名探偵
あいにく僕は建築に詳しくない。だからタロット館の、石造りの外観を見たとき、内観も石造りなのだろうと独り合点していた。実際、門扉からエレベーターまでの通路はそうだったので、いよいよ偏見を強めていたのだ。
現実はどうだ?
落ち着いた緋色の絨毯、白い壁、むき出しの梁、優しい光を放つブラケット。
家かここは?
家だけども。
エレベーターを出てすぐの広間――エントランスと呼ぶべきだろうか――はイメージと大きく異なる。てっきり、冷たい牢獄のような(例えばアズカバンのような)城塞だとばかり。
まあ、考えてみれば当然か。誰が好き好んで牢獄みたいな別荘で過ごすものか。外見だけを石造りにして、内観は温かみのあるカントリーハウス風。これでいい。
きっと、出ている梁なり柱なりはイミテーションなのだろう。外観だけとはいえ重たい石を使用しているのだから、柱には鉄骨でも使いそうだ。
「瓦礫くん、重役出勤ご苦労様。待っていたわ」
内観に見惚れる僕に対して掛けられた声は、聞き覚えのあるもので。
「お前こそ、補習の無断欠席お疲れさん」
エントランスの中央に、夜島帳が立っている。僕の知らない夜島帳が。
一瞬本気で「お前誰?」と言いそうだった。
夜島帳。小学生時代からの旧知にして、『よく知っている』以上のやつで、最近では前世からの因縁すら感じ始めた、僕の数少ない友人(あいつが僕のことをどう思っているかは別にして)は、嫋々として佇んでいた。
肩を撫でる程度に長い髪、夏なのに処女雪を連想させる肌、濡れた唇。なにより視線を釘づけにして離さないのは、夜空をいっぱいに押し込めたような、黒く輝く双眸。
いつもの見慣れた容姿のはずなのに、未視感に襲われる。タロット館という、僕にとって未知の空間がそうさせるのだろうか。
それとも、彼女の細い肢体を軽やかに包む柘榴色の浴衣が原因か。
「誤解を生む言い方ね。自主休講と言ってほしいわ」
「より詳細に言い直してないか?」
実のところ、浴衣を着ている帳を見たのは初めてのはず、だ。僕の記憶力はこと帳に関してなら正確無比を標榜できるから、うん間違いなく初見だ。ペールオレンジでもなくヴァーミリオンでもなく、柘榴色と表現したくなる色合いの浴衣は暖色なのに涼しさを備えている。それは風鈴の音に似た涼しさなのかもしれない。
「そうそう、帳。賭けはお前の勝ちだ」
「あら。予想通り過ぎて反応に困るわ」
「喜べばいいんじゃないかな」
「賭け金として瓦礫くんを提出したから、勝っても倍になっては返ってこないのよ」
「ちなみにロッタさんは何を?」
「『女教皇』の絵画一枚。使い道の分からないものが、けっこうこの館に残っているそうなの」
「……『女教皇』?」
聞き慣れないワードが帳の口から飛び出した。語感から想像するところによると、大アルカナの一枚なのだろうか。
「ところで当該ロッタさんは? 挨拶しようと思ってたんだけど」
「朝から騒ぎ過ぎていたみたいで、今はお昼寝中。夕食までには起きてくるんじゃないかしら。先に荷物を部屋に運んでおいたら?」
「…………そうさせてもらおう」
ロッタさん、体力ないのか? 朝から騒いでいたとのことだけど、ゲストが到着したのは正午だよなあ。遠足前の眠れない子供みたいに、楽しみでウキウキしていたとでも? なんか、僕の脳内でロッタさんの精神年齢がズンズン低下していく。
「申し訳ありません猫目石さん。お嬢様は久しぶりに外部のお客様が来るので、少々舞い上がっているところがありまして」
「…………はあ」
呉さんの言葉が、またしても頭に引っ掛かる。 久しぶりのお客様? 外部?
