2.余計な一手

「やってくれたな」

 聞き込みが終わり、川島と一緒に署に戻って警部に報告したら開口一番にこれである。警部は目撃者の男が最初に家から現れたときよりもさらに不機嫌そうな顔で報告を聞いていた。

「まあ確かに面倒な方に転びましたけど、いいんじゃないですか? 少なくとも光浦は容疑者から外れるということで」

「そういうことを言ってるんじゃない!」

 私の反応に警部が激昂した。突然の大声に川島が軽く飛び上がり、周囲の注目がこちらに向けられる。私はもう慣れているので無反応だった。周りも警部と私がやり合うのに慣れているのか、すぐに興味を失ったようで三々五々に散らばっていった。

「じゃあどういうことなんですか?」

 私のさらなる発言に川島が露骨に嫌そうな顔をした。巻き込まれた彼にしてみればこれ以上警部に油を注いでほしくないのだろう。警部は私の言葉に、どうやったらできるのか不思議なほど顔をゆがめて「こういうことだよ」と言いながら1枚の写真を放り投げてきた。

 その写真には黒いコートが写っていた。もこもこした毛のようなものがあるフードがついていて、いかにもやんちゃそうな若い男が着るようなデザインだ。そのコートの前面にはべったりと赤黒いものが付着していた。言われなくとも血液だとわかる。

「これがついさっき、容疑者宅の近くのゴミ捨て場から見つかった。光浦のもので血液が被害者のものともわかっている」

「……で、光浦はなんと?」

「あの野郎、コートはバーに忘れてそれっきりだったとぬかしやがった! 他の奴が罪を擦り付けるために使ったと」

「なるほど」

「なにがなるほどだ!」

 捜査第一課のオフィスに再び警部の怒声が響いた。周囲の人間が今度は迷惑そうな顔をこちらに向けてくる。

「いえ、ありえなくはないなと」

「あり得ないだろう! こんな寒い日にコートを忘れる馬鹿がどこにいる!」

 証言によれば容疑者はバーで酒を飲んでいて、ならば酔っぱらってコートを忘れるということもあり得なくはない。不自然と言われればその通りだが、無糖滑稽な話というほどでもないだろう。

 私も昔、酔っぱらってコートを忘れたことあるし。

 しかしそれを言っても、警部がまた怒るだけだろうからやめておいた。私一人ならば間違いなく言っているが、川島をこれ以上巻き込むのは可哀そうだ。

「つまり、物証は光浦が容疑者であると指しているのに目撃証言がそれを否定していると」

 私はため息交じりに事態をまとめた。警部としては私が余計なことをしたという結論に落ち着きつつあるのだろう。

「そうだ。おい川島。お前もう一度その目撃者のところへ行って確認してこい。どうせ時間か何かを間違えてるんだろう」

「はーい……」

 警部にそう言われると、川島が嫌そうに返事をして踵を返した。目撃者の自信たっぷりな話し方からして、記憶違いはなさそうだということを知っているために骨折り損を予想しているのだろう。

 私も川島に続いて行こうとすると、「神園はちょっと待て」と警部から声をかけられた。私が返事をせずに振り返ると、警部はわざとらしく腕組みをしながら「お前は行くな」と言った。

「どういうことですか?」

「お前が動くとまた余計な情報を引き出しかねん。お前は書類でも整理してろ。それかお茶でも入れてこい」

 警部はそういうと、空になった湯呑をこちらに渡そうとしてきた。私はそれをかわすと聞こえないように舌打ちしてオフィスから退散した。書類仕事はともかく、お茶出しをする気はさらさらない。


 私はオフィスから出るとそのまま喫煙室まで向かって、そこで煙草に火をつけた。一息つくと、煙を目で追いながら今回の事件について少し考えを整理する。

 確かに変な事件ではある。物証も目撃証言も全て正しいとするならば、目撃者は現場にあったはずの死体を無視してあの狭い路地を抜け家へ帰ったことになる。それはあり得ない。あのあと目撃者にも詳しく尋ねたが、「死体があれば通報するに決まっているでしょう」というもっともな理由で一蹴されてしまった。

 こうなるとあり得る可能性は三つだ。一つは物証が間違っているというパターン。つまり光浦の言う通りコートはバーに忘れられ、それを着たほかの人間によって被害者が二十四時以降に殺害されていたという場合。これなら、目撃証言は自然なものになる。ただ、そこまで光浦の都合のいいような事態が起こり得るだろうか。

