小説家たち

「たぶん遊戯室にいるだろう」という宇津木さんの言を全面的に信用して、中央館の一室を開いた。

 内装はおおよそ、廊下から受ける印象と同じである。北側の壁には暖炉が石煉瓦で造られているが、火どころか薪すら入れられていない。その代わりクーラーが効いていて、部屋の中は涼しい。クーラー自体はその姿が見えないが、冷たい風が額に当たるので、天井辺りに上手く隠されているのだろう。冷暖房の装置があるということは、あの暖炉は飾りなのか? 煙突らしいものはタロット館になかったし。

この部屋には窓がちゃんとあった。ようやく外の景色がと思いきや、正面は石造りの壁である。何のためにあるんだよ。緊急時の脱出用か?

 遊戯室と呼称するだけあって、アナログゲームの類があちこちに置いてある。バックギャモンやチェスに将棋に囲碁やオセロ。すぐにゲームができるよう、室内のあちこちに置かれた小さめの円形テーブルに展開されている。

 暖炉がある方とは反対側の壁――南側の壁には木製の棚が作り置かれ、そこには部屋に展開できなかったゲームや、展開しようがないカードゲーム類がところせましと並べられている。『カタンの開拓者』に『ダンジョンオブマンダム』? おお、『藪の中』まである。これはロッタさんの趣味か?

 肝心の帳は、ボードゲームが何も展開されていない小さなテーブルの前に座って、トランプを繰っていた。手札は十枚ほど。二人でするゲームで手札が十枚くらいといったら、ジン・ラミーくらいか。こちらに背を向けているから、背中に隠れて帳の手札は確認できない。

 対戦相手は金色の長い髪を垂らした女の子で、エメラルドグリーンの瞳は食らいつくように手札を見つめている。年齢は十代前半か、最高でも半ばくらい。僕より年上ということは絶対にないと断言できるほどには、体が小柄で四肢も細い。非力な僕でも片手で持ち上げられそうだ。

 金髪にエメラルドグリーンの目もそうなのだが、帳よりも白い肌が、日本人離れしている。着ている純白のワンピースが同化しそうなくらい、白い。金髪と相まって、彼女全体が輝いているような印象を受ける。

 そしてなにより、彼女の座っているものだ。その女の子が座っているのは椅子でもただの椅子じゃない。車椅子だ。

 呉さんの言葉を思い出す。「お嬢様にお会いになる前に」。つまり、そういうことか。

 ふと、女の子がこちらを向いた。帳も振り返る。

「あら、瓦礫くんが宇津木さんと一緒に来るなんて」

「瓦礫? 猫目石瓦礫さんですか?」

 帳の声に反応した女の子の動きは素早かった。手札を投げ捨てて車椅子を操作し、するりと目の前までやってきた。今気づいたがこの車椅子、電動だ。右の肘掛に付けられたレバーで操作している。

 膝を折って、目線をロッタさんに合わせてから挨拶をする。

「……はじめまして。猫目石瓦礫です。あなたが主催者のロッタさんですか?」

「はい。こちらこそはじめまして。出迎えできずにすみません。寝ていたもので」

 こちらに右手が向けられた。握手を求められているのは明らかだが、僕は一瞬動きを止めた。躊躇っているのではなく、ただどちらの手を出すべきが逡巡しただけだ。左利きだとこういうとき、咄嗟に右手が出なくて困る。さすがに間違って左手を差し出すようなことは無いけど、右手を出すまでにラグがある。

「本日はご招待ありがとうございます」

「そんなお固くならずに。猫目石さんの方が年上なんですから、敬語は不要ですよ。わたしのことも敬称は付けなくて結構です」

「……そういうわけにはいかないでしょう。年下でも立場の違いがある」

 帳が立ち上がってこちらに近づいてくる。

「瓦礫くん、改めて紹介するわ。この子が主催者のロッタちゃん。朝山家の子で、タロット館の実質的な主人でもある。ロッタちゃん、この木石みたいな男子が猫目石瓦礫くん。こう見えて案外、頼れる男なのよ」

