メインディッシュは彼

 もはや食事どころではない。

 クルーザー。孤島の別荘。メイド。クローズド・サークルの危機。探偵。小説家。幼い館の主。僕は一生分の非現実的な体験をした。したつもりだった。それなのに、追い打ちをかけるように帳がドレスを着て現れる。

 なんだこれ?

 どこだここ?

 現実と虚構を隔てるベルリンの壁は、いつからぶっ壊れやがった? 冷戦終結か? こんな体験、僕の人生が五周しても消化しきれない。

 隣に、九年間一度も見たことのない帳がいる。

 帳の着るドレスは星空のように煌めいていた。どうしてだか僕にはさっぱり分からない。開いた胸元から白い喉元と鎖骨、谷間を覗かせている。私服自体を見ることはよくあるが、こう、その、露出が多いのは初めてだ。

 運ばれてきた前菜のサラダを、帳は器用にフォークで口に運ぶ。一口食べ終えたところで、こちらを向いた。

「わたしの顔に何かついてるの?」

「いや」

 見てたのがばれたか。視線を帳から離して、食事に集中する。左手に持ったフォークでレタスをカイワレや玉ねぎと一緒に突き刺して口に運ぶ。上手くまとまらず、危うく口からこぼれるところだった。意外と難しい。帳はこともなげにしているが……。

「ふうん」

 うっ……。すぎたさんがこちらを見ている。目が雄弁に「ほうら、どこがプラトニックなのよ」と語っている。声まで聞こえてきそうだ。

「へえ。瓦礫くん、左利きなのかい? あたしと同じだねえ」

 ひらひらと、左手を振って道明寺さんがこちらに話しかける。

「どうやら左利きはあたしと君だけみたいで。悲しいねえ。いつの時代も左利きは理解されないもんだ。わかる? この前もホテルの受付でさあ、ボールペン右側に置いてあんの。しかも紛失防止に紐がついてたんだけどね、その長さが短いもんだから左手じゃ持てないの」

「ああ。それはキッツイですね」

「でしょ? もう嫌になっちゃう」

「でも左利きは、ミステリのトリックには使われやすいものじゃないですか?」

 宇津木さんがフォークを置いて、話に加わる。もう食べたのか? サラダが配膳されたのはついさっきだぞ。

「ところがどっこい! 案外これが使いづらくって。左利きじゃないと成立しないことって何よ? 上手に使えるのが右手か左手かってだけでしょ。ねえ瓦礫くん」

「はあ。確かに、少なくとも物理トリックで左利きを使用した例を、僕はほとんど知りませんね。叙述トリックなら別なんでしょうけど。宇津木さんは実際の事件も多く解決した実績があるんですよね。どうですか? そういうトリックに覚えはありませんか?」

「うーん。言われてみれば、そうだね。物理トリックで左利きを利用するってのは難しい。僕もそういう事例は知らないなあ」

 サラダを食べ終えると、音もなく現れた男性に皿を回収される。配膳の時もそうだったのだけど、まったく気配を感じさせずさながら忍者のように現れるのだから驚く。

 配膳をしているのは呉さんと、その男性の二人である。男性は初老で、全身に苦労を刻み込んだような人だった。逆を言えばそれくらいしか特徴がなく、「実はこの人、背景に書き込んであるだけなんです」と言われれば信じてしまいそうな『薄さ』だ。

「紹介が遅れましたね」

 ナフキンで口元のドレッシングを拭うと、ロッタさんが言った。

「彼が執事の坂東慶です。タロット館の料理人でもあります」

 ロッタさんの紹介に合わせ坂東さんは腰を折ると、すぐに仕事へと戻っていく。無愛想というか、無口というか……。

「じゃあ、この料理は全部坂東さんが作ったんですか」

「ええ。呉も料理が上手ですが、坂東には敵いませんね」

 当の坂東さんは黙々と、全員に刺身を配膳している。雇い主の賛辞などどこ吹く風。この人もこの人で、ずいぶんマイペースだ。

「そういえば少年に嬢ちゃんは、高校生なんだってな」

 刺身へ醤油を塗りたくるようにつけていた須郷さんが聞いてくる。刺身で口が塞がっている僕に代わって帳が答えた。

「岡崎市にある私立高校に二人とも通っています。地元も岡崎なので」

「三年生?」

「三年生ですね。だからもう、受験戦争のただ中で」

「そいつはご苦労さん。オレは大学受験の経験が無いからさっぱりだ。高校は出たんだが」

「そうなんですか?」

 帳が驚きの声を上げた。須郷さんの最終学歴が高卒のことよりも、そっちに僕が驚いた。

「ではどういう経緯で翻訳家に?」

「オレは卒業してから一般企業で普通にサラリーマンしてたんだ。で、趣味みたいなもんで、翻訳されてない海外の小説を翻訳して、そいつをイベントで売ってた。まあ、今で言う同人活動みたいなもんだな。昔は今ほど賑わってなかったが……」

