運命の輪

 一悶着あった。

 むしろ一悶着あることに驚く。あの流れは監禁される僕を含めて、全員が須郷さんの案に賛成するだろうと思っていたからだ。

 反対したのは帳である。

 またお前なのかよ。

 ここに来てからというもの、帳には驚かされっぱなしの気がする。

「万が一、瓦礫くんが犯人ではなかった場合はどうするのかしら?」

 万が一を殊更強調して、挑発するように話す帳。

「謝って済む問題じゃないでしょう?」

「こっちは命が掛かってるんだぞ?」

 須郷さんは帳に喰ってかかる。言い合いになっても無意味だと踏んだのか、新藤さんが須郷さんの肩を掴んで後ろに下げる。

「どうすれば小僧を監禁することに納得してもらえる?」

「まず、監禁場所は『魔術師』の客間にすること。夜中、瓦礫くんに何かあったときにわたしが気付けるから」

 『戦車』の客間はもともと僕の部屋である以上、監禁を見越して脱出用の何が仕掛けかれているかもしれない。だから『戦車』の客間に僕を監禁しようとは誰も思っていなかった。そうなるとどこがいいかなと考えてはいたが……。

 『魔術師』の客間は帳の部屋の隣だ。

「そして第二の殺人が起こった場合は即刻瓦礫くんを解放して、彼を容疑者リストから外すこと」

「何らかのトリックを弄したかもしれないのに?」

 反論する須郷さんを、帳は冷たく見下した。ロッタさんが先ほどした威圧的なそれとは違い、相手の人間としての質を疑うような目線だった。

「これだけのことをしておいて別の事件が起きて、でも瓦礫くんがトリックをなんて考えたら、彼を監禁する意味が無いでしょう。どうしたって容疑者のままなら、瓦礫くんの方に監禁されるメリットが無いわ」

「いいだろう。それでいこう」

 新藤さんはすんなりと快諾した。容疑者リストから外すなんて、実際は心象の問題だから難しいだろうな。そこのところ、新藤さんは察したのかもしれない。

 そういう一悶着の結果があって、僕は現在、『魔術師』の客間にいた。須郷さんは監禁という言葉を使ったが、両手足を縛られるようなこともないので正確には軟禁である。

 すぎたさんは客間に軟禁することを渋っていた。タロット館には離れがあるのだから、そちらに軟禁すればいい。殺人犯とひとつ屋根の下にいるという状況に危機感を覚えたようだ。

「客間は閉じ込めるのに向いています。扉は外からも中からも鍵が無ければ開けることはできませんし、客間には窓が無いですから」

 ロッタさんの説得で、すぎたさんは不安をある程度まで払拭したらしい。『魔術師』の鍵は新藤さんが管理することになり、これで僕は扉の錠を自分では開けなくなった。

 部屋に入った僕はソファにとりあえず腰かけて、室内を観察する。『戦車』、そして『正義』の客間と同様に、調度品の意匠に若干の差はない。

唯一の相違点はサイドテーブルに置いてある水差しだろう。起立した男性の彫像の後ろに、水差しは背景のように置かれている。

 念のため、他にも異なる点が無いか調べてみることにした。それと、犯人が僕を遠隔操作で殺すためのトラップを仕掛けて無いかも、確認しておいた方が良いかもしれない。

 あちこち見て回り、ベッドの下を覗いたとき、ある物を見つける。コンセント……ではないな。あれだ。インターネットのLANケーブルの差込口だ。ネットは繋がるというロッタさんの証言が裏付けられた。こんなもの、ネット環境が無いのにこしらえるはずがない。

 立ち上がり、ベッドに座る。

「……さてどうするかな」

 想像以上に暇だった。今日はもう寝てしまえばいいが、明日以降はどうなるんだろう。先生方はありもしない僕の犯人たる物証とやらを探すこととなり、事態は泥沼化している。僕が犯人でないことを確信できるのは僕だけだ。犯人を見つけ出さないまでも、僕が犯人でないことだけは証明する必要が出てきた。

 というかどうしよう。予定通り帰れないのは確定だよなあ。夏休みはまだ前半で、一か月くらい閉じ込められたとしても出席日数の心配はない。しかし僕は受験生なので、一か月間勉強をしないというのは大きな痛手だ。せめて家から勉強道具を持ってくるべきだった。