「…………」

 面食らった。何がって、帳が僕のことをごく普通に説明したことに、だ。てっきり「頼りようの無い凡庸な無個性野郎」とでも紹介されるかと……。いや帳が「野郎」なんて言葉を発するはずもないけど。

「帳。このタロット館って朝山家の所有物なんだよな。じゃあロッタさんも、朝山家の人間ってことでいいのか?」

 僕の疑問に答えたのはロッタさんだった。

「一応、そういうことになります」

 一応? そういえば招待状の署名から自己紹介に至るまで、ロッタさんは『ロッタ』としか名乗っていない。決して『朝山』の姓を自分の頭に冠しない。なんか気になるな。

 しかし他人の家の都合など、気にしたところでどうしようもない。一般家庭で育った僕には、およそ想像もできない事情があるのだろう。

「ロッタちゃんは見ての通りハーフなのよ。お母様がフランス人なんですって」

「ええ。おかげさまでこういう外見をしています」

 その言葉には幾分か皮肉めいた調子が含まれていたが……軽い冗談のつもりなのかもしれない。

「しかし瓦礫くん……壮観だね。こう美少女二人に囲まれるってのは。君が羨ましいよ」

「宇津木さん、僕は別段囲まれちゃないと思いますよ」

 だが宇津木さんの言う通り、純日本人の(今は和装をしているから余計にそう見える)帳とハーフとはいえ外国人らしい外見をしたロッタさんが並ぶと、それは絵になる光景だった。メデューサはその醜い外見で見た者を石に変えるというが、彼女たちを見てもそれは同じなんじゃないだろうか。美しくても醜くても、他人を釘付けにすることに大差ない。美醜の差なんて、そういう意味ではないのかもしれない。

「君としてはどっちがタイプなんだい?」

 帳とロッタさんが二人で会話を続けているのをいいことに、宇津木さんが耳打ちする。からかわれているのかと思いきや、なんだか真剣味を帯びた口調である。

「どっちがタイプかと言われましてもねえ。少なくとも僕に、外見的な好みはありませんから」

 比較的マジな話で、内面さえ良ければお岩さんだろうが石永姫だろうが僕は付き合うだろう。

「こう……理知的で、大人しい人がいいですね」

「まんま帳さんのことじゃないか」

「そうですか? あいつ、あれで意外と騒々しいですよ」

 騒々しいというか、僕をあちこち引っ張りまわすという意味で大人しくない。あいつに振り回されていろいろ苦労したのだ。最近はそうでもないけど、四月とか七月とかは忙しかった。

 あと、今日ここにいるのも帳に振り回された結果と言える。

「じゃあ逆に聞きますけど、宇津木さんはどういうタイプの女性が好みなんですか?」

「僕かい? そうだな……」

 意外とごまかすことなく、宇津木さんは答える気だったらしい。それとも探偵の洞察力を持って、この後の展開を読んでいたのか。

 すなわち、自身が言葉を発する間もないという展開を。

 宇津木さんの言葉は扉が開かれる音で遮られた。

「たっだいまー! いやー疲れた。この年で磯遊びすると日光にやられて疲れるねえ」

 てっきり呉さんでも入って来たのかと思ったが、違う。女性が入って来たというところは正解だが、合っているのはそれまでだ。

 入ってきた人はTシャツにジーンズというラフな格好をしていた。この中では僕に次いでラフかもしれない。丸っこい顔つきが幼く見える。背丈が僕と同じくらいだから、それこそ彼女のことを知らない人は僕と彼女を同年代だと思うだろう。

 年齢はそこまで離れていないからあながちハズレではないのだけど、彼女の方が年上だ。

「おや? おやおや?」

 彼女は左手で扉を開いたその恰好のまま、遊戯室の中を見渡した。宇津木さん、僕、ロッタさん、帳と顔を見て、それからニヤリと笑う。シニカルなその笑いが、ようやく彼女に年相応の表情を与えた。

「見ない顔がいるね。そうか。あんたが猫目石瓦礫くんかい? はっは。帳ちゃんのパートナーと言うからどんな美形かと思いきや、その辺にいくらでも転がってそうな雰囲気だね」

