タロット館1 不相応な誘い
ようこそタロット館へ
愛知県は知多半島からクルーザーに揺られて三十分。太平洋上日本領海内に僕はいた。
天気晴朗なれど波濤は高し。船に乗り慣れない僕は船酔いを警戒したが、幸い悲惨なことにはならなさそうで、体調はすこぶるよろしい。念のため飲んでおいた酔い止めのお陰かもしれない。
真夏だというのに暑いとは思わない。海上はこんなにも涼しいのか。既に大英帝国ならばアフタヌーンティーでも喫する時刻なので、太陽が高くないというのもあるかもしれない。
クルーザーのデッキから一望する太平洋はどこまでも青く、はるか遠くで澄み渡った空と混ざる。山生まれにはかくも珍しき水平線。どれだけ眺めても飽きることが無かった。
「おう、見えてきたぜ、猫目石先生」
運転席から、男性の野太い声が聞こえる。クルーザーのエンジン音に負けないよう、張り上げている。
「え? どこにあるんですか? 架空島ってのは!」
後ろを振り返って僕も声を張り上げるが、すぐに喉を痛めた。もとより声を張るのは得意じゃない上に、僕の声は雑音に混ざりやすい。人ごみで会話をすると、自分で自分の声が聞こえない時すらあるのだ。
「正面だよ! 先生には見えないのかい?」
浅黒い顔が、運転席からにゅっと現れた。四十代そこそこといった具合の、頭にねじり鉢巻きでも締めれば似合いそうな男性だ。彼はこれから向かう架空島にある館で使用人をしている、森元通さんだ。
「水平線しか見えないですよ! それと! 先生ってのはやめてくれませんかね! 僕、まだ教えを受ける立場の人間ですよ?」
もう疲れた。声を張りたくない。それでも僕と森さんの会話は続いた。
「お嬢の客人なら先生だ! もう五分もすれば着くから待ってな!」
エンジン音が一層うるさくなり、重心が前へ勝手に傾く。進行方向とは逆を向いていた僕は加速に対応しきれず、何度かその場でステップを踏んでから尻餅をついた。
「いてっ」
「ははっ! 若いのにだらしねえな先生!」
「まごうことなき文化系ですから……」
森さんに笑われてしまったが、ともかく、あと五分で到着か。長かった。
僕は甲板へ適当に放り出していた旅行鞄から封筒を取り出した。厚手で黄金色。僕のような凡夫はおよそ、販売店すら推測が不能な代物だった。ちなみに開封しているが、開く前は蝋で封緘されていた。蝋を垂らして印で押し付けるアレだ。僕は正式名称を知らないが、蝋で封って……。
時代錯誤もいいところである。
封筒を逆さまにして、中身を取り出す。もう既に何度もあらためているから中身が何かは知っていた。三枚の紙だ。中で引っ掛かっているのか同時には出てこず、まず一枚が滑り落ちた。
封筒と同じ、野卑でない典雅な黄金色をした紙。四つ折りにされたそれを開いて、内容を確認した。
『猫目石瓦礫様へ
七月三十日から八月一日にかけて、朝山家が所有する別荘、架空島はタロット館にて夏期サロンを開催する旨をここにお知らせいたします。参加予定者は別紙の一覧表をご確認ください。
当日は愛知県知多郡南知多町師崎港よりクルーザーをご用意させていただきます。正午丁度に出港する予定ですが、折り合いが悪いようでしたら別途迎えの船をご用意しますので、お気軽に連絡をください。
主催者代理 坂東慶』
大き目の丁寧な文字が並ぶ。横書きだが列にゆがみは無く、字間は均等だ。読みやすさを第一に考えて手紙を書いているのが、文字から十分に伝わってきた。内容はひどく堅苦しいが、取っつきにくさを感じさせない。
文章は短く、紙の上半分に書かれていた。そして下部にはまた、別の文章が続いている。筆跡からして、『坂東慶』とは違う人のようだ。そりゃ、一度署名して文章を締めているのに、そこからさらに本人が文を続けるはずないよな。
『猫目石様へ
帳さんからご活躍は聞き及んでおります。なんでも、正真正銘の真物だとか。それでいてもたってもいられなくて、突然の申し出で戸惑われたかとも思いますが、タロット館へご招待することにしました。猫目石様もわたしと同じ趣味をお持ちならご理解いただけるでしょう?