「入るぞ」

 ノックの音と同時に、声がした。この声は新藤さんだな。断る理由もないのでどうぞと返す。

 入ってきた新藤さんはソファにどっかりと腰を下ろす。無論、部屋の扉はきちんと閉めたのだが、何故か施錠はしなかった。

「新藤さん、扉の鍵、閉め忘れてますよ?」

「……ああ」

 それだけ言って立ち上がると、懐から取り出した鍵で今度はちゃんと施錠する。

「どうやら小僧は、逃げる気が無いらしいな」

「はあ」

「施錠されていないのに気付いた小僧が逃走しようとしたところを捕まえる魂胆だったんだが……。俺の企みを見抜いたか?」

「いえ」

 すげえこと仕込まれてた。

「お前が犯人なら、膠着状態を嫌って脱走しようとすると踏んでな。そこを捕まえればもう言い訳も立たんし、ロッタ君も納得すると思ったんだ」

「その作戦、僕が犯人じゃないと成功しませんよね?」

「お前が犯人だと思ったたから仕掛けた。だが、その様子だと小僧は犯人ではないのかもしれん」

 新藤さんは再びソファに座った。殺人という非日常的な事態に疲労は隠せないのか、食堂で見たときほどの覇気や威厳は彼の体から感じられなかった。

「小僧、平然としているな」

「そう見えますか? のっぴきならない状態に、さすがに辟易としてますよ」

「嘘を言え。どうやったら自分の嫌疑を晴らせるか考えていただろう」

「まあ、それは」

 僕が頭で何かを捻り出さないと、現状は突破できないだろうから。

「常人なら犯人扱いされて、そんな冷静な態度は見せないものだ。俺はかつて冤罪で捕まった男の取材をしたが、担当弁護士によればそいつは一か月くらい容疑を否定し続けるだけで、まともに会話もできなかったと言っていた。濡れ衣を着せられるというのは、それだけストレスのかかる事態のはずだ」

「冤罪ですか。じゃあその人、無罪になったんですね。そうでないと冤罪だと分かりませんから」

「興味はそこか? 今、俺は遠まわしに『お前の頭はおかしい』と言ったのだぞ」

 呆れられたらしい。新藤さんはため息をついて、僕の疑問に答える。

「その事件は宇津木君が解決した。俺が彼と知り合ったのもそのときだ。猟奇殺人事件の犯人に取材していたつもりが、まさか誤認逮捕の取材になるとはな。ふん、だがその後捕まった真犯人も取材をしたから、一挙両得にはなった」

「新藤さんも新藤さんでずぶといですよね」

 自分の体験は何であれ作品に反映する。その貪欲さが小説家のキモなのかもしれない。見習いたいものだ。

「それで、どうしてお前は冷静なのだ? 犯人扱いされて、何故反論のひとつもしない?」

「反論するだけ無駄だったからです」

 新藤さんは勘違いしているかもしれないが、僕は別に犯人扱いされることを厭わないわけではない。四月のボヤ事件のような、失笑物の嫌疑ならまだしも、今回のそれはあからさまだ。冷静に考えれば疑惑が頭ひとつ飛びぬけているにすぎない僕に対して、総員が犯人だと思い込んでいる。この状況に憤りをまったく感じないほど、僕は仏ではない。

反論しないのは、それなりの理由がある。

「では新藤さんは、あのとき僕が何かしらの反論をしたとして、それをどう解釈しますか?」

「犯人の言い訳だと思うだろうな。小僧の態度を見ている今だからこそ、俺はお前が犯人ではない可能性を感じているが、あのときは小僧が犯人だと考えていた」

「でしょうね。つまり、反論はするだけ無駄なんですよ。心証を悪くする以上の効果がないですから。それに、僕が犯人という形で終息すれば警察に通報できます。警察がちゃんと調査をすれば僕が犯人ではないことくらいすぐ分かりますよ」

「警察がお前を犯人と、誤って判断する可能性もあるんだぞ?」

「真犯人を挙げてくれる可能性の方が高いですよ。警察が無能なのはフィクションだけの話です。それは新藤さんこそご存じでは?」

「今さっき、冤罪で捕まった男の話をしたのだぞ?」

「冤罪なんてそう起こりませんよ」

 実際、そう聞く話じゃない。いや、冤罪はそうだと判明しない限り冤罪として数えられないから、案件数が少ないからといって実数も少ないとは言いにくいが、そこは何をどう言ってもトートロジー、言葉遊びの範疇を出ない。

 それならばいっそ、主観的な実感に身を委ね、警察は優秀だと考えた方が精神衛生上よろしい。

 どのみち、犯人役を買って出て警察に通報されるという僕の試みはとっくに破綻している。

「ところで小僧」

 新藤さんは一息ついて、話題を転換する。

「お前は探偵なのだろう? お前の推理にどれほどの信憑性があるかは甚だ怪しいが、少し語って聞かせてみろ」

「ぼ、僕の推理を、ですか?」

 思わずどもるくらいには突然の申し出だったので、戸惑う。

「社会派の旗手にして、そのひと睨みでミステリ業界の流れすら変えられると噂の新藤さんが、僕如きの推理を聞いてどうするんです?」

「ミステリ業界云々の話は誇張だろう」

 社会派の旗手だという自覚はあるらしい。

「今のところ、手詰まりなのでな。昨日、偉そうにお前や宇津木君にどうのこうの言った後で非常にきまりが悪いが、しかし俺は自分や他の者の命が脅かされている状況で、自身の考えを押し通すほど屈強な人間ではないのだ。なにより警察を呼べないというのが大問題だ」

 昨日、新藤さんが夕食の席で言ったことは正論だ。僕はもちろん、宇津木さんすら反論することがないくらいに。ただし、新藤さんの言は警察が呼べる状況を前提にしている。この状況では、新藤さんの言説はちっとも意味を持たない。

「……分かりました。僕も正直、軟禁状態で嫌疑を晴らすのは難しいですからね。新藤さんに状況を変えていただければ、結果的に僕も助かりますし」

 そうは言ったものの、実のところ僕は、新藤さんに具体的な話をするつもりなどない。新藤さんが何とかしてくれれば助かるというのは本音だが、他人を頼れるほど無条件に人を信頼できない。