 僕は石ころか何かか。

「はいよ初めまして。あたしは道明寺桜って名前。よろしく」

「……初めまして。猫目石瓦礫です」

 道明寺桜。新進気鋭のミステリ作家。代表作は少女探偵『白猫』が活躍する『白猫シリーズ』。近年では非常に珍しい本格ミステリの新人で、この業界では今一番注目されている作家である。僕も『白猫シリーズ』は読んでいる。

「しかしこれが帳ちゃんの彼氏? しかしこれが帳ちゃんの彼氏? いやー、なんか驚くほど普通だね」

 同じセリフを二度繰り返すくらいだから、まあ驚いたんだろう。

「帳ちゃんから冴えない男だとは聞いてたけど……。あたしは金田一耕助みたいなの想像してた。まさか少年Aが出てくるとは」

「登場人物一覧にすら出てこないんですか僕は」

「ほめてんだよあたしはー」

 道明寺さんは左腕を回して、肩を組んできた。馴れ馴れしい人である。でもそのおかげで、作家相手に萎縮しなくて良くなるから、僕としては助かっている。こんな性格で教師とかやられたら、僕は一目散だけどな。

「このこのー。憎いねえ。どうやったら君の様な子が帳ちゃんなんて捕まえれるの。ちょっと秘訣教えなよ」

「勘違いしてるようなら訂正しますけど、僕は帳の彼氏でもパートナーでもないですよ。ていうか酔ってます?」

「素面」

 ことさら性質悪いわ。

「帳ちゃんもさあ、こんな男じゃなくてもっといい男捕まえなよ。紹介しようか?」

「瓦礫くんが本格的に頼りなくなったらお願いします」

 捨てられないように頑張ろう。

 トントンと、宇津木さんが道明寺さんの肩を叩く。

「道明寺先生。あんまり猫目石くんをからかうものじゃないですよ。解放してあげましょう」

「はいよう。悪いねえ。瓦礫くんはあたしとじゃなくて帳ちゃんといちゃつきたいか」

「いちゃつきはしませんよ僕と帳は」

 僕がまだまだ続く道明寺さんからの攻撃から逃れていると、遊戯室の扉が再び開かれた。入ってきたのは呉さんだ。しなやかな動作で扉を閉めると、こちらへ向かって一礼した。

「夕食の準備が出来ましたので、そろそろ皆様、食堂へ移動をお願いします」

「それじゃいくかね」

 この中では宇津木さんが最年長なのだが、自然と音頭を取ったのは道明寺さんだ。僕は宇津木さんたちと並んで遊戯室を出た。

「あり? そういえば新藤さん須郷さんすぎたさんは?」

 途中、道明寺さんは振り返って、後ろを歩く呉さんに尋ねる。

「須郷様とすぎた様は既に食堂に。新藤様は一度お部屋へ戻るとのことでした」

 隣にいた帳は、遊戯室を出るとみんなとは反対方向へ歩き出す。

「どうした?」

「着替えてくるのよ」

「わざわざ?」

「わざわざ。初日の夕食会に正装しないほど、わたしは服装に無頓着じゃない」

「その浴衣じゃダメなのか」

 十分に綺麗なのに、とまでは言えなかった。だから木石とか言われるんだろうな僕は。

「社交界にはルールがあるの。まあ、ロッタちゃんがそこまで気にするタイプじゃないから、本来は着替える必要なんてないのだけど……わたしが気になるの」

「ふうん。まあ、あんまり待たせるなよ」

「女性の化粧直しが待たせないとでも?」

「さいで」

 帳を視界から外し、僕は食堂に入った。

 食堂には大きな円形テーブルが準備されていた。清潔なクロスを掛けられ、整然とそこに佇んでいる。椅子は机を囲むように八脚用意され、うち二脚は既に誰かが座っていた。

「お先失礼してたぜ。宇津木さん」

 僕から見てテーブルの右側に座っているのは、肥満体系の男性。髪は頭頂部が少し禿げている。年齢は三十半ばのはずだが、頭部と肥満体型のせいで四十代くらいに見える。レンズが大きい眼鏡のブリッジを押し上げて、こちらに向いた。

「おお。君が例の彼氏さん?」

「…………初めまして。猫目石瓦礫です」

 帳、本当にいったいどういう説明をしたんだ? それともここにいる方々の邪推で僕に帳のパートナーという立場が与えられているのか?