「ではお部屋にご案内いたします」
思考を遮られ、仕方なく僕は呉さんの後を追う。
「じゃあ帳、また後で」
「ええ」
毛足の長い絨毯を踏みしめながら歩いていく。左右に見えるのはブラケット、階段、扉、扉。建物自体は広いはずだが、意外と扉を見かけない。部屋数は多くないらしい。きっとその代わり、ひとつの部屋が大きいのだろう。
三つ目の扉を見かけたところで、細い通路に侵入した。内観に変わりはないが、ああここが中央館と城壁を繋ぐ連絡路なのだなと直感する。
細い通路を抜けた先でまず視界に飛び込んでくるのは、木製の重厚そうな、両開きの扉だった。部屋の種別を示すプレート等はないが、見取り図に一通り目を通しているから、この部屋が書斎であるのはすぐに分かる。
僕たちから見て書斎の左側には、これまた木製の扉。書斎のものよりは小さい。扉には一枚の絵が掛かっている。画面の左側へ進もうとする男性と、画面右側に白い犬。絵の上部にはアラビア数字の『0』、下部には『The Fool』の記述。
これが大アルカナ零番目のカード、『愚者』であることは疑いようがない。僕でも知っているカードだ。上部の数字が『戦車』や『運命の輪』に用いられているローマ数字ではなくアラビア数字なのは、ローマ数字に零がないからだろう。
画面の男性は着の身着のままで、崖に向かって歩いているようだ。危なっかしい。どこか、不安定さを感じる。
他方、書斎の右側にある扉には、『愚者』と違い安定感を感じる構図の絵が飾られていた。赤い衣をまとった一人の男性が中央に立ち、右手を高く天に掲げている。右手には杖――というより棍と呼んだ方がしっくりくる長さの棒を持っていた。男性の頭上にはアラビア数字の『8』を横倒しにしたような、無限大のマーク。男性の正面にある机には小物がたくさん置かれている。
内側から湧き上がる強い力を意識せずにいられない。そんなカードだ。
画面上部に書かれているのはローマ数字の『Ⅰ』、下部には『The Magician』。
このカードは何だ? ううん、さすが純日本人は違うな。まったく英語が読めない。
「この絵は大アルカナ一番目のカード、『魔術師』を表しています」
先頭を歩きこちらを見ていないはずの呉さんが、僕の心中を察したようなセリフを言う。
「自信や手腕を表すカードとのことです」
「へえ。呉さん、タロットに詳しいんですか?」
「わたしはそこまで……。坂東さんが詳しいもので」
「坂東さん? ああ、招待状を書いた坂東慶さんですね」
「はい。当館の料理人も務めています」
タロットに詳しく料理もできて字が綺麗。万能人間か。それとも、使用人には万全な技術が要求されるのだろうか。
「この……正面の扉は書斎ですよね。で、左右のが客間と」
「そうです。つまり客間の順番は、書斎の左にある『愚者』の客間をスタートとし、時計回りに転回します。零番『愚者』の次は書斎を挟んで一番『魔術師』、そこからは何も挟むことなく順に『女教皇』『女帝』『皇帝』『法王』『恋人たち』『戦車』『力』『隠者』『運命の輪』『正義』『吊るされた男』『死神』『節制』『悪魔』『塔』『星』『月』『太陽』『審判』、最後に二十一番『世界』の客間となります」
「転回しているということは……」
「ご覧の通り、『愚者』の左は『世界』となっています」
確かに。愚者の絵の横には距離を置いて『The World』と書かれた絵が掛けられた扉がある。