「とはいえ、密室の謎やアリバイなど、細かいトリックなどは現場を見ない限り想像と仮説の域を出ません。なのでクローズド・サークルについてだけ、少し考えたんですよ」

 適当に巨視的な話をして、ここはお茶を濁す。

「クローズド・サークル。いわゆる嵐の孤島だな」

 新藤さんはクローズド・サークルの別称を当然のように知っていた。本格ミステリを否定する割に、含蓄は深い人だ。

「ええ。念のため定義すると、何らかの理由によって外界と完全に切り離された空間、そしてそこを舞台にするミステリの総称ですね」

「外界と遮断される理由はたくさんあるようだな」

「だいたい三つのパターンに分けられます。一番代表的なのは嵐や吹雪などの自然災害により、空間からの脱出が不可能になる偶発的パターン。ふたつ目は車をパンクさせたり吊り橋を落とすなどして、その空間からの脱出を不可能にさせる人為的パターン。そして最後が、空間からの脱出が可能であるにも関わらず、何らかの目的により脱出しないパターン」

「……最後のパターンが分かりづらいな。命の危険を顧みずにその空間に留まる理由はなんだ? それにそのパターンは、正確にはクローズドしていないんだろう?」

 新藤さんは首を捻る。合理的かつ現実的な考え方をするこの人には、ちょっと想像が難しいかもしれない。

「はい。最初に挙げたふたつと違い、最後のパターンは外部への脱出も連絡も可能なんですよ。それをあえて自分たちから放棄することで、つまり全員の目的意識によっておのずからクローズドさせてしまうパターンが存在するんです」

 今回はこのパターンである。だから新藤さんに理解してもらえるよう、少々うるさく説明しておく。

「例えばある屋敷に、当主の最後を見届けるために一族郎党が集まったとしましょう。そこで当主が死の間際、次期当主を決めるための方法を指示する。その方法は『数日間屋敷に留まり、ある課題をクリアすること。そしてその間、外部とは連絡を取らないこと』である。この場合、大抵の人間が次期当主の座を狙って、おのずから屋敷をクローズドします」

「なるほどな。だが、やはりそれでクローズドさせる合理性には欠けると思うが……」

「まあ、例なので気にしないでください。他にも賞金がらみのゲームだとか、いろいろ説得力のある設定を考えるものですから。たぶん道明寺さんの方が、僕より画期的な方法を思いつきますよ」

 確か彼女の代表作、『少女探偵白猫』シリーズにそのような設定がいくつかあったような。

「そうそう。中には交霊術のような超自然的儀式を屋敷で行って、その主催者が期間中、外部との接触を禁じるパターンなんかもありますね。今のタロット館は、その状況に近いです」

「ああ。タロット館がクローズドしている理由は、主催者たるロッタ君の仕業だからな。つまりまとめると、クローズド・サークルとは概して『外界と完全に隔離された空間』であり、おおよそパターンは三つ。①『自然災害により、まったくの偶然で隔離される場合』。②『犯人の思惑により、人為的かつ強制的に隔離される場合』。③『空間内の総員、および強力な立場の人間により一時的に独立する場合』。そして今回は③だな」

「ですね。細かいところまで言及するとキリがないんで、そういう風にしましょう」

 僕はベッドから立ち上がって、水差しを取る。二人分の水を注いでローテーブルの上へ置いた。

「クローズド・サークルの一般的概要はまとまったところで、少しタロット館の状態を整理しましょう。このタロット館は架空島という、愛知県知多半島からクルーザーで三十分ほど太平洋を南下したところにあります。移動手段は船着場にクルーザーが四台。普段使い一台と予備三台ですね。それからヘリが一台。ヘリはどこにあるんですかね?」

「俺が去年来たときは、『牡牛の座』の近くのヘリポートにあった。もしかしたら今は、犯人による破壊を恐れて別の場所へ移動させているかもしれないな」

 ヘリの大きさにもよるが、架空島ならどこかヘリを停められる場所が他にあるかもしれないな。案外この島、広いみたいだし。

「連絡手段は固定電話とインターネット。それぞれロッタさんの部屋と、使用人たちの部屋にあるんでしたね。念のため聞きますけど、新藤さんの部屋にはありましたか?」

「あったらとっくに通報している。LANケーブルの差込口すらない」

「ですよね。ああそれと、固定電話とネットがロッタさんたちの部屋にあることは知ってましたか?」

「それは知っていた。宇津木君は去年から、クローズド・サークルが発生する可能性を危惧していたからな」

「まあ、その警戒も全部無駄になっちゃいましたけどね」

 まさか館の主が外部との接触をシャットアウトしやがるとは。

 …………まてよ? タロット館の設備を確認したけど、これ、三つのパターンの内、クローズド・サークルを犯人が狙うなら現実的なのが③しかないよなあ。①は犯人が狙えることじゃないし、②は四台もあるクルーザーを機能停止させるだけでも一苦労なのに、他人の部屋にある連絡手段まで破壊できるとは思えない。

 では犯人は、クローズド・サークルが発生することを想定していなかったのか? 架空島で殺人事件を起こそうとまでは思っていても、まさかロッタさんが警察への通報を渋るとまでは思わなかった?