「こちらこそ初めましてだ。オレは須郷大覚。……ってもしかして知ってる?」

「ええ。まあ」

 須郷大覚。主に海外ミステリの翻訳を手掛けるが、自身でも作品を書く作家である。僕はあまり海外ミステリを読まないが、それでもこの人は知っている。彼は翻訳作家としては異例の知名度を誇るのだ。代表作のシリーズがドラマ化したという話を、クラスメイトがしているのを最近聞いたばかりだからよく覚えている。

「一応、サロンに参加する全員のことは調べましたから。それに調べなくても、よく知っています」

「夜島の嬢ちゃんから聞いてるよ。ミステリマニアだとか」

「…………」

 それ『だけ』じゃないと、帳は説明してしまっているだろうか。ロッタさんは気にしているようだが、できれば僕としては、そちらに触れてほしくない。

 恥じているとか、隠したがっているということではない。

 本物の名探偵を前にして、偽物の代替品は黙っているが吉だ。

「ふうん。アンタが猫目石瓦礫ねえ。どうしてあの子、こんなオトコが好みなのかしら」

 須郷さんとは反対側、テーブルの左側に座っているのは四十代くらいの男性。いやまあ、下調べ完璧だから全員の年齢覚えていて、わざわざ「何十代くらい」という印象を持つ必要なんてないんだけどね。

「あーヤダヤダ。いかにも面食いって目してる。枯れ木みたいな雰囲気出して下心丸出しなんだから」

「はあ…………」

 男だがしかし、女性――というより、女性であることを誇張するような喋り方をする。テレビと同じ口調で貶されても僕は、「その喋り方キャラづけじゃないんだ」としか思えない。

「その喋り方、キャラづけじゃないんですね」

 思うだけでなく言ってしまった。

「フン。女性の敵たる猫野郎に話すことなんざないわ」

「大の大人がそう言わず……自己紹介しようぜ」

「言わなくても知ってるでしょ。下調べしてるみたいだし」

 概ね彼の言うとおりである。おかっぱ頭に色の薄くついたサングラスをかけたこの男性は、すぎた。テレビで毒舌を吐いて活躍するところからタレントと勘違いする人も多いが、れっきとしたミステリ作家である。なにぶん遅筆で新刊がなかなか出ないので、メディアへの露出度を上げるために雑誌の短いコラムを始めたところ大成功。そこから現在に至るという奇特な人である。

 そういえば……須郷さんとすぎたさんはつい最近、ちょっとした事件を起こしてたけど……。和解したという話を聞いてはいるが、作家としてはかなり大きい部類の事件だったので、本当に和解できているのかいぶかしんでいたのだ。こうして二人が一緒にいるところから和解は真実だったと考えて良さそうだが、一抹の不安というか、危惧を拭いきれない。あの事件はここで殺人事件を起こすのに十分すぎる動機になるだろうから。

「新藤先生はまだのようですね。みなさん、お好きな席にどうぞ」

 ロッタさんは車椅子を動かして、出入口の扉から一番遠い席へ近づく。円形のテーブルに上座も下座もあったものではないが、便宜上そこが主催者席なのだろう。

 宇津木さんと道明寺さんは悩む風でもなく、するりと席に着く。宇津木さんはロッタさんの右隣、道明寺さんはすぎたさんの左隣――宇津木さんにとっての右隣に座る。去年も同じような集まりがあったというし、その時に定着した席があるのかもしれない。

