3.デパートの迷子

 その夜、私は約束した店であるイタリアンレストランにいた。イタリアンレストランと言ってもさほど高級なところではなく、大学生くらいの若者もよく訪れる店だ。店内は薄暗く、天井のファンの影がテーブルにちらついた。

 向かいに座る、犯罪学に恋する男(かどうかは知らないけど)紫木は事件について一通り聞くと、軽くうなってからオレンジジュースを一口飲んだ。彼の大きな黒目が照明に照らされてキラキラと不気味な輝きを放っている。海を泳ぐ蛸の眼球そっくりだ。

「つまり神園さんは証言の信頼性を疑っていると」

 紫木が口を開き、ついでとばかりにシーフードボンゴレロッソ(何かの呪文みたいだがパスタの名前だ)の中にある蛸をフォークで刺して口の中に放り込んだ。私はそれを見て、共食いというキーワードが頭に浮かんだ。しまった、恋をするなら犯罪学じゃなくて海産物だったか。

「そりゃ、ナイフにコートとこれだけ物証があったら証言の方を疑わざるを得ないでしょ。でも目撃者が嘘ついているとも思えないのよ。あの自信満々な口ぶりじゃあ」

 私はそういうとワインをあおった。銘柄のよくわからない赤ワインだが、安い割に味がしっかりしていておいしい。

「神園さん」

「うん?」

 紫木が真剣な口調で名前を呼んできた。初めて会ったときは「刑事さん」呼びだったのだが、初めての事件のあとも人間関係を続けていくにあたって役職で呼称するのは妙だと思ったのだろう紫木が自発的に呼び方を変えてきていた。

 正直な話、自分の苗字は嫌いなのだけど、かと言って「下の名前で呼んで」というほど親しいわけでもまだないのでここは我慢するしかなかった。

「神園さんは目撃者が自信満々に証言した場合と、恐る恐る証言した場合のどちらが信用できると思いますか?」

 紫木は生気のない眼で私をしっかりと見据え、尋ねてきた。いつもは人見知りを全開にして視線も合わせてこない男だが、犯罪の話となると人が変わる。

「そりゃ……素直に考えれば自信満々な方を信用したいけど」

「そうですよね。僕もそう思います」

 彼はあっさりと私の答えを肯定してから、「でも……」と続ける。

「実際には目撃証言の正確さと目撃者本人の自身にはあまり相関がないと言われています」

「へぇ……それってどうして」

 百人中九十九人が「自信満々な方」と答えたくなるような質問をされたのだから、それはひっかけで実は自信のない方が信用できますという答えすら予想していた私にとってはあまり意外な答えではなかったけど、でも腑に落ちない答えでもあった。

「いかにも自信満々な人の方がしっかり覚えていそうだと思うけど」

「その自信満々というのはこの場合厄介なのです。自信があるからと言って正しいとは限りませんよね? 先月の事件での警部さんしかり」

 彼はそう言うと、昔を懐かしむように天井を仰いだ。確かに先月の事件では、警部が自信満々に逮捕した人間は真犯人ではなかった。わざわざ警部の失態を例に出すまでもなく、自信満々に勘違いをして恥をかくという事例は枚挙にいとまがない。

「自信満々でも見間違いとか、記憶違いってことが起こるわけね」

「はい。しかもそれだけではありません。ところで神園さん」

「なに?」

「神園さんは子供の頃、始めて行ったデパートで迷子になった経験がおありですよね」

「……?」

 やけにはっきりと、それこそ自信満々に紫木は言い切ってから再びオレンジジュースを口に含んだ。急転直下、会話のキャッチボールが苦手なのはどの話題でも変わらない紫木の弱点だ。

しかし、なぜ彼が私の子供時代なんて彼自身が生まれてもいないときのことを知っているふうに話すのだろう。というか、初対面からいろいろあったとはいえ子供時代の話をするほど親しくはなっていないはずだし、そもそも私にはデパートで迷子になった経験なんてあっただろうか?

「いや、ないと思うけど」

 なので私は、紫木にすっぱりとそう答えた。けれど紫木は「えー?」と言いながらわざとらしく首を傾げた。

「赤井川さんからそう聞いたのですけど」

「晶から?」

 予想しなかった名前が出てきたので私は面食らった。紫木と晶はかつて1度しか顔を合わせたことがないはずだけど、いつの間にそんな話をしたのだろう。

「いやいやいや」

 と私は言ってから、考え込んだ。晶にだってデパートで迷子になった経験を話したことがないはずだ。そもそもしていない経験を話すって一体全体どういう状況だ。それとも私がすっかり忘れているだけで本当は迷子になったことがあって、何かの拍子に晶に話したことがあったのだろうか。

 私が昔のことを必死に思い出そうとしていると、紫木の小さな笑い声が耳に入ってきた。顔を持ち上げてみると、紫木が悪戯の成功した子供のような顔をして笑いをこらえていた。表情変化の乏しい彼にそんな顔が出来たのかと驚きもしたが、今は戸惑いの方が勝った。