「ある時、俺が紆余曲折を経てこいつの翻訳した作品を手に取った」

 後を引き取るように、新藤さんが続きを話す。須郷さんは新藤さんにすっかり投げ渡して、刺身に食らいついた。

「こいつは使えると思ってな。知り合いの編集者に紹介して仕事をさせるようになった。それが今に至るということだ」

「小説を書き始めたのも……?」

「俺の口添えだな。ある時冗談でやってみろと言って、本当に書いてきやがったんだ。しかし読んだら筋は良くてな。翻訳の過程で多くの作品を読んだのが活きたんだろう。ただ、こいつのパターンはイレギュラーだから、翻訳家や小説家を目指す参考にはならんな」

「ご忠告痛み入ります。では、もし小説家を目指すのであればどのような手段が良いと、新藤さんはお考えですか?」

 刺身を飲み込んでみたものの、話が広がって僕の入る余地はない。これが社交界というやつなのか。帳は生きる伝説相手でもごく普通に、まるでクラスメイトを相手にするような気安さで話題を展開させていく。

「そうだな。やはり何かの賞へ応募するのが一番だろう。いや俺がある賞の審査員長をしているから言うのではないぞ」

「ある賞…………」

「朝山序列探偵小説賞ですよね」

 帳が答えに窮するところで、僕の口は無意識に動いていた。言ってから「あっ」とは思うが、黙るわけにもいかないので帳に代わって今度は僕が話を引き継ぐ。

「朝山序列……ロッタさんの曽祖父が設立した公募型の大賞でしたよね。新藤さんだけでなく、須郷さんとすぎたさんも審査員をしてたんでしたっけ?」

「お、よく知ってるな少年。じゃ、道明寺さんがそこを受賞してデビューしたのも知ってるんだな」

 須郷さんがわざとなのか、話を嫌な方向へ引っ張っていく。僕は避けたつもりだったんだけどね……。

 新藤さんは社会派であり、本格派を否定している向きがある。一方の道明寺さんは受賞作、代表作ともに本格派で、つまり新藤さんとしては認められないタイプの作家だということだ。道明寺さんが受賞する際、新藤さんだけが猛烈に反対したという話は有名である。

 好みの違いというやつか。まあ、こうして会って話をしてみると、新藤さんも好き嫌いで審査する人には見えないから、たぶんもっと明確な理由があるんだろうけど、二人の間に確執があることだけは疑いようがない。

 以来、たびたび道明寺さんは新藤さんに食って掛かるし、新藤さんは否定するしなのだ。だから参加者一覧を見たとき、二人の名前が書いてあるのには面食らった。

 ここにも不安の種があり、か。須郷さんすぎたさんペアといい、騒乱の火種があっちこっちに転がってるなあ、このサロン。クローズド・サークルも杞憂だと一蹴できないくらいには、何かが起こりそうな気配に満ちている。

