チェックメイト

 海からの日の出は見たことがある。しかも初日の出だ。……いや、しかもともったいぶるのはどこかおかしい。僕は風流人じゃないから、日の出を見ると言ったらすなわち初日の出以外にない。

 だが、まさか今日ここで、水平線へと沈んでいく太陽を拝むことになるとは思ってもみなかった。

 『鷲の座』の一階広間。僕はそこでじっと、太陽と見つめ合う。左隣では帳が猫のように丸まって、穏やかな寝息を立てている。今はもう水着から浴衣へと着替えているから、風邪をひく心配も無さそうで放っておいている。

 ビーチバレーはとっくに終わり、道明寺さんたちは既にタロット館へと帰った。帳は疲れたのか、みんなより早く『鷲の座』へ引き上げていたのだが、僕たちが着替えるためにここへ来ると寝ていた。

 みんなが海から上がってタロット館に帰ったのは昼頃。腕時計を部屋に置いてきたから今の時間が分からないが……。

 いや、さすがに離れとはいえ時計のひとつくらいあるはずだ。その気になって探してみれば、壁に丸い時計が掛かっている。ただ今の時刻は六時くらいか。

 帳の持ってきた本のお陰で暇は潰れるが、さすがに空腹は限界かもしれない。タロット館へ戻ればいいだけの話だが、無防備な帳をそのまま置いてけぼりにするわけにもいかない。

 手放しでバカンスを満喫するには、ここは少々危険だ。新藤さんと道明寺さんの件、それから須郷さんとすぎたさんが互いに殺し殺されする動機を有するのは決定的である。加えてロッタさんという不確定因子もある。先生方は人殺しをするような人間ではないかもしれないが、このタロット館という舞台、それからロッタさんという殺人事件を望みかねない人物が感覚を狂わせる。

 いつ誰が死んでもおかしくない。他の人……呉さんや森さんのような楽観的な人たちには噴飯ものの杞憂に映るかもしれないが、僕には一大事だ。

 猛獣を何種類もいっぺんに閉じ込めた檻のようなもの。そんなところに帳を一人で置いてはおけない。

 横で眠る帳の顔は、なんの心配事もなさそうだ。

「こいつ……ちゃんと薬飲んだのかな」

 今でこそ大人しいというか、むしろ尊大なくらいだが、昔は気弱で、『あいつ』の後ろにいつも隠れているようなやつだった。病弱で入院生活が長く、同年代の友達が少なかったのも原因かもしれない。

 『あいつ』が失踪してからしばらくは精神のバランスを崩して、長く臥せっていた。当時の僕には詳しいことが分からなかったが……PTSDの類だったんだろうか、あれは。今でも薬を飲まないと眠れなかったはずだ。それとも、昼寝くらいは薬なしでできるほどには回復しているのだろうか。

 だとしたら喜ばしいことだ。念のため、市販の睡眠導入剤は持ってたけど(タロット館についてからは常に数錠、ポケットの中だ)、この分だと出番も無さそうだな。

 左手を伸ばし、帳の黒い髪に触れる。その行為を咎める人間は今、誰もいない。毛先を適当に弄った後、人差し指でそっと、帳を起こさないように、唇に触れた。

 形の良い、柔らかな唇。帳が起きているときは絶対に出来ない行為に及んでいるという背徳感が背中を撫でている。

「う、ううん……」

 帳が身じろぎする。咄嗟に僕は左手を引っ込め、本を開いて「読書をしていました」という体裁を整える。

「……あれ? 瓦礫くん……わたし、寝てた?」

 目を覚ました帳は、目を擦りながらこっちを見た。普段は星のような輝きの瞳も、寝起きばかりは曇っている。

「ああ。寝てたな、ぐっすり」

「今何時?」

「六時くらいだ」

「瓦礫くんはずっといたの?」

「まあな」

「そう。起こしてくれればよかったのに。それにあなたがわたしに付き合ってここに残る必要もなかったでしょう」

「そうとも限らないさ」

 帳は口を開きかけたが、無言で立ち上がる。僕も立って、バスケットの中に本を入れた。

「戻ろう。夕食の時間も近いだろうし」

「そうね」

 『鷲の座』を出た僕と帳は、坂を下ってタロット館を目指す。行きは気づかなかったが、ここからはタロット館の全景がよく見渡せた。タロット館が建つところよりも位置が高いらしい。見取り図で既に把握していたが、あらためて見ると城壁は円形だ。切れ目なく中央館を取り囲む城壁はやはりデザインとしては不自然で、この館を設計したという朝山大九の性格が想像できる。こんな設計、よっぽどの数寄者でないと採用しない。