城壁がぐるりと切れ目なく中央館を囲んでいるのだから、その内部も当然ぐるりと一周できる。わざわざ城壁に客間をこしらえる理由は想像しがたいが、まあ、建築家の遊び心なのだ、きっと。言い始めたらキリがない。こんな辺鄙な孤島に別荘が建っている時点で既に遊んでいる。
「猫目石さんの客室は番号が若いので、時計回りの方が早くお部屋に着きますよ」
僕たちは時計回り、すなわち『魔術師』『女教皇』と絵画を鑑賞しながら移動する。ほどなくして、呉さんは『戦車』の客間の前でピタリと止まった。
「ここが猫目石さんのお部屋になります」
何となく予期してはいた。僕の招待状にわざわざ『戦車』の絵を使っていたし、『戦車』の番号は七番だから、時計回りに城壁を移動した方が早く着く。
呉さんはエプロンのポケットから一本の鍵を取り出した。
「鍵をお渡しします。こちら、外側から施錠するときはもちろん、内側からの施錠にも必要ですので管理にはお気をつけください」
渡された鍵はずっしり重い。通常の鍵とは比較にならないくらい柄が長く、そこには『戦車』をモチーフとしているのだろうか、鎧を着た男性の姿が彫り込まれていた。
「それではご夕食までしばらく、お寛ぎ下さい」
絶妙な角度の礼を再び見せ、踵を返すと呉さんは歩き去ってゆく。スピードを僕に合わせてくれていたのだと察するのが容易いくらい、歩くのが早かった。二、三回呼吸する内に消えた。
「夕食が具体的に何時くらいになるか言わないあたり、やっぱりおっちょこちょいなのかな……」
たぶん夕食の時間は決まっているのでは。
まあいいや。どうせすぐに、帳と合流する予定だ。そうでなくても、時間になれば呼んでくれるだろう。
鍵を差し込んで開錠し、ドアノブに手を掛けた。扉にそれほど接近してようやく、僕は『戦車』の絵がサイドから螺子によって止められているのに気付いた。扉に据え付けられているものだと考えていたが、取り外し可能のようだ。何のために? 絵画をクリーニングしやすいように?
三秒ほど悩んでどうでもよくなり、扉を開いた。
「……窓は無いんだな」
元来のインドア気質がそうさせるのか、あまり旅行をしない。だから通常のホテルや旅館の客間がどれほど広いのかは見当がつかない。だが、この部屋は……写真をとって「ホテルのスイートルームです」と他人に見せても疑われないかもしれない。
窓があればだが。
まず目に飛び込んで来たのは、内装とか広さとか調度品とかをすっ飛ばして、窓が無いことだった。もとより外観を見た時、客間が内蔵されている城壁に窓が無いのは現認していたが……。マジでないとは。内側から鍵を閉めれば密室の完成だ。孤島、ひとつしか無い館の出入り口、そして窓の無い客間。あれま、ことによると三重の密室が完成するなあ。剣呑剣呑。
正確には、孤島とひとつしかない館の出入り口は、密室ではなくクローズド・サークルの成立要件だ。だから本来なら密室と二重のクローズド・サークルと呼ぶべきだろうけど……回りくどいので却下。
部屋に配された調度品は豪奢な革張りのソファ、それに付随するローテーブル、チェスト、ダブルサイズのベッド。部屋の隅には木製の物書き机もあり、机の上には銀色のボールペンがペン立てに刺さっている。長期滞在も想定しているからか、クローゼットも用意されていた。
ベッドの横にはサイドテーブルがあり、水差しとコップが置いてある。中世の戦車に載せられた水差しは、明らかに『戦車』の客間を意識して造形されたものだ。部屋ごとに別々のモチーフで作られているのだろう。
全体的に広い。これだけ家具の類が、しかも大きい家具ばかりなのに、配置されても狭さを感じない。自宅にある僕の部屋、軽く六つは入るんじゃないか?