 当の新藤さんは、何事も無いように刺身をほおばっている。

「懐かしー。そういうこともあったねえ。あの一件であたし、『獰猛寺』とか言われちゃって」

 一方の道明寺さんもあまり、気にしている素振りはなかった。

「けっこう危ない橋を渡るのね」

「はあ?」

 誰にも聞かれないようこそりと、帳が耳打ちする。

「せっかく知らない振りで適当に話を切ろうとしたのに。新藤さんや道明寺さんが大人で良かったわ」

「そもそも、お前があそこまで話を広げなければ肝を冷やすことも無かったんだぞ」

「それもそうね」

「お前な……。そういえばロッタさん。タロット館はロッタさんのお祖父さんが設計したんですよね?」

 イカ相手に苦戦をしていたロッタさんは、切り身を無理矢理飲み込んだ。

「よくご存じですね。呉に聞きましたか?」

「帳から聞いていたんですよ。帳の住んでいる邸宅もお祖父さん……朝山大九さんというんでしたよね、その人の設計だということを以前言っていたので」

「その通りですね。夜島家と朝山家の交友も、それがきっかけなんです。去年のサロンは不参加でしたけど、帳さんには度々、タロット館へ来ていただいているんですよ」

「へえ。そんなことが」

 …………度々来ていただいている? タロット館に? 納得しかけた僕の頭は、一旦止まってロッタさんの言葉を反芻する。

 タロット館は別荘だ。当然ロッタさんも本土からここへ来るのであって、度々会うのにこの場所を利用する必然性は無い。帳はロッタさんを友人だと言っていたから、てっきり普段からよく会っているのだと思っていたけど……今の言い方だと、帳はタロット館以外でロッタさんに会っていないみたいに聞こえる。言葉の選択が悪かっただけで、僕の思い過ごしか? 呉さんと会話した時もそうだったけど、どうも言葉の節々に違和感を覚えてならない。

 疑問と刺身を相手に格闘していると、右腕の袖を軽く引っ張られる。ロッタさんか? 何事かと思い振り返ると、彼女は瞳を爛々と輝かせてこちらを見ている。エサを前に『待て』をさせられている犬の様で、そして僕は決して彼女に話題を提示させてはいけないという気になった。どうしてだろう? 本能ってやつかもしれない。

 彼女の口から、僕にとって愉快な話題が出る気がしない。ここは多少強引でも出鼻を挫く。

「そういえばロッタさんもミステリがお好きなんですよね。普段はどのような作品を?」

「そうですねやはり社会派も捨てがたいですがわたしは探偵が出てきて事件を解決する作品にカタルシスを感じずにはいられませんですからわたしとしては至高はホームズでしょうねシャーロキアンを名乗るつもりはないですが」

「……うん」

 早い、答えるのが。句読点がどこにもなかったような。自分の話題を優先したいけど聞かれたからには答えずにはいられないと。彼女もしっかり探偵小説という病に罹患しているようで。

「えっと……」

「ところでわたし、そろそろ猫目石さんのお話が聞きたいですわ」

「お話?」

 次の話題を振る前に、向こうから話題を提示されてしまった。ここはとぼけて乗り切るか。……乗り切れるのか?

 半分くらい、宇津木さんには喋っちゃってるぞ。

「何の話かな? たかだか十八年生きてただけの男に、何か話せることがあるのかな? 失敗談ならあるけどね」

「瓦礫くん、いくらなんでも卑屈すぎる。ロッタちゃんの聞きたいことはもっと面白いことでしょう?」

 ちくしょう帳のやつ。露骨に誘導しやがる。

「はいっ! 猫目石さんが宇津木さんに勝るとも劣らぬ名探偵だと帳さんから聞いて、是非お話を伺いたいと」

 『名探偵』。そのワードが飛び出した瞬間、総員の――ロッタさんと帳、給仕中の呉さん坂東さんを除く総員――の手が止まった。

ピタッ! アニメでもないのに効果音が聞こえてきそうだ。

「へえ、名探偵」

 真っ先に反応したのは獰猛寺、もとい道明寺さんで。

「そいつは面白いな」

「アンタみたいな猫男が?」

「小僧のような年齢で、か?」

 須郷さん、すぎたさん、新藤さんも声を発する。

「なるほど。帳さんはロッタさんのご友人ということで招待されるのは自然なことですが、どうして猫目石くんが招待されたのかは不思議に思っていたんですよ。探偵ということなら、ロッタさんも興味を持つわけだ」

 一人で納得するように、宇津木さんは頷いた。

「では猫目石くん、君がかつて巻き込まれたことのあるという殺人事件は……」

「やっぱり! そういう体験談がおありなんですね!」

 ここぞとばかりに、ロッタさんが迫る。食事中に席を立つのはマナー違反なので、距離を取りたくても取れない。

「真物の名探偵! 宇津木さん以外にもいらしたとは! 灰色の脳細胞を持っていたり犯罪心理学者だったり少年探偵団を結成したり小さいベルギー人だったり頭を掻いたりどもったりした挙句、ライヘンバッハの滝壺へ落ちていくあの名探偵なんですね猫目石さん」