 終の住処として造られたと森さんは言っていたな。なるほど、注文主が他ならぬ本人だから、際限なく可笑しな設計なのだろう。

 砂浜を撫でる波の音は遠ざかっていく。今僕の耳に聞こえるのは、帳が履いている木履がアスファルトを踏み擦って鳴り響く乾いた音だけ。

「紅緒の木履も緒が切れた……」

「北原白秋の童謡ね。瓦礫くん、知ってるの?」

「この前読んだミステリに出てきただけだ。僕はこの一節しか覚えていない」

「だと思った」

 帳は息を吸うと、歌い始めた。

「雨がふります。雨がふる。

 遊びにゆきたし、傘はなし、

 紅緒の木履も緒が切れた」

 氷水に浸して冷やしたラムネのように澄んだ声。聞くだけで暑さを忘れる。架空島にだってセミくらいいるだろうに、帳に遠慮したのか、一匹の鳴き声も聞こえない。

 一通り歌い終えた帳はこちらに目を向ける。僕は臆することも恥ずかしがることもなく、その眼を見ることができた。

「どうしたの?」

「何でもない」

 彼女が歌うのを久しぶりに聞いた。彼女と目を合わせることができた。僕はそれくらいで満足できる。つくづく、小さい人間なのだ。

 タロット館に戻ると、エントランスで森さんにでくわす。

「おう猫目石先生に夜島先生、お帰りかい」

 『猫目石先生』に帳が笑う。『夜島先生』も大概だと言いたかったが、何故かしっくりきてしまう。僕の苗字に難があるのだろうか。

「もう夕食になるもんだから、先生方を呼んでたところなんだ。猫目石先生は『鷲の座』から?」

「ええ。『鷲の座』から帰ってきました」

「そうかい。それじゃあ道中で宇津木先生を見てないか?」

 宇津木さん、書斎にいるんじゃなかったのか? 今朝そういう話をしていたし、その場に森さんもいたけどなあ。

「わたしは見てないわ。瓦礫くんは?」

「僕も分からないな。ちゃんと見てはいなかったし」

「少なくとも、『鷲の座』にはいなかったわよね?」

「あい分かった。じゃあ、先に『牡牛の座』を探すか……」

 森さんはエレベーターに乗って姿を消す。自由人とほとんどイコールな職業の人が五人も集まると大変だな。

 僕と帳は荷物を置くために一度、北側の狭い通路を通って自分の客間へと戻る。

「今日も着替えに時間がかかるのか?」

「さすがに毎日は着替えないわよ。正装というのは、毎日着ていたら正装とは呼べなくなるから」

「……ふうん。僕には分からない世界のことだな」

「髪がちゃんと乾かない内に寝てしまったから、一応、セットし直すくらいのことはするわ。先に食堂に行ってちょうだい」

「はいはい」

 『女教皇』の客間に帳が消えるのを確認し、僕も『戦車』の客間へと急ぐ。右へ緩やかに弧を描く通路を歩き、『戦車』の客間の正面まで来たとき、四つ奥の客間正面にメイド服の人物を見かける。呉さんだ。

 少し遠いから判然としないが、呉さんは扉をノックしているらしい。何度か叩き、それから思案にくれたように腕を組んでいた。

 宇津木さんが言うには、呉さんの部屋は『恋人たち』。見取り図を思い出してみるに、『恋人たち』の部屋は僕の手前に位置するはずである。つまり呉さんは自分の部屋が開かなくて困っているというわけではない。

 そもそも、自分の部屋へ入るのにノックするやつはいない。

 使用人である呉さんが他人の部屋に用があるとすれば掃除か、客を呼び出すときくらいだろう。そろそろ夕食の時間だし、知らせに来たと考えるのが妥当そうだ。

 そうなるとあの部屋が誰の部屋か、という問題になる。道明寺さんではないのは確かだ。道明寺さんの部屋は僕のひとつ奥、『力』の客間である。つまり僕の部屋は呉さんと道明寺さんの間に挟まれている格好になる。

 他の人はどうだったかな……。僕が呉さんと道明寺さんの部屋の位置を覚えていたのは、単に隣だったからだ。宇津木さんは部屋割りを一通り僕に教えてくれたが、タロットの知識が無い僕は四つ奥の部屋、すなわち大アルカナ十一番目のカードが何であるかを知らな――待て。

 思い出した。七月に帳は、タロットについて簡単なレクチャーをしてくれた。あのとき言っていたな……。十一番は『正義』のカードだ。

 僕は開錠し自分の部屋を開け、中に荷物を放り込んだ。ちゃんと施錠してから、呉さんに近づく。

「宇津木さんがどうかしましたか?」

「あっ、猫目石さん……。それが、先ほどから呼んでいるのですが、宇津木様の反応が無いのです」

「部屋にいないんじゃないですか? 今朝、宇津木さんは書斎に籠ると言ってましたよ」

 呉さんは首を横に振る。

「書斎はいの一番に探しました。遊戯室などもです」

「他の客間という線は」

「ありえません。使用していない客間は施錠されていますから。それにお客様方も、我々使用人もお嬢様も、昼食の後は宇津木様を見ていません。森さんには離れを調べてもらうことにしましたが……」

「…………誰も見ていない?」

 いや、まあ、単純に入れ違いだろう。あるいは離れにいるとか。別に深刻な話ではなさそうだな。

呉さんは腰を屈めて、ドアノブの下についている鍵穴を覗きこんだ。

「見えるんですか?」

「見えます」

 ああそうか。内側からの施錠開錠にも鍵が必要だということは、つまり鍵穴が貫通してるってことだもんな。通常の建物に使われる鍵と違い、僕が今持っている鍵は太い棒状だから、比例して鍵穴も大きい。覗くことも難しくはない。