入って左手には擦りガラスのドアがある。開いてみると、そこは洗面所だった。さらに奥へ続くドアはトイレか? ここからガラス板で区切られた浴槽も見える。ユニットバスではない。
二泊三日でクローゼットを利用する必要はないので、僕は適当の荷物を放り出して、取りあえずベッドに寝転がった。とくに理由は無く、ただ、通過儀礼的な感覚だ。旅行の経験は少なくても、形式としてまず、客間へ通されたらベッドに寝転がることは知っている。
少し、落ち着かなくなった。突拍子もないことだが、ベッドの下に斧男でも潜んでいるんじゃないかという気になる。そうでなくても、誰かが潜んでいるかもしれないとは考ええた。
昨日、その手の都市伝説を紹介する番組を見たからかもしれない。
早速確認とばかりにベッドの下を覗く。何もなかった。だよなあ。奥には白い壁が見えるだけだ。
今度こそ落ち着いて、ベッドに倒れる。
そういえば帳の部屋は、『女教皇』の客間なのだろうか。以前、あいつの持っていた招待状を見せてもらったが、それは僕の招待状の背景に『戦車』が使われていたように、『女教皇』が使われていた。見せてもらったときはそれが『女教皇』であるとは知らなかったが、呉さんがしてくれた客間の説明と、ここまで来る途中にあった絵画を照らし合わせれば明らかだ。『魔術師』の右にあった絵画は帳の招待状に描かれていたものと一致した。
うんまあ、帳の泊まっている客間が『女教皇』だったとして、だからなんだという話だ。別段僕は、後で帳の部屋を訪れようとしているわけじゃない。女子の紅閨へひとりで立ち入ろうとするほど厚顔無恥でもない。たとえ小さい頃からの知り合いで、何度も自宅には招いてもらっているとは言ってもだ。
いや、それにしても……。
帳の、あの浴衣姿を思い返して、胸に宿るのは『嵌っているようで嵌らない』感覚だった。安物のジグソーパズルを組み立てるとき、稀に不適切な場所に不適切なピースが、しかしぴったり嵌ってしまうような。
単に、彼女の浴衣姿が初めてだから、見惚れているだけなのか。今思い出せば、化粧もしていたのかもしれない。いや、していたんだろう、絶対。外見の雰囲気が違っていた。僕が、一瞬別人だと錯覚するくらいには。
しばしの間呆けていた僕は、休憩を終えて部屋を出た。呉さんから渡された鍵できちんと施錠する。荷物の中には携帯電話や財布といった貴重品が入っているから、ごく自然なことだ。盗むやつもいないと思うが……念のため。
来た道を戻る格好で、僕は城壁の中を移動した。『戦車』の客間から反時計回りにぐるりと城壁内部を一周して、客間の扉に掛かっているすべての絵画を鑑賞してもいいが、今回はパス。帳との合流を急ぐ。
書斎の前に差し掛かった時、その木製の大扉が開かれた。扉のある側の壁に沿うよう歩いていたので、危うく開いた扉とぶつかりそうになる。慌てて足を止めた。
書斎の中から出てきたのは、細身ですらっとした長身の男性だった。年は三十代くらい。こんな暑い季節だというのに、ジャケットまで羽織っている。中折れ帽を被っているが、帽子からはみ出した髪は癖が強くあちこちへ跳ねていた。
僕に気付いたのか、その男性はこちらを向いた。眼光が鋭く、睨まれている気がした。
「君は……」
「あ、ええっと」
自己紹介をするべきなのだが、突然の邂逅に言葉が詰まった。
男性は帽子を取ると、こちらを安心させるためか笑みを浮かべた。
「まずは僕が名乗るべきだろうね。初めまして。僕は宇津木博士という者だ。君は、『戦車』の部屋の猫目石瓦礫くんでいいのかい?」
「え、ええ。そうです。よろしくお願いします」
宇津木博士。その名前を聞いた途端、僕の緊張度はさらに高まった。宇津木博士と言えば、近年流行中の人気ミステリ作家。特に、犯人視点で探偵を騙し完全犯罪を確立させる『クロの矜持』シリーズは累計何万部だが知らないが、とにかく売れに売れている。
さらに宇津木博士には、作家以外のもうひとつの面がある。
「あの……僕の名前は参加者一覧を見れば分かるとして、部屋はどうして……」
「ちょっとした事実の集積だよ」
宇津木さんは中折れ帽を脱いだ。
「君の言うように、まず名前を知るのは簡単だ。参加者一覧表があるし、君だけは遅れて到着しているからね。そしてもうひとつ。これは君の知る由もない情報だが、僕は去年の集まりにも招待されているんだ。僕の部屋は『正義』なんだが、それは去年と同じ。ならば他の参加者の内、去年も参加した人間は全員が同じ部屋をあてがわれているということだ」
「去年も参加してたんですか」
もしかして年中行事なのか?