 いや、それはない。何故なら、クローズドしないならここで宇津木さんを殺害する理由がないからだ。

 僕が新藤さんに、具体的な推理を話せないでいる理由もここにある。

「もう夜の十一時か」

 新藤さんは左手首に巻いた腕時計で、時間を確認した。僕も腕時計を見ようと右手首へ視線を落としたが、そこに腕時計は無い。海へ行く前に『戦車』の客間で外して、そのままにしてしまった。後で誰かに持って来てもらえるよう頼もう。客間に置時計は無いし、窓は言うに及ばずだから時間の知りようがない。

「俺はもう部屋に戻るとしよう」

「もういいんですか?」

「小僧が犯人にせよ、真犯人が他にいるにせよ、勝負は明日からだ。今日は睡眠をしっかり取って、明日の捜査に備えねばならん」

 新藤さんは立ち上がり、部屋を出ようとした。僕は欠伸を噛み殺して、それから水を一口含んだ。水はぬるかったが、喋りつかれた喉には心地いい。

 客間の扉を開く音は聞こえたが、閉じる音が聞こえなかった。開けっ放しで帰ってしまったのかと思いそちらに目を向けると、新藤さんはまだ扉の前で立っていた。こちらに背中を向けているから、表情は読めない。

「…………ロッタ君か」

 新藤さんの巨体に隠れて見えないが、扉の向こうにロッタさんがいるらしい。弾んだ彼女の声が聞こえる。

「用事は終わりましたか?」

「ああ」

「では今度は、わたしが猫目石さんとお話しさせていただきますね」

「子供は早く寝るものだ」

「わたし、殺人犯が怖くて、今日は寝付けそうにないんです」

「……鍵は渡しておく」

 呆れたように言って、新藤さんが消える。扉の向こうにいたのはロッタさんと、呉さんだった。就寝準備を終えているのか、ロッタさんの方は白いネグリジェを纏っている

「夜分遅くすみません」

 ロッタさんが躊躇なく車椅子を前進させたのとは対照的に、呉さんは部屋に入らないまま腰を折った。

「お嬢様がどうしても、猫目石さんとお話ししたいと」

「いえ、お構いなく。暇してましたから」

 本当は眠いのだが、それを堪える。軟禁状態にありながら情報収集ができるのだから、このチャンスを逃さない手は無い。ロッタさんにはいくつか、確認しなければならないこともある。

「それではわたしは失礼します」

 呉さんが扉を閉める。就寝の挨拶くらいしようかと思って立ち上がったが、素早い彼女の動きに追いつけるはずもなかった。相変わらず、こっちのペースは無視で動いている。

「そうそう猫目石さん。道明寺さんの新刊、お貸ししますよ」

 こっちはこっちでマイペースのロッタさん。彼女の膝には二冊の本が乗っかっていた。一冊はソフトカバーで、見覚えのある女性キャラクターがアニメタッチのイラストで描かれていた。背表紙には『白紙のラブレター』というタイトル。道明寺先生の新刊は、『白猫』シリーズの最新作でもあったらしい。

 もう片方の本はハードカバーで随分古めかしい。あちこちに傷がある。背表紙に書かれたタイトルは『タロット大全 ウェイト版からマルセイユ版・オリジナルタロットの読み方も』。タロットの解説書のようである。たぶん、書斎にあったんだろう。宇津木さんが書斎にタロット関連の資料があると言っていた。

「暇になると思いますから」

「ありがとうございます。受け取っておきます」

 二冊の本を手に取る。ロッタさんはソファの隣に車椅子を止めると、ソファに移動する。こちらが手伝う間もなく、腕の力と体重移動を駆使してソファに納まった。

「思いのほかアクティブなんですね」

「足が悪いといっても、左足だけですから。調子が良ければ杖をついて歩くこともできます」

「あ、そうだったんですか」

 車椅子に頼っているものだから、てっきり完全な不随状態なのだとばかり。ああそうか、不随状態だと今朝の出来事に説明がつかないな。彼女は僕と宇津木さん、森さんがエントランスで会話をしているときに寝ぼけ半分で車椅子を操っていたが、不随状態ならまずベッドから車椅子にひとりで移るのが難しい。呉さんか坂東さんが手伝っていたのなら、主を寝ぼけたまま放置するはずもない。

「それにしても……いいんですか? 仮にも殺人の容疑者である僕と二人きりになって」

 ロッタさんはぐっと上半身を伸ばして、大きく欠伸をした。

「わたしは猫目石さんが犯人だとは思っていません。呉も同意見なのでしょう。そうでなければ猫目石さんとの面会を呉が許すはずもありません」

「……許す? 呉さんは年上とはいえ、立場上は下ですよね?」

「ええ。でも、だからといって何でもかんでも主の言いなり、なんて人たちではないですから」

 彼女は微笑んだ。そこには自分の出自を説明するときに見せた皮肉の色はない。

「呉も森も坂東もわたしの使用人ですが、同時に教育者でもあるのです。使用人として上司の命令には従いますが、教育者として間違いは正します。呉はわたしにとって、使用人である前に姉のような存在なんですよ」

 姉のような、ねえ。単なる例えで『姉』という語句を使用したのではなさそうだ。頬は夢のような薔薇色に染めて、いじらしいのか両手の指を互いに絡ませては解いている。

 それは明らかに、恥ずかしさから起こる行動だ。

 誰だって、身内を自慢するのは恥ずかしい、らしい。少なくとも世間一般ではそういうことになっている。

「だったら、坂東さんや森さんはどうです?」

「坂東は……。そうですね、父親でしょうね。無口ですけど、優しいんですよ。森は、親戚の伯父さん」

「はははっ」

 らしい。しっくりきた。あの人当たりの軽い性格といい、ロッタさんに接する態度といい、たまに会う親戚の伯父さんにひとりはいそうなタイプだ。

 ただ……やはり疑問なのだ。どうして、彼女は本当の家族について話さないのか。使用人たちが『姉のような』『父親のような』『伯父のような』存在であって、『家族の代わり』ではない以上、本当の家族もいるはずなのに。