お話によると、どうもご自身を卑下なさる性格のようですね。このサロンに集まる方々が方々ですから、きっと猫目石様はその性格から遠慮なさるのではないかと不安を感じています。ですから参加者一覧についてはお送りするのを止めようかとも考えたのですが、二十則の第一則に反しますものね。それに、導入前に登場人物一覧は必須ですから。
必須と言えば、館の見取り図も必要ですね。同封いたしますので、ご活用ください。
それでは七月三十日、会えるのを楽しみにしています。もしどうしても遠慮なさるなら、別の日でもよろしいので、いつでもタロット館に来てくださいね。お待ちしています。
主催者 ロッタ』
うって変わって、くだけた文体だ。字は綺麗だが、坂東慶が書いたそれよりも滑らかで、川の流れのようだった。
あるいは運命の流れか。いや……それはない。
運命の流れってなんだよ。とっさに連想したけど、僕自身、理解できない。よくギャンブラーが『ツキの流れ』を察知しようと努力するけど、あれほど無駄な試みも無いと考えるような人間だ、僕は。
あるのは確率と事象だけ。そこに川のような流れ、糸のような繋がりはない。
だから僕は、占いも信じていない。今日の星占いはふたご座が最下位で、血液型はA型が最下位だったけど、そんなものも気にしない。
ところでこの招待状に使われている便箋、裏面は無地だが、文字の書かれた表面は違う。
模様があったのだ。
模様というより、絵柄というか……。
書かれた文章の背後に、男の姿が描かれている。絵は細かいところまで書き込まれているらしいが、全体的に色調が薄いので、可読性は損なわれていない。
男は鎧のような物をつけて、戦車に乗っている。鎧のデザインは甲冑というより胸当てに近い。肩当は三日月のような形をしていて、何故だろうか、腰のベルトは傾いていた。
男が乗っているのは戦車といっても、現代的なキャタピラではなく中世の、馬が引くようなタイプ。しかしこの絵では、戦車を引っ張っているのは馬ではない。
スフィンクスだ。左に黒、右に白のスフィンクスがいて、二匹が戦車を引っ張っている。どうしてスフィンクス? スフィンクスといえばエジプトにあるやつが有名だが、何か関係があるのだろうか。よく見るとこの絵の背景は砂漠のように思われる。いかんせん色合いが薄いので、断言はできないけど。
僕は絵画に対する審美眼を持ち合わせないけど、この絵について不自然な点がふたつあることには気づいていた。
ひとつは男の表情。虚空を見つめるような、どこか悟った顔つきをしている。戦車に乗って鎧を着ているということはまさに戦場へ向かう場面だろうが、この覇気のない顔つきはどうしたことだ?
