4.お父さんのこと

 京都府警で受付をしている婦警が私を訪ねてきたのはその翌日の夕方のことだった。紫木と昨晩、事件現場に行こうと約束したので夕方までに仕事をあらかた片づけてしまい、さあこれからどうしようかと考えているときだった。

 その婦警が言うには、女子高生が私のことを探しているということだった。その女子高生は私の名前を出すことはなかったが、「背が高くて髪が長くて、ジーパンの女の人」だと言っていたので私のことだろうと思い至ったのだ。

 無論そんな特徴を兼ね備えた人物は京都府警には私一人しかいない(複数人もいてたまるかと警部なら言うところだ)ので、私は署の一階まで降りていくことにした。はたして一階の受付には、見慣れない、やけにファッショナブルな紺のブレザー姿の女子高生がぽつんと座っていた。警察署の受付という、女子高生にはおおよそ無縁な空間にあって居心地が悪そうに、ベンチに浅く腰かけている。その女子高生の顔には、見覚えがあった。

「あれ、君は昨日の」

 女子高生は、昨日目撃証言を聞いた家で出会った少女だった。私が声をかけると、彼女は立ち上がってお辞儀をしてきた。二つに縛った髪が前に垂れる。

「昨日は、その、どうも」

 女子高生はしどろもどろになりながら口を開いた。身長に頭一つ分以上差があるせいか、単に視線を合わせにくい性格のせいか彼女は私の胸元を見つめていた。

「矢野英子って言います」

 女子高生、矢野英子は唐突に自己紹介をしてきた。そういえばあのあと証人の名前は尋ねていて矢野英明であると知っていたが、事件と何ら関係のない彼女の名前は当然知らなかった。

「英子ちゃんか。まあ座って。で、何の用?」

 私は彼女を再びベンチに座らせて、自分も隣に腰かけた。受付は暖房が効いていたが、安い合皮で出来たベンチのクッションは冷たく感じた。私は軽く明るい口調になるように意識して彼女に尋ねる。交番勤務時代にこれくらいの年の子たちとも散々話したからわかるが、彼女のようなタイプは見知らぬ大人と話すという事実そのものにまず臆してしまい、言いたいことを言えなくなってしまう。悩みなり情報なりを引き出して対処しなければならない立場である私にとって、それは避けたい事態だった。だけど一方で、彼女のような子は一度信用を勝ち取りさえすればあとは楽だ。下手にひねくれた子供よりなんでも話してくれる。

「えっと……刑事さん……」

「ああ、そういえば自己紹介してなかったっけ? 神園薫よ。薫でいいわ」

「そうですか……えっと、薫さん。その、お忙しいところご迷惑かもしれないと思ったんですけど……」

「いやいや、全然暇だったよ。むしろ英子ちゃんが来てくれてちょうど良かったくらい……英子ちゃんは、学校終わりなのかな?」

 とりあえず、英子ちゃんの懸念や遠慮を取り除くために、本題から外れてわかりやすい世間話から私は始めることにした。

「はい……終わったその足で来ました」

「へぇ。どこの高校?あんまり見ない制服だけど」

「えっと、神園学園っていう……」

「え?」

「……あれ?」

 神園学園。その名前を聞いた瞬間、驚きのあまり私の喉奥から潰れたヒキガエルのような声が出た。英子ちゃんの方も、私の反応と学校の名前を照らし合わせて、何かに気がついたようだった。

「あの……もしかして神園って……」

「ああ、えっと。うん……うちの親父が理事長やってる学校だけど」

「えぇ! 本当ですか! こんなところで!」

 学校法人神園学園グループ。私の父親が経営する大小十六にも及ぶ学校の数々。だから何だという話ではあるけれど、心の準備が出来ていないときに直面するとやっぱり驚くというか、狼狽えてしまう。父親は嫌いだし、学校も嫌いだ。