「そういえばロッタさんの名前は、何か由来があるんですか? 外人の名前にしても、聞き慣れない呼称ですけど」

「祖父がよく、わたしをその名で呼んだんです。『輪』はラテン語で『ROTA』という綴りなんだそうです。帳さんの話だと、正確な発音は違うらしいですけどね。祖父はラテン語が読めませんでしたから」

「輪……?」

 とっさに連想できるのは大アルカナ十番目のカード『運命の輪』だ。ロッタさんの客間を表すカードであり、タロット館の入り口にあったあの大きな門扉にも描かれていた。

 朝山大九は、タロットに詳しかったのだろうか。いや、詳しかったはずだ。その証拠が今、手元にあるタロットの解説書である。まさか資料を集めるだけ集めて読まないなんてことはないはず。読み込んだだろう、相当。

 その結果がタロット館。

「朝山大九は、いったいどういう人だったんですか?」

「変人、ですかね」

 ロッタさんは苦笑を漏らす。

「建築家としての腕は確かだったようですが……たまにタロット館のような、常人には理解しがたい設計をすることで有名だったそうです。それこそ本格ミステリの舞台になるためだけにあつらえられたような館の図面が、祖父の死後、大量に見つかったらしいですよ」

「この館は大九さんの終の住処として建てられたと聞きましたが、それは本当なんですか?」

「どうでしょう。本人がもういないので、確かめようがありませんね。ただ、『終の住処になった』というのは事実です」

「つまり……」

「死にました、この館の書斎で。ナイフで自ら胸を刺して死んでいたそうです」

 ロッタさんの言葉に触発されて、思い出したくないことを僕は思い出そうとしていた。

 自殺。ナイフ。胸を刺す。彼女は何の屈託もなく、ただ事実を述べただけなのだろうけど、その言葉が僕にとっては引き金だったらしい。

 視界の端で、学校の教室がちらつく。

 ろくでもない映像を追い返そうとしている内、一瞬だけ、全景が目に飛び込んで来た。

 夕暮と血に染まった教室。中央で仰向けに倒れる少年。胸にはカッターナイフが突き立てられており、死因は明白。

 僕の隣には、見知った顔がある。

 彼女は――夜島帳。

 ではない。外見はそっくりだが、まったく違う。

 こいつは。

「猫目石さん。どうされました?」

「え? あ、ああ」

 ロッタさんに肩を揺すられて、僕の視界に映っていた景色は消滅した。

「顔色が悪いですよ。体調でも崩されましたか?」

「いや、大丈夫。それよりロッタさん」

 無理矢理話題を変えた。

「ロッタさんの名前の由来がラテン語から来ているのは分かりました。でも、なんで輪っかなんですか? やっぱり『運命の輪』が関係しているとか?」

「たぶん、そうでしょうね。祖父も自分のことを、『運命の輪』だと思っていた節があるようです。しかも、逆位置の」

 それは、このタロット館の意匠から明らかだった。客間の扉にタロットの絵が掲げられているのと同様に門扉に彫られたレリーフは、上下が反対になっていた。

 建築家の終の住処となったタロット館。その意匠は、そのまま彼自身のカードを示す。

「タロット館全体も、逆位置になってましたね」

 客間はそれぞれ大アルカナをモチーフとするが、タロット館全体の意匠を決定するモチーフは『運命の輪』で間違いない。島の中央に座する円形の城壁をビーチからの帰りに見たとき、それは容易に想像がついた。

 すると、だ。架空島に点在する四つの離れはそれぞれ、『運命の輪』の四隅に描かれた物を意識しているのだろう。カードは正位置の場合、門扉のレリーフが正しければ右上から時計回りに鷲、獅子、牡牛、人間と描かれる。一方、架空島は南西に『鷲の座』、北西に『獅子の座』、北東に『牡牛の座』、南東に『人間の座』となる。そして地図というものは大抵北を上にして描かれるから……。

 架空島の全体像を地図にしたとき、逆位置の『運命の輪』が浮かび上がる。島全体が一枚の大アルカナなのだ。

「祖父は、そこまで逆位置の『運命の輪』というモチーフに固執していたのでしょうか」

「うーん」

 僕は『固執』というイメージを抱かなかった。それというのも、タロット館全体の正位置だ逆位置だという話は、離れの名称ひとつでどうとでも変わってしまうことだからだ。

 島中央に位置するタロット館には前後左右、あるいは上下を決定づける明確な何かがない。そのため架空島の全体像を地図にしたとき、正位置か逆位置かを判断するのに用いるのは離れの名称と位置である。今は『鷲の座』が島の南西に位置するから地図にしたとき、架空島全体が逆位置の『運命の輪』になる。だが北東にある離れを『鷲の座』に改名し、それに合わせて他の離れも改名すれば、簡単に正位置になる。