「ああ。夜島帳さんと猫目石くん以外の総員が、去年も参加している。そして去年の部屋割りは新藤先生が『世界』、道明寺先生が『力』、須郷先生が『太陽』、すぎた先生が『死神』、ロッタさんが『運命の輪』、坂東さんが『塔』、呉さんが『恋人たち』、森さんが『吊るされた男』という具合だ。この時点で君の部屋になりうるのは残るところ十三。そして僕は書斎にいたが、すぐ近くで扉が開閉される音は聞こえなかったから、左右の『愚者』『魔術師』の部屋は可能性から排除される」
「でも、それにしたって僕に割り当てられた可能性のある部屋は十一ありますよ?」
「君は『愚者』の部屋のある方向からではなく『魔術師』の部屋のある方向から来たじゃないか。それはつまり、書斎が丁度北側だから……城壁の東側にある客間のどれかからここへ来たということだ。東側にあるのは『魔術師』から『正義』の客間といったところだろうけど、今までで述べたようにかなり絞られているから、君に割り振られた可能性のある部屋は残すところ『女教皇』『女帝』『皇帝』『法王』『戦車』『隠者』の六つだけだ」
「……僕が遠回りしたかもしれませんよ?」
遠回りしようかなとは、事実思っているわけだし。決してズバリ推理されているのが悔しくて苦し紛れに反論しているのではない。ところが宇津木さんは、その反論を予測していたかのように、即答で返した。
「帳さんから君のことはいろいろ聞いてるよ。『タロット館へ入る前に敬称で呼ぶなと注文する』かどうかでロッタさんと賭けをしていたのも見ていた。僕は帳さんとは初対面だが、どうやら君とは旧知らしいし、ならば君の性格に対するあの子の推測は大方当たっていると見ていいだろう。君のような気質の持ち主なら、目の前に愛するパートナーがいるのに合流を急がないはずはない。特に、クローズド・サークルの発生しかねない、未知の孤島に建つ誰が設計したかも定かじゃない館ではね」
「愛するかどうか、パートナーかどうかはさておき、いくらなんでもそれは、僕の心配性が誇大妄想レベルじゃないですか?」
「そうでもないさ。確かに常人にとってはクローズド・サークルの成立要件がいくらあろうが『それまで』だ。しかし僕らのようなタイプにとっては、『それだけ』じゃ済まない。そうだろう?」
「………………まあ、そうですね。宇津木さん相手には隠す必要もないでしょう。殺人事件に巻き込まれたことのある経験ってのは」
僕が帳との合流を急いでいたのは、帳の傍に一秒だって長く居たいとかそんな女の子な理由からではない。ただ僕は、危険性を考えているだけだ。
この孤島が、あるいはタロット館がクローズドして殺人事件が発生し、そして誰もいなくなる可能性が如何ほどかを、真剣に計算している。
それこそ他人に言わせれば杞憂レベルの心配で、僕も半分はそう考えている面があるが、どっこいそうでもなかったりする。
例えば夜道を歩いている途中でカツアゲに遭う確率は健常者ならば等しく持ち合わせているだろうが、実際にその危険性、危機感を有する人間がどれだけいるかという話である。常人は『まさか』と一蹴してその危険性を考慮しないだろう。もし危険性を認識しても、現実味に欠けるかもしれない。逆に、一度でも被害にあった人間ならば十分その危険性を認識できる。現に一度、酷い目に遭っているのだから。
とどのつまり『現実味』の問題。どんなにその危険性を現認しても、『まさか』の一言が強い内は危険性への対応などしない。
クローズド・サークルの成立要件を『それまで』とはせず危険性として認識できる人間。『まさか』で済ませず対応できる人間は、僕や宇津木さんのように、殺人事件に巻き込まれたことのある人だけだ。