もうひとつは、男の下半身。腰当から下が、戦車と一体化しているという点。
この絵が何を意味するのかは不明だが、しかし、この絵が何であるかは容易に想像がつく。
絵の上部に書かれたローマ数字の『Ⅶ』、そして下部に書かれた『The Chariot』の文字。それはこの絵が、タロットの一枚であることを示す。
大アルカナ七番目のカード、『戦車』。
大意は知らない。しかし勇ましさが表現されていそうではある。この、およそ僕とは縁遠そうなカードが、どうして招待状に描かれているのだろうか。今から向かう場所が『タロット館』だからこのような演出自体は理解できるとして……僕に戦車なぞを配したのは誰だ。
招待状は折りたたんで封筒に仕舞い、その代わり別の紙を引っ張り出した。取り出したのは、招待状に添付すると書いてあった参加者一覧だ。屋敷の図面は取り出そうと思ったけど、面倒になって止めた。建築に疎い僕が見ても楽しい物じゃない。
手書きだった招待状と違い、こちらはワープロで打ちこまれていた。紙も普通のコピー用紙らしいが、やはり手触りが違う。普段僕が使っている紙よりなめらかだ。単純に、高い紙だと僕が思い込んでいるからかもしれないが。
『夏期サロンゲスト一覧(順不同)
新藤帝都
すぎた
須郷大覚
宇津木博士
道明寺桜
猫目石瓦礫
夜島帳』
夜島帳を除き総員、僕がよく知っている人物だった。向こうは僕のことなんて歯牙にも掛けちゃないだろうが、ネットで検索すればプロフィールが容易に出てくるような人たちなので、僕が知らないはずがない。
主催者さんが同封するのをためらうのも納得の内容。彼女(名前だけでは判然としないが、女性であることは聞いている)いわく卑下する性格らしい僕は、その予想を大きく外すことなく萎縮していた。なんで招待に応じてしまったのだろうかと。
順不同とか注釈をつけつつ、ちゃっかり年功序列で並んでいるのが憎らしい。そっか、帳より僕の方が誕生日は早いから、僕が帳より先に書かれているのか。
……つまり僕の基本的個人情報筒抜けじゃないですか。まあ、帳が共通の友人として間に入っているのなら、先方が僕の誕生日くらい知っていても不自然は無い。
でもそれって、帳が僕の誕生日を覚えているってことだよなあ。意外だ。覚えてくれているということが。
てっきり忘れられているものとばかり。
参加者一覧も丁寧に畳んで封筒に収める。立ち上がり、尻ポケットの方へ封筒は突っ込んでおく。そろそろ、上陸だ。
進行方向正面を見ると、ようやく、僕にも島が見えてきた。
「あれが、架空島」
海岸を岩礁で囲まれた島、それが架空島だった。砂浜は見えないが、聞いた話ではビーチがあったはずだ。島の反対側か?
正面にはコンクリで固められた船着場がせり出していて、そこには既に三台のクルーザーが係留されている。一台いくらするんだか知らないが、軽自動車感覚でポンポン買える物じゃないだろう、クルーザーは。どんだけ金持ちなんだ朝山家。
島全体は、木々に覆われている。中央へ向かうにつれて小高くなっているから、たぶん、山とは言わないまでも丘のようになっているのだろう。
一番高くなっているところに、灰色の建造物がちらりと顔を覗かせた。
封筒に入っていた島と館の見取り図を脳内で照らし合わせて、あれがタロット館なのだと悟った。
徐々に、島はその姿を大きくしていく。
視認できるようになってから、接舷するまではあっという間だった。
「到着だ先生! お疲れさん」
軒昂とした森さんの言葉に背中を押されつつ、僕は荷物を持ってクルーザーを飛び降りた。三十分以上船に揺られていたせいで、地面に足を着けてからもふらつきが収まらない。
船着場には既に、ひとりの女性がいた。僕が旅行鞄を下ろしていると、近づいてくる。
「本日はようこそタロット館へ」
その女性は僕や帳より少し年上の、二十代前半くらいに見える。長めの髪はゆるくひとつに纏めて、後ろに垂らしていた。柔らかい、とっつきやすそうな笑みを浮かべて僕に対応してくれた。