 ロッタさんにその気があるなら、離れの名称を変更することでタロット館を正位置にしてしまうことも十分可能なのだ。僕は『鷲の座』しか離れを見ていないけど、あそこには鷲らしいモチーフがひとつもなかった。改名しても違和感はないだろう。

 裏を返せばそれくらい単純にモチーフが変わってしまうのだ。それは固執と呼ぶにふさわしくない。

「あ、猫目石さんに聞こうと思っていたことがあったのを思い出しました」

 ロッタさんはポンと柏手を打った。僕はただの暇つぶしで彼女が来たのだと思っていたけど、どうやら彼女の方にも質問があったらしい。それを今まで忘れていたというのは、ロッタさんらしいとするべきか。

「食堂の方で推理をして、猫目石さんが犯人ではないかとなったときのことです。新藤先生は例としてご自身と道明寺先生の関係を挙げましたよね」

「ああ、あのときの。新藤さんと道明寺さんのどちらかが死んだ場合もう片方が疑われるのが自然なことだってやつですね」

 新藤さんの言う通りだろう。丁々発止やりあったあの二人なら、互いに互いを殺害する動機を有している。その程度で人を殺すのかという根本的な疑問はさておくとしても。

「その際、須郷先生とすぎた先生も同様に言っていました。あれはどういう意味だったのですか? 新藤先生と道明寺先生が新人賞の一件以来対立しているのは知っていますが、須郷先生たちにも同じようなことが?」

「ひょっとして知らなかったんですか?」

 てっきりロッタさんは事情を知っているものだとばかり。彼女ほどのミステリマニアなら知らないはずもないだろうに。あるいは単に、本人のアンテナに引っかからなかっただけか。マニアだから何でも知っているという考えも、いい加減だな。

「四月頃の話なんですよ。須郷さんとすぎたさんがそれぞれ短編集を出したんですが、なんとこの中の一編に、トリックどころか諸々の設定が酷似するものがあったんです」

 思い返せば四月のとき、部室を掃除していたらそんな記事が出てきた。あのときは見出しを読むだけで捨てていたから、須郷さんとすぎたさんに関わる問題だとは気がつかなかった。

「須郷先生とすぎた先生のどちらかが、盗作を?」

「そう考えるのが普通でしょうね。偶然と言い張るにはいささかキツイと思いますが、結局両者は和解したそうです。故に真実は藪の中、と」

「猫目石さんほどの探偵なら、分かるのでは?」

「いや分かるわけないじゃないですか」

 いくらなんでもご無体な。そもそも僕はまだ、問題の短編を読んでいない。盗作疑惑があったことをニュースで知っただけだ。

「要するに須郷さんとすぎたさんの間にも確執があるんです。だから招待状と一緒に送られてきた参加者一覧表を見たとき、素直にヤバいと思いましたよ」

 でも来てしまった。そして結果がこれだ。これは決して不運などではない。自業自得なのだ。過去数回あった『殺人事件に巻き込まれた』経験は、とどのつまりまったく反映されていなかったんだろう。

「ヤバいと思ったのに来てくれたんですね」

「面目ないですよ」

 恥ずかしくって顔を伏せた。目の前は暗くなり、聞こえてくるのはロッタさんの声だけ。

「いえ、優しいと思います」

「御冗談を」

「本当ですよ。猫目石さんって、聞いていたよりも卑屈な人ですね」

 からからと、ロッタさんは楽しそうな笑い声を出す。殺人事件が起きているというのに、この人からは心配や不安を微塵も感じない。すぎたさんあたりからすれば僕も似たようなものなのだろうが、やはり僕からしてもロッタさんの落ち着きは異様に思える。

「猫目石さんは帳さんが心配だから、来たんですよね? このサロンの参加者たちでは殺人事件が起こるだろうと、想像はついていたのに」

「さあ」

 はぐらかす。僕の考えなど知ったことではないのか、ロッタさんはあっさりと話題を変えた。

「帳さんと言えば、さきほど食堂で、猫目石さんと何かこそこそ会話していましたよね? 『錦の領分』とかなんとか。あれ、何だったんですか?」

「……さすがにロッタさんには、聞かれてましたか」

 僕の隣に座っていたんだから、それはやむを得ないことだった。焦りからうっかり、公衆の面前で小声とはいえ話してしまった僕に落ち度がある。

「まあ、詳しくは話せませんが……」

 適当に事実を喋って、それでこの話題は終わらせることにした。他人に話して気分のいいことではないが、丸々隠そうとすると、ロッタさんにしつこく聞かれそうだった。ある程度は、彼女の欲求を満たしておいた方が安全そうだ。

「要するに、本来ならば帳の傍にいるべき探偵がいたという話です。そいつは九年くらい前に行方不明になってしまったので、今は僕が代わりを」

「猫目石さんと帳さんとの間に、微妙な距離があるのはそれが原因ですか」

「距離?」

 彼女の言う通り、僕は帳に近づきすぎないようにはしている。だが、それを加味してもロッタさんの言い方には含みがあった。まるで、僕と帳の距離はもう少し近くても良いかのような物言いに、違和感を覚える。

 所詮、錦が戻ってきたらそれまでのポジション。僕の立ち位置は不安定で、いつ何時、この立場を退かねばならないか分からない。それなのに、自分がここにいるのは当然かのように振る舞うことは、僕にはできない。