 落ち着きを失う私と打って変わって、英子ちゃんは目の前の人物が自分の通う学校の関係者だと知ると急に親近感が湧いてきたようで態度が少し柔らかくなってきた。これ以上学校の話(特に父親との関係)を掘り下げられるとたまったものではないので、私は会話の流れを本題の方へ急旋回させる。これでは紫木を笑えない。

「えーっと! で、今日はどういう用事で来たのかな? うん?」

「えっと、昨日お父さんが刑事さんたちに言ったことなんですけど」

 初舞台のピエロのような不自然に明るい声で私が尋ねると、英子ちゃんがおずおずと切り出した。

「うん、目撃証言だよね」

「はい、その目撃証言なんですけど」

 英子ちゃんはそういうと、一拍おいてから意を決したように言った。


「お父さんの目撃証言を信用しないでほしいんです」


「……うん?」

「えっと……」

 英子ちゃんの妙なお願いに反応できなかった私と、あいまいな返事に戸惑った英子ちゃんとの間に沈黙が流れた。英子ちゃんは申し訳なさそうに身を縮めた。

「やっぱりご迷惑でしたよね……。いきなりやってきて捜査のことに口を挟んで」

「いや迷惑って訳じゃなくて、予想してない話だったからさ……お父さんの証言を信用しないでほしいの?」

 どんどんと小さくなっていく彼女に、私は慌てて確認をとる。幸い、彼女の妙なお願いが気になったことでさっきまでの狼狽は忘れることができた。昨日紫木と証言の信頼性について話したせいもあって、ここは是非英子ちゃんの真意を明らかにしたい。

「はい。お父さんの証言を信用しないでほしいんです」

 英子ちゃんは私の問いかけにもう一度同じセリフを繰り返した。まるでそこだけは事前に練習して来たかのようだ。

「どうしてそう思うの?」

 私はあくまで彼女に威圧を与えないように、慎重に端的に尋ねた。

「その、お父さん最近なんか変だから……」

「変?」

「はい、変なんです」

 英子ちゃんはそういうと、軽くため息をついた。今まで思っていたけど言い出せなかったことを、ようやく話せたといった安心感を漂わせている。

「変って、具体的にどんなふうに変なの?」

「私にもうまく説明できるかわからないですけど……その、お父さん1年位前に事故に遭って……交通事故で車にひかれて大けがしたんですけど、幸い後遺症もなく怪我は治って」

「そう……」

 交通事故。はた目にはそんな大事件を乗り越えた後には見えなかったが、わざわざ後遺症に言及するあたり怪我は相当酷かったのだろう。私は意識しないうちに、右手で自分の左ひじのあたりをさすっていたことに気がついた。私も今年の六月、あらゆるきっかけになる事件の捜査中に交通事故で左ひじを怪我している。

「でも、後遺症はなかったんですけど、事故のあとからお父さんの調子がなんだかおかしくって」

「おかしい?」

 私が聞き返すと、英子ちゃんは無言でうなずいた。

「おかしいって、具体的にはどういう風に?」

「えっと、例えば急に食欲がなくなったみたいで……今までは普通に、出されたものは残さず食べてたんですけど、事故のあとは急に食べる量が減ってしまって。おかずも半分しか食べないし。大好きだったおひたしとかにも全然手をつけなくて。まるで見えていないみたいに」

「食欲か……他には何かある?」

「あとは……よく怪我するようになりました。怪我って言っても、何かにぶつかったとか擦りむいたみたいな小さな、それこそ絆創膏もいらない位の怪我が多いんですけど、でも頻度が……」

「結構頻繁なんだ」

「はい、しかもお父さん怪我したことに気づいてないときもあって。左腕をすりむいていたのに」

 事故後から見られる食欲不振。プラス怪我の頻発。それが一体何を意味するのか私にはよくわからないというのが正直なところだった。というか、それが彼の証言を信用しない理由になるのだろうか。