「わたしは当館メイドの呉と申します。二泊三日の間、猫目石様が快適にお過ごしいただけるよう力を尽くしますので、どうぞよろしくお願いします」
「あ、えっと……」
やはり、極度なまでに持ち上げられている気がする。どうしようか。後で、『様』づけだけはやめてもらうように頼んでみよう。
それにしても、メイドかあ。メイドさんかあ。そういう店に行かないと出会わないものだとばかり思っていたから不意打ちだ。
呉さんはメイドというだけあって、メイド服を着ていた(当たり前だ)。業務上不必要な装飾を排したシックなデザイン。黒いワンピースの上からフリルのついたエプロンを着た、いわゆるエプロンドレス。スカートは動きを制限しない、しかし破廉恥さの無い程度の長さで、これはいわゆるヴィクトリアンメイドというやつか? 以前、ちょっとした事情でメイド服について調べたことがあるから何となく推測がつく。
ふと、呉さんの手に僕の荷物が移動していて。
「お荷物を預からせていただきます」
「あ」
ぼうっとしている間に掠め取られた! いつの間に? 呉さんの声が聞こえた時は、既に荷物が彼女の手にあった。
いや、ぼうっとしていたと言っても、僕は呉さんの服装を見ていたんだぞ? つまりそれは呉さんを見ていたということ。なのに、呉さんが荷物を取り上げるまで動けなかった。
挙動が素早いというより、自然なのだ。荷物を取り上げられるまで、呉さんが動いていたことに気付かなかった。
年齢の割に、仕事に熟練しているらしい。
僕の恐懼など知る由も無い呉さんは、莞爾とほほ笑んで。
「それでは、招待状を確認させていただきます」
「荷物預かる前に確認するやつですよね? 荷物の中に招待状が入っていたらどうするんですか?」
思わず反射的に言葉を返してしまった。
「あ、そ、そうですよねっ! 思わず預かっちゃいました」
「思わず……?」
呉さんは習熟した態度を一瞬で崩壊させ、慌てふためいた。荷物を僕に返そうか、いや一度預かった物を返すのは如何なものかと、体が葛藤しているようだった。バグを起こして、然るべき順序の前に別の手順が割り込んでしまったプログラムのようで、その姿は滑稽以外のなにものでもない。
ポケットから封筒を出して、呉さんの軌道を修正する。なんとか落ち着いた彼女は、封筒から取り出した招待状をあらため、僕に返した。
「はい、確認しました。それではタロット館へご案内いたします」
一転、再び習熟したメイドの態度に戻った呉さんは、僕を先導して歩きはじめる。どうやら、おっちょこちょいな面が彼女にはあるらしい。まあ、年齢が近いだけに、あんまりにも落ち着き払われるとこっちがやり辛いので、ああいう年相応(あるいは幼いくらい)の一面が見れて、少しだけホッとしている。
先導されて進んでいく、船着場から島の奥地へ伸びる道は、アスファルトで舗装されていた。歩きやすいのは結構だが、どうも、不自然さを拭いきれない。不釣り合いというのか。周囲を木々に囲まれ自然を満喫できるだけに、アスファルトが風流心に水を差しているような気がする。
道幅は広く、バスがすれ違うことも難しくなさそうだ。しかし広さの割に、見通しは悪い。全体的に、道が緩やかなカーブになっているせいだ。木が邪魔で、少し先の景色も見えない。
「ところで、もう他の方々は着いているんですか?」
呉さんはこちらを振り向いて、僕の問いに答える。
「はい。皆様、正午の船でこちらに到着なさっています。新藤様、すぎた様、道明寺様はさっそく、海水浴を楽しんでおられるようですよ」
「なんかすみませんね。手間かけさせてしまって」
「いえ。お嬢様は猫目石様が来られるのを、非常に楽しみにしております」
「……あの、『様』をつけるのはやめてもらえませんか? 僕、そんなできた人間じゃないもので」
「あはっ!」
僕の言葉に、呉さんは咽るような笑い声を漏らした。我慢しようとして、やっぱりやーめた、というような……。