「帳さんはどう思っているのでしょうね? 島から帰ったら、聞いてみてはどうですか?」

 おかしそうに笑ってから、ロッタさんはすぐ次の話題に移る。こちらが戸惑うくらいの話題転換は帳に似ている。育ちの良いお嬢様は、みんなこうなのだろうか。

「それにしても、どうして宇津木先生は殺害されたのでしょうか? 猫目石さんが犯人なら『探偵ぶるのに邪魔だった』で説明はできますが、そうでないとなると……」

「犯人側からすれば名探偵は邪魔でしょう」

 錦の話題を続けるのはこちらも望んでいないので、僕は彼女の示した謎に食いついた。

「名探偵の殺害に成功すれば、この密閉空間での犯罪成功率は飛躍的に上がる。犯人としては、一度のギャンブルで相応のメリットを得られるわけですから、宇津木さんは狙われてもおかしくないですよ」

 そしてそれこそ、僕が新藤さんに具体的な推理を話せなかった理由でもある。一応、僕は帳の紹介によって『探偵』ということになっているが、どれほどのレベルであるかを具体的に把握できる人間は、帳を除けばロッタさんと宇津木さんだけだ。なにせ二人には昨日、僕が過去に巻き込まれた事件のことを話しているから。

つまり有力な容疑者たる作家勢と使用人勢は僕が探偵であることに確証が持てない。その状況で僕を殺害しても、犯人としては証拠を残すリスクばかりが高くて、探偵を潰すというメリットは不鮮明。だから僕が殺される可能性は現時点では低い。

 『探偵』らしいことをせずに、ただの一般人として過ごしていれば。

「ならば、そもそもタロット館で殺人をする理由は無いのでは? 本土で通り魔にでも見せかけて目標を殺害すれば、少なくとも初動捜査の段階で宇津木先生が駆り出されることはないでしょうし」

「そこなんですよね。宇津木さんが名探偵ということは裏を返せば、『普通じゃない』事件に対して優先的に首を突っ込むというわけで……。一見して普通の事件だと思わせて目標を殺害すれば、宇津木さんの捜査参入は……」

 言いかけて、気づいた。

「犯人は当然、計画段階でそれに気付いているはずですよね。ここで宇津木さんを相手取るよりもリスクの小さい方法があるにも関わらず、そちらを取らなかった理由は……」

 三つ考えられる。ひとつは、犯人が使用人勢の三人――呉さん、森さん、坂東さんのいずれかであるパターン。この三人は通り魔的に誰か(この場合は宇津木さんを除く作家勢の誰か)を殺害しようにも、それが難しい。これはまだ推測だが、この三人とロッタさんは、タロット館に常駐している可能性があるからだ。遠出ができない以上、本土での殺害は現実的ではない。

 そして二つ目は、犯人の狙いが使用人勢及びロッタさんである場合。(これもロッタさんたちが常駐しているという仮説に基づくが)特にロッタさんが犯人の狙いである可能性は大きい。使用人勢は買い出しなどで島を出ることも多いだろうが、左足にハンデを抱える彼女が島を出る頻度は決して高くないはず。いつ出てくるか分からないのに外部での殺害計画を練るよりは、タロット館で殺害する方が賢明だ。

 先の二つのパターンはまだ、ロッタさんには言わないでおこう。

「犯人が、宇津木さんはどうしたって動くと考えたからでしょう。宇津木さんは前々から、他の先生方と親しかったようですし、そうでなくとも去年のサロンで親しくなっている。知り合いが殺されたとあっては、宇津木さんは動く。その可能性が高い。ならばいっそのこと宇津木さんをこのタロット館で迎え撃った方が、ギャンブルではありますが、犯人としてはメリットが大きい」

「なるほど。でもそれは、犯人が作家先生を目標としている場合ですよね」

 思えば、まだ犯人は目標人物の殺害をしておらず、宇津木殺しはいわば下準備である。この次にもし誰かが殺されるとして、作家勢かそうでないかで、犯人の目的がはっきりする。

「もし帳さんが犯人の狙いだったら……」

「まあ、だから僕も、さっさと容疑を晴らしたいんですけどね」

 あいつも僕と一緒に、それなりの修羅場を乗り越えているとはいえ、危険であることに変わりはない。特に稀代の名探偵である宇津木さんが殺害され、思わぬ形で島がクローズドした後だ。今までの経験に信頼が置けない。

「あの、そもそも論なんですけど、今回の事件は計画犯で確定なんですか?」

 いつからか視界の外へ追いやっていたロッタさんに目を向ける。

「わたしも計画犯だとは思いますが、確証が持てないので……」

「計画犯で間違いないですよ。考えてみてください。宇津木さんの死亡推定時刻は午後一時半から四時の間。その間、僕以外の容疑者は何をしていましたか?」

「遊戯室でゲーム、ですね」

「途中で何度か出入りがありましたよね。『ちょっと宇津木さんに呼ばれているから』という理由で中座した人はいましたか?」

「そういう人はいませんでした。『トイレに行く』とか、『荷物を取りに行く』という人はいましたが。あ、そうですよね。もし計画犯ではないとなると衝動的な殺害ですから、中座する段階では本人も殺害するだなんて思っていなかったはずです。普通に予定を言ってしまうかも。でも、例えば宇津木さんとの約束が秘密のもので、予定を偽っていたということは考えられませんか? 密会や逢引きだった場合は……」