 さて、僕はどうしようか。今現在の並びは時計回りにロッタさん、須郷さん、すぎたさん、道明寺さん、宇津木さんといったところ。ロッタさんと須郷さんの間に二席。須郷さんとすぎたさんの間に一席である。ここに僕、帳、新藤さんが座る。須郷さんとすぎたさんの間は、というよりすぎたさんの隣は遠慮したいかな。そうなると二席空いているところのどれかだが……ロッタさんの隣か須郷さんの隣か。帳はロッタさんの友人なのだから隣でいいだろう。じゃあ僕が――。

「瓦礫さん」

「はい?」

 件のロッタさんから呼び出しである。

「隣に来てくれませんか。ぜひ瓦礫さんのお話が聞きたいです」

「お? 浮気か? 浮気?」

 うるさい外野は言うまでもなく道明寺さん。そういう役回りなのか、宇津木さんがまあまあと道明寺さんの肩を叩いて助け船をしてくれた。

「去年は確か、新藤先生が須郷先生とすぎた先生の間に座っていたね。では瓦礫くん。ロッタさんの提案通りにしたらどうだろう。それならば体裁的にもなんら問題ないだろう」

「それもそう――僕がどこに座ろうが浮気にはなりませんからね!」

 助け船じゃなくて泥船だったよ。

 実際、どこに座ろうが問題にはならない。わざわざロッタさんの提案を跳ね除ける理由もないので、言われるままロッタさんの隣に座った。

「それにしても遅いですね帳さん」

「女性の身支度には時間が掛かるそうですよ」

「そうなんですか。大変ですね」

「あなたも女性ですからね」

 女性と言っていいほどの年齢かはさて置くとしてもね。

「帳さんとはどのような関係なのですか?」

 尋ねるロッタさんの目は輝いていた。帳の瞳を夜空のようだとするのなら、こちらは海か。太陽に照らされた、エメラルドグリーンの海。心なしか、声が弾んでいる気もする。

「どうなんでしょうね。これがさっぱり、僕にも分かりません。少なくとも僕は、プラトニックな関係のつもりですよ」

「さあ、どうだか」

 予期せずすぎたさんが噛みついてきた。サングラス越しなのに、眼光の鋭さは遮られない。睨み殺されそうだ。この人、男性相手に嫌な目にでも遭ったのか?

「あんたみたいな、一見紳士的な野郎が一番怪しいんだよ」

「では僕が『帳とはもうズブッズブの関係なんですよー』と言ったら納得してくれますか?」

「しないね」

「でしょうね」

 つまり何言っても噛みつかれると。

「え? 本当はそんな関係なの? うわいやらしいー」

「冗句に決まってるでしょう道明寺さん」

「でも君たちって、一線超えてそうな気配あるよねえ。瓦礫くん、そこんとこどうなの?」

「どうもこうもないですよ。ただの友人です。向こうは友人だと思ってくれているかどうかも微妙ですが」

「友人ねえ」

「はい。することといったら、せいぜい一緒に食事をしたりテスト勉強をしたり……」

「テスト勉強?」

「高校生ですから」

「どこですんの? 学校?」

「あいつ、うるさい所が嫌いなもんで、大抵はあいつの家ですね」

「二人きりで」

「ええ」

 ドンッ!

 すぎたさんがテーブルをど突いた。

「二人きりで居て、何もないはずがないでしょ! 絶対に手ぇ出してるわよ!」

「わあ、大人の関係ということですね」

「ヒューヒュー。瓦礫くん男前っ!」

 なぜか感心するロッタさん。そして騒がしい外野は以下略。

「羨ましいぜ少年。あんなべっぴんさん捕まえて」

「彼らのことですから、僕たちは何も言えませんね」

「…………別に何もありはしませんよ。むしろみなさんの言うようなことがあればうれしいくらいですよ僕も」

 すぎたさんにプラトニックだ何だと言った後でアレだが、それはおおよそ本音に違いない。ちくしょうあいつ、昔はつかず離れずみたいな距離だったのに、今じゃ離されっぱなしだよ。