平素から笑われても仕方ない人間だとは思っているが、まさかメイドさんに笑われるとは想像だにしなかった。
「すみません……。実は夜島様とお嬢様が賭けをしていたもので」
「賭け?」
あ、悪い予感がする。
「ええ。夜島様が『瓦礫くんはタロット館へ入る前から、敬称で呼ばないでほしいと頼むような軟弱者』とお嬢様に紹介したもので……。お嬢様は『さすがにそれはない』と思ったのか、では賭けをしようと」
話の流れからして帳は『タロット館へ入る前に敬称で呼ぶなと注文する』方に賭けたんだろう。そしてお嬢様――サロンの主催者であり館の主人であるロッタさんは逆に張った。
とんでもないことしやがる。
「夜島様の勝ちみたいですね」
「そのようで。あいつは見透かしたようなやつですから」
タロット館に入る前どころか、架空島に足を踏み入れる前にその提案をしていたことは言わないでおこう。自分で自分を傷つける必要などない。
「猫目石さん、今日は何か、お昼ごろまでご用事があったのですか?」
ひとしきり笑った後、呉さんは話題を変えた。様付けで呼ばないでくれるようになったのは、素直にありがたい。
「用事というか、補習というやつですよ」
僕が正午の船に乗らなかったのは、ひとえに学校の勉強があったからなのだ。僕の所属するクラスは特別進学クラスを気取っていて、夏休みに入ってからも、一週間から十日ほどは授業がある。補習とは言うが、別にテストで赤点を取ったわけじゃない。それだけは、自身の名誉のために言わせてもらう。
本来なら、同じクラスの帳も補習があるはずなのだけど、あいつはサボタージュである。ある意味では賢い選択だ。
「今年が受験ですから、勉強にも力を入れないと」
「受験ですか……」
「呉さんは大学受験、したんですか?」
「わたしはしませんでした。高校を出たら、すぐにこの仕事に従事する予定でしたし。でも、クラスには受験する人も大勢いましたよ」
大変そうだったなあと、呑気な感想を彼女は語った。当人にとっては大変なんかじゃ済まないのだが……。呉さんはたとえ受験が私事だったとしても『大変そう』の一言で片づけてしまいかねない雰囲気を纏っていた。
二百メートルは歩いた時、突然正面が開けた。様相が道というより広場に近くなる。僕たちの目の前には鉄製の門扉が立ちはだかり、左右には道が続く。船上で見た時、タロット館は丘のもっと上にあったので、たぶん左右の道のどちらかがタロット館に続いているのだろう。正面の門扉は、車庫か何かか。
門扉は大型トラックの突撃にすら耐えそうな堅牢さだった。もちろん、実際にはそこまで頑丈ではないだろうが、少なくとも人力では動きそうもないという印象を受ける。優に三メートルは超える高さに、さきほど歩いてきた道の広さと同じくらいの横幅があるのだ。この門扉ひとつ取り付けるだけで大仕事だったろう。
さらに驚くべきは、門扉の表面に模様――というよりレリーフが彫りこまれている点だろう。精緻な筆致で描かれたそれは、門扉の巨体さに似合わぬ細やかさ。
描かれているのは、帆船の操舵輪を思わせる輪っか。輪の上には剣を持ったスフィンクスが乗っかり、下から反時計回りに、輪に沿って上昇する影は悪魔のようだ。悪魔が上ってくるのをスフィンクスが静止している図らしい。悪魔とは対照的に下降するのは蛇。四隅には右上から時計回りに鷲、獅子、牡牛、人間が描かれている。
絵の上部にはローマ数字の『Ⅹ』、下部には『Wheel of Fortune』の表記。
「運命の車輪?」
「タロットは大アルカナ十番目のカード、『運命の輪』です」
ああ、『Wheel』は車輪じゃなくて、輪と読めばいいのか。『戦車』の場合と違って訳し方に幅がある単語だから、ちょっと分からなかった。
もとより、タロットに関する知識など人並みも無い。招待状の絵が『戦車』であると知っていたのも、あらかじめ帳に聞いていたからだ。
「『運命の輪』……?」