 二つ目は目撃証言が間違っていたというパターン。これが一番可能性がありそうだ。目撃者は飲み会の帰りと言っていたから、酒も入っていただろう。それに見た目は結構高齢だ。記憶能力に難がある可能性もある。飲酒による酔いと高齢からくる記憶力の減衰、それに足すこと夜の闇。目撃証言を疑う理由となる要素は揃っている。ただ、あれほどはっきりと自信を持ってなされた証言が間違っているかもしれないと考えにくいのも事実だ。しかも狭い路地に放置された死体のことだ。見落とすなんてありないだろう。

 最後は何らかの理由で目撃者が発見した死体を通報しなかったパターンだ。光浦と共犯、あるいは目撃者こそ真犯人だったのであれば……。

 私はそこまで考えて頭を振った。流石にその可能性はあり得ないだろう。ならば残る可能性は実質二つだ。目撃証言の方は川島が洗っているからそれを待つとして、私がやるべきなのは物証の確認である。

 ちょうど煙草が燃え尽きつつあったので、私は吸い殻を灰皿に捨てると喫煙室から出た。次なる目的地は鑑識課だ。親友もいることだし、物証ならあそこで見るのが早い。


 鑑識課を覗くと、見慣れた小さな背中がデスクのパソコンに向かっていた。パソコンのディスプレイは何かの映像を映し出していた。遠くからでははっきり見えないが、どこかの防犯カメラの映像だろうか。

 「晶?」と私が声をかけると、小さな背中は椅子でくるりと回転して正面を向いた。親友の赤井川晶は私に気がつくと軽く手を振ってきた。

「ああ薫、どうしたの?」

「一昨日の殺人の物証、なんかこっちに来てる?」

 私がそう尋ねると、晶の小動物のような大きな瞳が何かを思い出すように左へ動いた。

「一昨日っていうかこっちに来たのは昨日だけど……防犯カメラの映像を解析してほしいって仕事があったわ。多分バーの中の映像だと思うんだけど」

「そう、たぶんそれだよ。バーにカメラがあったのか」

「なに、なんにも聞いてないの?」

「まあ、元々は私の担当の事件じゃないのよ」

 晶は「そう」とつぶやきながら、パソコンに向き直った。近づいてみてみると、ディスプレイの映像は確かにどこかのバーの店内のような場所を移している。ただ画質が悪く、ピンボケしたような映像になってしまっている。

「これを綺麗にしてほしいってね。で、この人が容疑者なのよね?」

 晶が小さな指でディスプレイをつついた。映像はどうやら店の出入り口を映しているらしく、ぼんやりとした黒い人影が店から出ていこうとしているように見えた。

「うん。黒いってことはやっぱりコートは着て出ていったのかな……」

「コート?」

 不思議そうな顔をしている晶に、私は今回の事件の状況を説明した。その説明をすると、晶は映像を巻き戻したり進めたりしながら画面を凝視した。

「うーん……この映像を見る限り容疑者がコートを着て退店したことは間違いなさそうね。下に来ていた服が白っぽいから、間違いないと思うわ」

 晶がそのシーンを再生する。確かに、白っぽい服の男が黒い上着を着ているように見える。ただ、やはり映像がぼやけていてその男が本当に光浦という容疑者なのか確信が持てなかった。

「ねぇ晶、これってもっと綺麗にならないの?」

「いま頑張ってるんだけど、これが限界かもしれないわ。元のカメラがかなり古いものみたいでねぇ……今の状態でもだいぶ良くなったのよ。元々の映像じゃあ人の形も判別するのが難しかったんだから」

