僕は彼女の白い背中に声を掛けた。

「どこ行くつもりだ?」

 帳は振り返る。さっきまでの加虐的な光とは違う輝きが、その眼には宿っていた。

 雲ひとつない、星を散りばめた夜空のような眼。僕は刹那理解した。

「おもしろいところ」

 赤い濡れた唇がそれだけ呟くと、帳は歩き去った。昇降口を出てすぐ左へ曲がる。そちらは校門がある方向ではない。確定だ。

「僕は勉強をしにきただけだよな? なんでこうなるんだ?」

 自分で自分に問いかけた。答えなんて分かり切っている。僕が猫目石瓦礫であり、彼女が夜島帳であるから。それ以外に答えは無い。

 靴に履き替えて、後に続く。昇降口を出た瞬間、槍のように鋭い太陽光が僕を照らした。肌が痛い。肉を焼く音が聞こえてきそうだった。

 幻聴を払って、中藤先生のところへ向かう。帳は既に先生の傍にいた。

「先生、何があったんですか?」

 先生の車は助手席側のドアが開かれている。おそらく助手席に置き忘れていた手帳があって、それを取ろうとしていたのだろう。

 話題に上る手帳はというと、どうやら中藤先生が両手で持っているものがそれらしい。表紙には淡い水彩画を思わせるタッチで、花畑とクマが描かれている。

 いかにも先生の趣味らしい手帳。無事回収できているようだ。それなのに先生はどうして、あんな叫び声をあげたか。

 先生の口からは、微かに言葉が漏れた。

「……文字が消えた」

「はい?」

 文字が消えた?

 言葉の意味を理解しかねて、僕と帳は顔を合わせた。

 自分の発した言葉が聞こえていないと思ったのか、中藤先生はより大きな声で、事態を僕たちに伝えた。

「文字が消えたのよ! 手帳に書いてあった文字が、全部!」

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