相変わらず大意など知らないが、ここで気になるのは、絵が上下逆さまになっているという点だ。だから門扉の上部にはローマ数字ではなく『Wheel of Fortune』の文字が書かれ、しかも文字は逆さまになっている。絵の構図もスフィンクスが逆立ちして、蛇が上昇してしまっていた。
タロットはその向きによって意味が変わるのだと、帳が言っていた。つまり本来の向きである正位置と、上下が逆になった逆位置でタロットはその大意を異にする。
門扉に描かれた逆位置の『運命の輪』。僕がその絵を見ていると、呉さんは扉の横にある操作盤を操作した。門扉はその巨体さに似合わず、なめらかに、音を立てることなく開かれていく。
「タロット館はこの先です」
「え? 丘を登るんじゃないんですか?」
「この奥にあるエレベーターが、タロット館まで直通で繋がっているんです。エレベーター以外に、タロット館へ入る手段はありません」
言われて、そういえばと思い出す。頭の中で館の見取り図を開いた。
タロット館は特異な形をしている。まず、中央館があって、それは確か二階建てだった。この中央館には食堂やラウンジなど、どうやら共用で使うらしい部屋がある。
その中央館を囲むように、客間のある棟は建設されている。囲むようにというか、実際囲んでいる。城壁のごとくぐるりと隙間なく円形に。客間は二十二部屋あり、それぞれ『愚者』から『世界』まで、タロットの大アルカナの名前が割り振られている。さればこそ、この館はタロット館というのだろう。
中央館と城壁を繋ぐ通路は確かひとつだけ。中央館の一階北側に造られていた。
タロット館の傍には、離れのようなものが四つあったはずだ。なるほど、じゃあ、門扉の左右へ伸びる道は、離れへ通じているというわけか。
変な造りをしているものだ。中村青司が設計したみたいだ。
門扉の上を見る。さっきは木々に囲まれ僅かに覗かせていただけだったタロット館の姿が、ここからははっきりと分かる。石造りの城が、威圧感と荘厳さを持って僕を出迎えていた。
僕たちは門扉をくぐり、奥へ進む。扉は鉄製だったが、内部はタロット館の外観と同じ石造りのようである。ただし、床は滑らかなコンクリだ。
中に入ると、すうっと、体中を纏っていた熱気が取り払われた。エレベーターへと続く通路は窓がひとつも無く、したがって太陽光の入る余地が無い。左右の壁に取り付けられたランプだけが光源だ。
「奥にあるエレベーターが、唯一の出入り口というわけですか」
「この通路が塞がれたら出られなくなりますね」
「やめてくださいよ。けっこう気にしてるんですから、クローズド・サークル」
「ご安心ください。クルーザーは予備を含め三台ほど取り揃えております。また、島にはヘリコプターも準備してありますから」
「まあ、それならいいんですけど。ちなみに出入り口は本当にここだけなんですか?」
「中央館の窓から出て、客間を収容する城壁を乗り越えるルートをカウントしないなら、そうなります」
「可能ですか?」
「十分可能です。城壁の高さはタロット館の一階部分より、僅かに高いくらいですから。実際の防御機能を期待して造られたものではないので、中央館倉庫の梯子を使えば乗り越えられるでしょうし、クライミングに覚えのある人なら素手で登ることもできそうです」
「石造りでしたからね。登るときの手がかりには困らないと」
「はい。また、このタロット館は丘の上に立っていますが、別段、周囲を断崖絶壁に囲まれているわけではないので、山下りにも支障は無いかと」
「逆にそれって、外部からの侵入も可能ってことですよね? 船着場はひとつしかないんですか?」
「そうですね。猫目石さんが上陸したあそこだけです。あとは岩礁ばかりで……あの船着場を整備するのも一苦労だったと聞きます」
「ビーチがあるというのは……」
「ありますよ、ビーチ。ただ、やっぱり沖の方を岩礁に囲まれていて……これはやはり、猫目石さんがご自身で見た方が早いと思います」
「なるほど、ありがとうございます」
「いえ」
……なんで僕は架空島の基本データを呉さんに尋ねたんだっけ?