「どちらかというと省エネ主義だったり小市民だったり古本屋の主人だったり落語家だったり覆面作家だったりして、最後に大変よく挽けましたとか言う方だと思いますよ」

「行動派ですか安楽椅子ですか? 推理は帰納法的に収束しますか? 演繹法的に繋がりますか?」

「いやさそもそも少年、名探偵ってのは本当なのかい? どうやら朝山のお姫様は知ってるみたいだが、オレたちは初耳だから説明が欲しいぜ」

 雪崩のごとく攻め込むロッタさんの疑問を遮ったのは須郷さんだった。

「大したことじゃないんですよ。帳が誇張して――」

「宇津木さんを除けば、わたしが知る限りでは一番の探偵だと自負しています」

 間髪入れず帳が勝手なことを言う。自負って……。君が探偵という看板を背負うわけじゃないというのに。

「ご存じないですか? 六年前――わたしたちがまだ小学生の頃ですが――名古屋のテーマパークで起きた連続殺人事件。それから、五年前に起きた奈落村村民総員の失踪事件に額縁中学剣道部員連続殺人……。他にもいろいろと、瓦礫くんは解決してきました」

「奈落村? ああ、三重県で起きたあの事件か。僕も県警の知り合いから出動を要請されていたんだけど、三重に着いたら解決してたんだよ。素人の中学生が解決したって聞いてたけど、君だったのかい?」

「ま、まあそんな具合で。とはいえ、殺人事件に巻き込まれたのはほんの数回ですよ。テーマパークの時に一度と、奈落村の時に一度。剣道部員の連続殺人は奈落村で同時に起きた事件なんで、括りとしてはひとつですね」

 本当は九年前にも一度あるけど、それはわざわざ言うことじゃないな。規模も二つに比べれば格段に落ちるし。

「どちらかというと、小さい謎を解かされることが多いですね。ていうか帳、奈落村の一件以降は殺人事件に巻き込まれてないんだから、そっちを紹介すればいいだろう? 今年の四月には学校で不審火の謎を解いたし、つい最近は手帳の謎を解決したじゃないか」

「そうだったかしら」

「とぼけるな。どっちもお前が言い出したから乗り出さざるを得なくなった事件だぞ」

 だいたい、僕は自分から事件を解こうとしたことなんてないのだ。他人に頼まれたって腰は上げない。帳が頼むから動いているだけだ。……あの強引さを『依頼』で済ませられるなら、という話だが。

 メインディッシュの肉料理が運ばれてきた。宇津木さんはナイフで肉を切りながら、こちらに目を向ける。

「後で奈落村の話を聞いてもいいかい? 一応、事件の概要は県警から聞いているんだけど、当事者とは話す機会が無くてね。君が解決したというのなら、どう推理したのかも興味がある」

「宇津木さんがそう言うのなら話しますが……。正直、釈迦に説法くらいの意味しかないと思いますよ」

「そうでもないさ。推理する方法ってのは人それぞれだからね。君の推理方法を、別の機会で活かせるかもしれない」

 本当にそんな機会があるのだろうか。それ以前に、僕は推理する機会が無ければ無いほどいいと思っているから、宇津木さんの前向きな姿勢が理解しがたい。

 探偵がいらない世界なら、僕はもう少し明るく生きることができるのだけど。まあ、探偵が存在しなかったら、僕はこうして帳の隣にいることなどできなかったから、あちらを立てればこちらが立たずという状態なのだろうか。

 そうでなくても僕は、一人の犠牲のもとに帳の隣に立っている。

「探偵行為など、あまり褒められたことではないのだぞ」

 呆れるような語調で、新藤さんが言い放った。

「警察の仕事なのだから、素人の入る余地など本来ありはせん。宇津木君は警察からの信頼もあるだろうが、小僧はそれこそただの一般人だろう。日常の雑事ならともかく、大規模な事件に首を突っ込むのはほどほどにな」

 そこには嗜めるとか叱るといった様子はなく、一通り喋り終わって新藤さんはナイフで無造作に肉を切って口に放り込む。

 宇津木さんは軽く肩を竦めてみせた。

「そうですね。新藤先生の言う通り、僕や猫目石くんのような探偵はいない方が良いんですよ。猫目石くんも好きで探偵をしているわけじゃないんだろう? 様子を見る限り」

「おっしゃる通りで」

「あら、そうなの?」

 帳は意外そうな声を出したが、それ以上の追及は無く、ただ肉を切っては口に運んでいた。

 帳ほど、探偵を切望する人間などいないだろうに。どうしてかこの時、帳が守った沈黙に、僕は不審さを抱いた。それはメインディッシュの肉を一口食べれば吹き飛ぶくらい、ちっぽけなものだったけど。

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