「え? なに?」

「……すいません。ここまで神園さんが引っかかるとは思わず」

 紫木はそういうと、笑みを引っ込めていつもの仏頂面に戻った。けれど口元にはまだかすかに笑いが残っている。

「認知心理学者にエリザベス・ロフタフという人がいます。これは彼女が行った実験の一部でした」

「実験?」

 いきなり出てきた固有名詞と実験という物々しいキーワードにまたも面食らってしまう。この話の着陸地点が全く見えてこない。

「ええ。彼女は記憶の脆弱性を明らかにするために実験で偽の記憶を植え付けることにしたのです。その偽の記憶がデパートでの迷子だったのです」

「えーと、じゃあ私は実は迷子になんてなっていなかったと……」

「はい、赤井川さんに聞いたというのも口から出まかせでした。でも神園さんは赤井川さんが知っているはずだと僕が言ったとき、もしかしたら自分の方が記憶違いしていると思いませんでしたか?」

「うん、まあ」

 私は素直に首肯した。紫木が知っているというだけだったら間違いない彼の方が記憶違いをしていると思っただろう。しかしそこに十年来の友人である晶が登場したことで、自分の方が間違っているのではないかという疑念が首をもたげたのだ。

「ロフタフも同様の手順でもって、実験参加者に偽の記憶を植え付けました。この場合は家族が知っていると嘘を吐いたのですけどね」

「家族が知っているはずだと言われた人は、迷子になった経験があったと勘違いした……」

「勘違いというか、思い出したというのが正確でしょうね。参加者の中にはデパートで迷子になったときの状況を事細かに『思い出した』人もいました」

 そこで紫木は一息ついて、パスタを口に運んだ。

 それにしても気味の悪い研究だ。迷子の経験というちっぽけなものとはいえ、あるはずのない記憶を『思い出させて』しまうとは。人間は自分の記憶に自信を持つことを許されないのだろうか。

「話は脱線しましたが、要するに記憶がいかに脆弱で書き換わりやすいものかということをこの実験は示しているのです」

 私のもやもやした気持ちを悟ったのか、紫木はいつもより軽めの口調で言った。

「……ということは、先生も目撃証言が間違っていると思っているわけ?」

「ええ、ただ……」

 紫木はそこでほんの少しだけ、困ったように眉間にしわを寄せる。

「今回の場合は、あるはずの死体を見ていないのですよね。そんな特異的なものを見落とすでしょうか」


「見ているはずのものを見落とす。あるいは見た日時を間違えるという事例は数多く存在します」

 紫木は腕組みをして話し始める。フォークは完全に手から離れてしまっている。

「例えば甲山事件というものが過去にありました。これは甲山幼稚園という場所の貯水タンクから幼児の遺体が見つかった事件です。このとき容疑者になった保育士が疑われた理由は、事件の直前に被害者である幼児と一緒に歩いているところを目撃されたからでした。しかし元来、保育士というのはよく子供と一緒にいるものです。事件当日に被害者と一緒にいたという目撃証言が間違っていて、実はそのシーンは事件当日に見たものではなかったという可能性がありました。このような日時の取り違えは珍しくもありません。結局、この容疑者は無罪になったはずですが」

「じゃあ、目撃者は事件現場の道を通った日時を間違えていたと」

「流石に日付は間違えていないでしょうが、時間を間違えていたというのはあり得そうですよね。目撃者が乗ってきたと思っている電車が、実は1本早かったというのであれば辻褄は合いますし」

「その辺は……川島が調べてるかな」

 私はそう言いながら時計を見た。この店の時計は雰囲気重視なのか数字板がローマ数字で読みづらい振り子時計だ。もう既に二十一時を過ぎている。明日にでも聞いておこう。

「あるいは、本当に周りが真っ暗だから見落としたという可能性はないでしょうか」

「見落とした? 死体を?」

 紫木にそう言われて、私は事件現場を思い出す。確かに薄暗い閑散とした住宅街だったが、いくらなんでも死体を見落とすほど暗くはないだろうと思う。けれど、目撃者があの道を通ったという時間の様子を知っているわけではない。

「人間の注意力もかなり脆弱ですからね。見ようと思っていないことは、視界に入っていても意識されないことがよくあります。例えば……」

 紫木はそういうと、自分のネクタイを指さした。

「いま僕は薄い紫色のネクタイをしていますが、じゃあ神園さんと初めて会ったときは何色だったでしょうか?」

「えぇ……そんなの覚えてない……っていうか、それはネクタイの話でしょう? こっちは死体よ」

「ネクタイでも死体でも原理は一緒ですよ。むしろ死体の方が、まさかそんなところにあるとは思わない分見逃されやすいのかも」

 私の反論に動じることなく、紫木は言い返す。そして思い出したようにパスタの残りに手を付けだした。私もそれにならってパスタをフォークで巻き始める。確か川島は、第1発見者が小学生と言っていた。小学生が登校する時間まで死体が発見されなかったのは、住宅街の路地に死体があると誰も思っていなかったからなのだと説明されると、それはそれで納得できるような気もした。


「何はともあれ」

 紫木はさらに残った最後の蛸を食べてしまってから、口を開く。

「百聞は一見に如かずですね。現場を見てみましょうか」

 いつの間にか、またも紫木優が捜査に協力するかたちになっていた。

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