ひとしきり質問を終えて、浮かんだのはそんな疑問だった。
「『この館の建築家は中村青司か?』とは、お客様全員がおっしゃるんですが、架空島の密室性を最初に気にしたのは、猫目石さんで二人目ですよ」
こちらを向きながら、にこやかに、呉さんは言った。
「呉さんも凄いですよ。すらすら僕の質問に答えるんですから……」
「お嬢様の趣味ですから」
架空島のクローズド・サークル性を気にするお嬢様。僕と同じ趣味を持ち、『二十則の第一則』に言及する主催者。少しずつ、ロッタという人物が見えてきた。
エレベーターの元までたどり着く。装飾性を極力排した、業務用なんじゃないかと思わせるそれは、しかし石造りの館にはマッチしている。文明の利器が中世の城に合うというのもおかしな話だが。
傍にあったボタンを呉さんが押す。既に到着していたのか、待つことなく扉は開く。ずいぶん広いな。四畳半くらいあるかもしれない。
って四畳半って自宅にある僕の部屋と同じ大きさじゃないか! ちくしょう、金持ちは人ひとりが生活できるスペースをエレベーターに使うのか。
蛍光灯の青白い光に包まれながら、僕たちを載せたエレベーターは上昇する。
僕はふいに、ここまで来る途中に気付いたことを呉さんにぶつけてみようと思いついた。特に理由は無い。しいて言うなら暇つぶしのつもりで、操作パネルの前に立つ呉さんの背中に言葉を投げかけた。
「呉さん、間違っていたら聞き流してほしいんですが」
「はい」
「このタロット館を所有する朝山家の方々の中に、足の悪い人でもいるんですか? とりわけ、車椅子に乗っている人とか」
ぐるり、と。彼女は綺麗に回れ右して僕を見た。ふわりとスカートが翻って傘のように膨らむ。スカートの裾で僕の膝が切れそうになり、慌てて一歩下がった。
「どうしてそれを?」
タブーに触れてしまった、というのともまた違うらしい。彼女の目は好奇心で輝いている。
ぶっちゃけ僕は、五割の確率で当たりだなくらいにしか思っていなかったのに。
「えっと……。まず、道に不自然さを感じました。船着場がコンクリで固められているのは分かります。しかし、玄関口――船着場からあの鉄製の門扉に至る道、それからエレベーターへ続く通路は明らかに違和感があります。道の左右に林があるのなら、自然を感じるためにも地面を土にした方が『らしい』し、石造りの内観なら通路には石製のタイルを敷くのが『らしい』。その『らしさ』、雰囲気、デザインからは少々外れるような方法で舗装をされているのは何故か? おそらく歩きやすくするためでしょう。道路を舗装する理由なんて、歩きやすさ以外に考えられない」
「工事のために舗装したとは考えられないのですか?」
「だったら門扉からエレベーターまでの通路を舗装する理由はありませんよ。それに、工事車両は多少の砂利道くらいどうってことないです。舗装は無駄な手間でしょう」
「では、それがどうして『足の悪い人』、ましてや『車椅子』に繋がったんですか?」
呉さんはどこか楽しそうに、先を促した。
「歩きやすさを重視する理由を考えれば、答えはひとつでしょう。僕たちのような健常者は多少の悪路くらい気になりませんから。ただ、ここでひとつ問題なのが、本当に『足の悪い人』は舗装されていないと歩きづらいのか、ということでして」
「……よく分からないのですが、つまり?」
「たとえば杖をついて歩いている人がいたとして、その人は未舗装の、砂利なり石なりが落ちている道を歩行するのが果たして困難なのか? 石タイルが敷かれた通路を歩行するのが困難なのか? ……というわけです。実際、あまり困難ではないでしょう? よっぽど亀裂や段差でもない限り、砂利道石タイル程度では。別荘なんていう雰囲気第一主義の塊みたいな建築物で、雰囲気を壊してまで道路通路を舗装するには理由が少し弱い」
「ああ、なるほどそれで」
「ええ。車椅子ならどうか? 車椅子での移動に、砂利道石タイルでは差し障りがあるのか? 答えは大いにイエス。十分、舗装する理由になる」
まあ、当てずっぽうと言われればそれまでの推論だ。出発地点は舗装された通路の違和感という非常に曖昧なものだから、「わたしは違和感を覚えませんよ」と言われればそれで終わる。
この館を設計した人がどこまで気にするかに賭けた。
緩やかに、エレベーターは停止した。ざっと体感、五階層分くらい上ったようだ。
「お見事としか言いようがありません。お嬢様にお会いになる前にそのことを言い当てたのも、猫目石さんで二人目です」
「…………『のも』? クローズド・サークルを気にした人と」
「はい。同一でございます」
それ以前に……お嬢様にお会いになる『前に』というのは。
チン。
僕の疑問を慎ましいベルの音が止めた。
扉が左右に開かれる。
呉さんはこちらを向いて、たおやかに一礼した。両手を前に踵は揃えて、深すぎず浅すぎない絶妙の角度。
「それでは改めまして。猫目石様――いえ、猫目石瓦礫さん、ようこそタロット館へ。二泊三日の『探偵小説サロン』、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
矩形の扉が開かれたとき、僕はそこに別世界を見た。
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