とりわけ宇津木さんのようなプロフェッショナルなら、話は違う。
小説家とは別の顔、国内唯一、警視庁黙認の名探偵としての顔を持つ宇津木博士なら。
「それで、何の話だっけ? ああ、君の部屋割りがどうして分かったのかって話だったね」
「いろいろ推理した挙句、六つにまで絞り込んでましたよ」
「うん。残る六つに関してだが、うち『女教皇』は帳さんの部屋なんじゃないかい?」
「『かい?』って、本人からは聞いてないんですか?」
「まあね。女性の部屋を自分から聞くほど野暮じゃないんだ。去年の部屋割りについても、皆が勝手に言っていたのを聞いたに過ぎない。それで、どうして『女教皇』の部屋が帳さんの部屋だろうと推理したのかと言えばね、扉の絵だよ」
「絵?」
振り返って、『女教皇』の部屋を見た。円形の城壁内部にあるものだから通路全体は緩やかに曲がっているが、それでもここから『女教皇』の部屋までは視界が通っている。
扉の絵。宇津木さんはそうとしか言わなかったけど、それだけで僕には伝わった。
画面の上部にローマ数字の『Ⅲ』、下部には『The High Priestess』の文字。玉座に腰掛ける女性は厳格な顔つきでこちらを見ていた。着ている衣は青く、牛の角のようなデザインの髪飾りを頭に着けている。手に持った魔術書には何か書かれているようだが、ここからでは遠くて見えない。女性の左側には黒、右側には白い柱が描かれ、それぞれ文字が刻まれているらしいがこれも遠すぎて視認は難しい。柱の間には植物が描かれた布がピンと張られている。
そんな『女教皇』の絵画は上下が逆さまだった。ここへ来る途中に見た、門扉に描かれた『運命の輪』の絵がそうだったように。一応、自分の部屋に案内される途中で鑑賞してたんだけどなあ。全然気づかなかった。浴衣姿の帳に出会った衝撃から立ち直ってなかったのかもしれない。
「他の、使用されていない客間の絵はちゃんと正位置になっている。つまり、絵をわざわざ逆位置にしたということは、そこに宿泊する客がいるからだよ。実際、君は見ていないだろうけど、すぎた先生の『死神』の客間も絵が逆位置になっているんだ」
「はあ」
「これで残り五つ。あとは正直、帳さんから聞いた情報などを繋ぎ合わせて、君にどのカードが相応しいか適当に推測しただけだよ」
「『戦車』なんて不相応な気がしてなりませんが」
「僕は一番、猫目石くんに似合うカードだと思うよ」
臆面も無く、宇津木さんは言った。お世辞や社交辞令として受け取っておこう。まあ実際、『皇帝』や『法王』、『隠者』なんてカードが僕に似合うはずもなく、ならば覇気のない戦士の表情が描かれた『戦車』の方がマッチする。
「さて。何となく立ち話してしまったな。早く君のパートナーのところへ行くとしよう。もちろん、二人きりに水を差してしまうようなら僕は自重するけどね」
「二人きりにロマンチズムを感じるほどじゃないんですよ僕たち。旧知ですから」
……僕にとってはある意味一番の不安要素だった宇津木さんが意外と気さくだったものだから、僕はあからさまに安心していた。適当な軽口が出るくらいには。名探偵なんて見透かしたような人ばかりだと思っていたし、宇津木さんはずばり見透かしていたけど、それでも悪い気はしなかった。すぐにねたばらししてくれたことも大きいかもしれない。
宇津木さんに伴われて中央館に向かう直前、僕は『女教皇』の絵画を振り向いて今一度観察した。
「どうかしたのかい?」
「いえ」
『女教皇』の絵のデザインが何かに似ている気がしていた。それが何であるかも思い出したが、宇津木さんにわざわざ言うほどではない。
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