 昨日の夜、宇津木さんがレクチャーしてくれたことには、このタイプの鍵を『ウォード錠』と呼ぶらしい。錠の内部に障害物があって、その障害物にひっかかることなく錠内部を一回転できる鍵だけが、開錠できるようになっているとか。一応、マスターキーも作れるようだが、複数の錠を開けられる鍵を作ろうと思えば、それこそ芸術品みたいな鍵になるとか……。

 じっとそのままの体勢で鍵穴を覗きこんでいた呉さんは、何かを見つけたのか険しそうな顔をする。

「扉の前に何かありますね。荷物ではなさそうです。これは……もしかして!」

 呉さんは弾かれたように立ち上がり、オロオロと辺りをうろつき始める。

「どうしましょう……。これは、でも」

 百聞は一見にしかず、だ。今の呉さんに聞いても明確な答えを貰えない気がしたので、僕も鍵穴を覗くことにした。

 アパートの扉についているような覗き穴と違い見づらかった。当然だな。あの手の覗き穴はただの穴じゃない。レンズである程度拡大する構造になっている。

 鍵穴は大きいが、覗くためのものではないので部屋の様子を探るのには苦労する。どうやら見た感じ、配置は僕の部屋と同じようだが……。

 呉さんの言う通り手前に、何かがある。近すぎて見えるのが一部分だけだから、それが人か物かも分からないが……。

 あれはジャケットだ。間違いない。宇津木さんが着ていたジャケット。

 つまりこの場合、二種類の可能性が考えられる。ひとつはこのジャケットが丸められ、扉の前に置いてあるという可能性。こちらはまあいい。いらぬ心配だったで済む。問題はもうひとつ、すなわち扉の目の前に宇津木さんが倒れているという可能性だ。

「なにかあったの?」

 その声に鍵穴から顔を離して振り向くに、帳が近くにいた。部屋を出た後、真っ直ぐ食堂へは向かわなかったらしい。

「ちょっとな」

 返事もおざなりに立ち上がる。帳への返事が適当になるとは、我ながら慌てているな。落ち着こう。

「もしかしたら扉の向こうで、宇津木さんが倒れているかもしれない。シュレディンガーの宇津木さん状態だな……」

 不謹慎な冗句まで口をついて出てくる。だがその冗句で冷静さは取り戻せた。

「開けるしかないですね」

 とりあえず、ドアノブを握って捻る。三十度も回転させない内に何かに引っ掛かってドアノブは動きを止める。だよな。鍵かかってるよな。

「呉さん、マスターキーは持っていますか?」

「も、持っていません。というか、ありません」

 無い? 二十二も部屋があるんだぞ? ……今は追及するのを止めよう。

「では予備の鍵は?」

「書斎にあります。取ってきましょう」

 パタパタと呉さんが書斎に赴き、帰ってきたのは五分くらい経った頃だった。少し遅い気がする。

 それに、呉さんの後ろからロッタさん、さらにはゲストの先生全員がついてきたのも疑問だったが……今はいい。

 手早く鍵を差し込み開錠。さすがに館の使用人だけあって、呉さんは慌てていても動きがスムーズだ。扉を開き、中に入ろうとした呉さんはたららを踏んで、立ち止まった。

 僕は脇から呉さんを通り抜けて、『正義』の客間へと入る。

 部屋を観察する暇もなかった。

 鍵穴で見たとおり、目の前に何かがあるからだ。

「……宇津木さん!」

 可能性は悪い方にばかり的中する。そういうものだとは経験的に知っていたが、驚きを禁じ得ない。

 宇津木さんは扉のすぐ前に倒れていた。僕たちに背を向けて、右半身を絨毯に密着させた状態で。

「大丈夫ですか?」

 近づいて傍に膝をつき、確認する。ジャケットの裾、両腕、両足が部屋の奥に向かって投げ出されていた。この体勢では背中しか確認できない。呉さんたちのいる場所からでも同様だろう。僕は宇津木さんの左肩に手を掛け、仰向けにさせた。

 ジャケットの胸ポケットから滑り落ちた物が、絨毯の上に落ちる。それは剣と天秤を携えた女性の姿をかたどった、鍵だ。

「これは……!」

 誰かの声。僕にはその声の主が誰だか、判別がつかない。

「………………」

 分かっていた。知っていた。気付いていた。

 宇津木さんの言葉を借りるなら――ちょっとした事実の集積だ。

 クローズド・サークルの要件を満たした孤島。妙な構造を持つ館。禍根を持つゲストたち。名探偵の存在。暇を持て余した館の主人。

 これだけの事実があれば、扉を開けずとも、宇津木さんが死んでいることは瞭然だった。僕はただ、宇津木さんの胸に刺さったナイフを現認することで、推理を現実へと確定させただけだ。

 かくして舞台の幕は、国内唯一の名探偵が最初の脱落者という、犯人のチェックメイトにより切って落とされた。

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