「こんなところで逢引きしますか?」

「猫目石さんと帳さんはしていましたよね。『鷲の座』で」

 本当に、眠っている帳の傍にいただけなんだけどなあ。それが館内の共通認識らしい。

「……まあ、するんでしょうね。しかしこの場合も同じことです。ロッタさん、遊戯室でゲームを始める前に、あらかじめ『何時に予定があるから中座する』と告げた人はいますか?」

「呉は『しばらくしたら夕食の準備で抜ける』とは言っていましたが、他の先生たちは何も」

「呉さんの言葉は本当でしょう。厨房には坂東さんがいますから、もしそれが嘘なら、呉さんが厨房に来なかったことを坂東さんが証言してしまう。そして他の人たちがあらかじめ何も言わなかったということは……」

「誰も宇津木さんとの面会を偽ってすらいなかった?」

「というより、予定があることそのものを隠していたんでしょう。遊戯室で行われたゲームの合間を縫って約束通りの時間に宇津木さんの部屋へ行き、殺害。そして何食わぬ顔で密室トリックを講じて戻る。この行動は、明らかに計画的です。もし逢引きがあるとして、逢引き自体は隠したい行為であっても、予定があること自体は隠す必要は無いですから」

 この一連の行動は難解そうに思えて、実は非常に単純だ。犯人は一回の中座で全てを終わらせる必要もなく、何回かの中座を繰り返して最終的に犯行を仕上げればいい。

「結局犯人は誰なんでしょう?」

「ゲームをしようと提案した人が犯人なら、楽なんですけどね」

「提案したのはわたしですから、犯人はただそれを利用しただけでしょう」

 それにまだ、密室の謎が残っている。

 ロッタさんはひとつ、大きく欠伸をする。やっぱり眠いらしい。だったら寝ればいいのだが、彼女は一分一秒を惜しむかのように次の話題を振った。

 粘着的というか執着的というか……。その態度が、僕の仮定をますます強固にしていく。

「では犯人の話はこれくらいにしておくとして、密室トリックの方はどう思いますか?」

「はあ……。そうですね」

 そちらは残念ながら、あまり考えをまとめていない。ロッタさんに話せそうなことは少なかった。

「部屋の施錠は外からなされていて、鍵を持っていた犯人が部屋に飛び込んだどさくさで鍵を置く。……要するに道明寺さんが提唱したトリックですけど、僕の視点からすれば当然それはありえないんですよ。信じてもらえるかは別として」

「信じますよ。猫目石さんが犯人ではないと信じているのに、その証言だけを疑う理由はありませんから。猫目石さんは見たんですよね、宇津木先生のジャケットのポケットから、鍵が滑り落ちるのを」

「ええ」

 道明寺さんが言ったようなトリックは、不可能と言っていい。宇津木さんの死体を最初に触ったのは僕なのだから、鍵を僕より先にジャケットのポケットへしのばせることはできない。

「すると、犯人は何らかの手段で鍵を用いずに施錠したか、さもなくば施錠したように見せかけて、実は鍵がかかっていなかったか」

 後者は、考えにくいように思える。なにせ僕と呉さんの二人が扉を開こうとしたのだ。もし呉さんが犯人で演技をしたというのなら、僕が確かめたときに気づく。

ひとりくらいならあるいは、騙せるのかもしれないが……。しかしこの場合、僕一人を騙すメリットがないような気もする。「『正義』の客間に鍵が掛かっている。中で宇津木さんが倒れているらしい」。そんなことを言って食堂の全員を集めたら、扉を開かないふりをして、それから予備の鍵で開錠するふりをして扉を開く。この方が、策としては上等だ。

 『正義』の客間には鍵が掛かっている。その事実は全員に見せつけた方が、犯人にとっては密室状態だったと思い込ませるには都合がいい。もし呉さんが犯人だとするなら、彼女の行動は少々合理性を欠いている。

 アリバイが無いとはいえ、呉さんは犯人ではないと考えて良い、か? まあ、島に現在、僕を除いて九人いて、その中でシロが帳とロッタさんだけという状況は精神衛生上いただけないので、呉さんくらいはおおよその感覚でシロ扱いしても良いような気がする。

 タロット館や架空島に詳しい使用人が、ひとりとはいえ信頼できる。その事実だけで気が楽になる。ロッタさんは性格にムラがあって考えを読みにくいから、思考が一般人寄りの呉さんに協力を仰げるのはプラスになる。

「ところで」

 ロッタさんが手を打つ。小さい音だが、僕の注意が彼女に向くには十分だった。

「いつになったら敬称をつけるの、やめてくれます?」

 まだ諦めていないらしい。

「ロッタさんが僕の呼び方を変えてくれたら検討しますよ」

 年下とはいえ、教養ある女性に『猫目石さん』と呼ばれるほど僕は大人物ではない。ロッタさんに対して言った台詞は冗談のつもりだったが、彼女に『猫目石さん』と呼ばれることに気恥ずかしさがあったのは確かだ。

「そうですか。ではなんとお呼びしましょうか…………」

 ロッタさんは真剣に考えてくれるらしく、両目をぎゅっと閉じて腕組みをし、うんうん唸った。タロット館の主という大人の面に反するがごとき、この幼さに、思わず笑う。

「あ」

 しばらくして、彼女は両の眼を開いた。

 宝石のような双眸が、目蓋を強く閉じていたせいで溜まった涙で輝いていた。

「猫目石先輩」

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