 過ぎ去る時間の尊さを噛み締めていると、扉が開かれた。入ってきたのは呉さんだ。ポットとカップの置かれたカートを押している。それを傍に置いてから、恭しく一礼する。

「新藤様と夜島様は準備がまだのようですので、少々お待ちください。お食事までの間、紅茶などいかがでしょう」

「そうか。夜島のお嬢さんはまだか。ならば俺は紅茶を貰おう」

 呉さんの後ろから、巨漢とは言わないまでも大柄の男が現れた。気配がなかったというか……足音などの現れる前兆がなかったものだから驚く。

 年齢はこの場で最年長の、六十代くらいに見える。矍鑠としていて、まさに『老獪』の二文字がぴったりとあてはまる。髪は総白髪で、口元には立派な髭を蓄えている。紋付き袴を来て、悠然と歩いてこちらへ向かってくる。

 自己紹介など不要。この老人こそ新藤帝都。日本のミステリ界に君臨する重鎮。

すぎたさんと道明寺さんの目つきが、一瞬だが鋭くなる。

 今までにない最大級の緊張が僕の体を包んだ。

 新藤さんはすぎたさんと須郷さんの間に座る。呉さんがそこへ紅茶を運ぶ。流れるような動作だった。呉さんが、ではなく新藤さんが。

「遅かったじゃない新藤さん。なんかあったの?」

「釣り道具の片づけですよね?」

 緊張はここで終了か。会話を始めた二人の目は平常通りのものになっている。

「うむ。海水に濡れた物は綺麗に拭いて乾かさねば。手入れが悪いと壊れるのも早い」

 紅茶をすすりながら、新藤さんはごく普通に会話をする。普通に。そこに威厳はあれど、他人をむやみに緊張させる威圧感は無い。しかし僕の体はまだ、緊張を解かない。

 新藤さんがこちらを向く。ようやく僕の存在に気付いたようで、紅茶のカップをソーサーの上に置いた。

「小僧が噂の猫目石とやらか……。俺の方の自己紹介は、不要だな?」

「…………初めまして」

 新藤帝都の書くミステリは主に社会派である。主に、とは言ったものの、僕が調べた限り社会派以外のミステリを書いている様子はない。綿密な取材に基づき社会の闇を浮き彫りにする新藤作品はそのリアリティが最大のウリ、らしい。いかんせん社会派は苦手で、多くを読んではいない。僕にとってミステリというのは探偵が鮮やかに事件を解決するものだから、その固定観念が強いというのもある。

 逆に新藤さんは、探偵が出てきて事件を解決するタイプのミステリが嫌いらしい。どこかの雑誌のインタビューで「本格探偵小説は児戯に等しい」と言い放って問題になったくらいだ。まあ、『本格推理小説』じゃなくて『本格探偵小説』って呼び方に、時代と含蓄は感じるが。

 このサロンに参加するゲスト作家の内、宇津木さん、道明寺さん、すぎたさんは本格派に分類して差し支えないタイプだ。新藤さんの登場に、大物が現れたというだけでは説明がつかないほどの緊張を感じても不思議はない。

 須郷さんはそればかりということでもないが社会派に分類される人なので、特に緊張した様子がない。呉さんから貰った紅茶をすすって、臆することなく新藤さんに話しかける。

「新藤先生、さっきすぎたさんにも言いましたが自己紹介は礼儀ですぜ? 最年長が礼を欠いちゃ示しがつかんでしょう」

「……それもそうだな。互いに知ってるとは言っても、それは本人のあずかり知らぬところで聞いた情報だ。改めて自己紹介しよう。俺の名前は新藤帝都、小説家だ。小僧は」

「猫目石瓦礫、高校生です」

 ようやく僕は緊張を解くことが出来た。

「夜島のお嬢さんから噂は聞いていた。凡庸で張り合いのない男だとな」

「あの……帳はみなさんに僕をどんなやつだと説明してるんですか? 今のところ散々な言われようなんですが」

「それは――」

 新藤さんは食堂の出入口へと視線を移す。

「本人に聞けばいい」

 開かれた扉の先に、当の本人である夜島帳がいた。帳は口元に手を当てて、慇懃無礼な謝辞を口にする。

「お待たせしたようで、申し訳ありません」

 彼女は黒のパーティドレスに身を包んでいた。そこにいるのは、やはり僕の知らない夜島帳である。

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