 晶は困ったような顔をして頬に手を当てた。晶の専門は防犯カメラなどの映像の解析といった機械系の仕事だ。彼女が無理というのであればその通りなのだろう。

「そっか……じゃあ裏取りするしかなさそうね」

「そういうことね……ところで薫」

 晶が急にこちらに向き直り、真剣そうな口調で話しかけてくる。私はドキッとして彼女の方を向いた。

「な、なんだよ急に」

「また警部さんと喧嘩したの? ダメじゃないもっとうまいことやらなくちゃ」

「ああなにそのこと。急に真剣な顔するからびっくりしたじゃない」

「なんだじゃないわよ」

 晶は呆れた顔になって続けた。相変わらずの耳の早さだ。だけど、晶にとっては重大なことなのかもしれないが私にとってはどうでもいいことだ。

「いいじゃん、向こうが変に突っかかってくるだけなんだからさ。どうしようもないって。うん」

「今はいいかもしれないけど、ずっとこの調子が困るでしょう? 先月も危うくクビだったし」

「そ、それはまた違う話でしょ」

 晶に痛いところを突かれ、私は慌てて反論した。私は停職明けだった先月、ある事件の失態の責のために交番勤務に左遷されるところだったのだ。その失態はそれ自体では左遷されるほどのものではなかったのかもしれないが、日頃の行いや警部との険悪な仲が事態を大きくしてしまっていた。今ではその問題も解決したが、今後も同じようなことが続くと面倒なのは確かだ。

「しょうがないじゃない。あの警部なんとなくむかつくんだもん」

「不良中学生みたいな言い訳しないの。それをうまいことやるのが大人でしょう?」

「大人って何だろうな」

「今度は思春期の高校生みたいなこと言わない」

「えー」

 私が晶と他愛もない会話をしていると、私の携帯電話が震えた。ジーパンのポケットから取り出して時代遅れのガラケーを開くと、新しいメールが届いていた。送り主の名前は紫木優だ。本文には「今日の約束、少し遅れます。すいません」とだけ簡素に書いてあった。

「えーなになに。デートの約束?」

「うわ! びっくりした」

 気がつくといつの間にか晶が私の携帯を覗き込んでいた。背の低い彼女が頭2つ分も背の高い私の持つ携帯を覗くことはいつもなら不可能なのだが、今の彼女はさっきまで座っていた椅子に立ち上がっていた。私の肩に掴まって、不安定なキャスター付の椅子の上でふらふらとしている。そこまでして見たいのか。

「デートじゃないよ。ご飯食べる約束してたの」

「それって巷じゃデートって言うんじゃないの?」

 私は晶が椅子から転ばないように支えながら反論した。

紫木優は先月、私が停職となったきっかけである事件の解決に協力してくれた犯罪心理学者だ。事件のあと、犯罪心理学の知識がいかに捜査に役立つかを実感した私は彼に頼んで、犯罪心理学を教えてもらうことにしたのだ。もっとも、お互いの予定がなかなか合わずこれが事件以降初めての約束となっていた。その辺の事情は話したこともあるし、晶も知っているはずだ。

「デートじゃないって話は何度もしたでしょ」

「いやぁ、ようやく薫にも彼氏ができたかぁ。出会って10年経つけど、初めてのことじゃない? おばさん安心したわぁ」

「やかましい」

 私の反論を一切無視してしゃべり続ける晶を抱き上げて椅子から下した。彼女の体重は身長が低いにしてもあまりにも軽いので携帯を持っていない方の腕1本で十分だ。椅子から降ろされた彼女は「ぶーぶー」とわかりやすいんだかわかりにくいんだかよくわからない不平の声を上げた。

「ああでも、先生の方はどうなのかな?」

「何が?」

「彼女のこと。先生って彼女いたことあるのかな?」

「私に聞かないでよ……」

 晶はこの話題をもっと掘り返す気らしく、私に水を向けてきた。

「そういう恋愛系の話でさ、晶にわからないことが私にわかるわけないでしょ。興味もないし」

「えー気にならない?」

「気にならないよ。というかなんであの仏頂面の恋愛遍歴が気になるの?」

「逆よ、逆。あの仏頂面だからこそ余計に気になるんじゃない。ほら、捜査でもいかにも怪しい外見の人じゃなくて、普通そうな人が気になったりするでしょう?」

「一緒にするなよ」

 私は苦笑して、晶の質問に答えた。確かに捜査では、あまりにも外見や印象に引っ張られれば足元をすくわれることがある。けれど、恋愛談義ではまた別の話だろう。いかにもなプレイボーイよりも、紫木のような地味な人間が恋人をとっかえひっかえしていたら、それはそれで意外性があって面白いのかもしれないが。

「でも先生は彼女とかいたことないと思うぞ。犯罪学が恋人とか平然と言いそうだもん」

「あー、それは言いそう」

 私と晶は、生真面目な犯罪学者へのそんな失礼な印象に納得しながら笑い合った。

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