「英子ちゃん、君がお父さんの証言を信用するなっていうのは、そういう変調が原因なんだ」

「……はい。やっぱり理由としては弱い……ですか」

「うーん」

 私はそこで大げさに考えるポーズを英子ちゃんに見せた。無論、証人の証言を疑う理由としては弱い。いや弱いどころの問題ではなく、無関係と言ってもいいくらいだ。食欲がないからと言って記憶力に差しさわりがあるとは到底思えない。けれどそのことをストレートに英子ちゃんへ伝えてしまうのは、わざわざ勇気を振り絞って私に会いに来てくれた彼女に悪い気がしたし、弱い根拠でもなお実の父親を疑ってしまうということは、そこに彼女でもうまく言葉に出来ない理由が隠れている可能性を捨てきれなかった。

 私の刑事の勘が、もう少し掘り下げろと囁いている。こんなことを言うと紫木には笑われるかもしれないが、勘は当てにしておくべきだというのが神園薫三十八年間の人生がもたらした教訓だった。

「英子ちゃん、お父さんはさ、事故のあと記憶力に何か変わったことはなかった?」

「記憶力……ですか」

 私は証言の信用性を毀損する最大の要因を確かめてみることにした。わざわざ回りくどい傍証を積み重ねていかなくても、この人は記憶力が怪しいので信用できませんと言えるのであればそれで済む。

「……いいえ、思い当たるものはありません……」

「そう……」

 しかし英子ちゃんは、床を見つめながら熟考した末に否定した。それもそうか。思い当たるエピソードがあればいの一番に言っているはずだ。

「……すいません。お忙しいのに、変な話しして」

「ううん、気にしないで」

 英子ちゃんが軽くうなだれながら謝罪の言葉を発したので、私は慌ててフォローした。どうせ暇だったのにそんなことを言われてしまうと、こちらの方がむしろ罪悪感を覚えてしまう。

「それよりもさ、英子ちゃんはなんでわざわざこのことを私に言いに来たの?」

「わざわざ?」

「うん。だっていくらお父さんの証言が信用できないって思っても、それを言いに警察署まで来るのって大変でしょ? 誰にどう言っていいのかもわからなかっただろうし。そういう面倒をおしてまで来たのはなんでかなって」

 私が話を切り替えると、彼女はうなだれるのを止めて前を向いた。そしてそのまま、実に真剣そうな表情で話した。

「昨日、刑事さんたちが帰ったあとに男の人の方がもう一度来たんです。それで、その男の刑事さんとお父さんの話を聞いていて……」

「……あっ」

「え?」

「いや、こっちの話。続けて」

 英子ちゃんの口から川島のことが出てきたために、今日中に川島に会って目撃証言の裏取りの結果を聞かなければいけなかったことを今ようやく思い出した。目撃者の家族に会っているにもかかわらずその用事をこのタイミングまで思い出せなかったというのは、我ながら堂に入っている。人の証言の信頼性を云々できる立場じゃなさそうだ。

「お父さんの証言と警察の人の推理が食い違ってるのかもって思って、だからお父さんの勘違いのせいで捜査が進まなかったら悪いから……本当は男の方の刑事さんに言えたらよかったんですけど、名前がわからないのと特徴がないので探せなかったので」

 英子ちゃんは怪訝そうな顔をしながら話を続ける。彼女の話を聞く限り、川島はなんら特徴のない刑事として彼女に記憶されたようだった。特徴がジーパンを履いて歩いているような人物である私が隣にいたせいもあるだろうが、川島が個性的な人物ではないことは事実だ。

 がんばれ川島刑事。私も下の名前知らないけど。

「ちなみになんだけど、お父さんは自分の記憶には自信満々なの?」

「……はい。証言も間違いないって」

 英子ちゃんは私の質問に首肯する。ということは昨日行われた川島の再来訪は不首尾に終わったらしい。証言を撤回させるどころか、より強固に主張させる結果になったかもしれない。紫木はないはずの記憶をあると言われると実際に「思い出して」しまうと言っていたけど、自分の「思い出して」しまった記憶を否定されたために、意固地になってその記憶が事実だと思い込んでしまうというルートもあり得るだろう。

 こうなってしまうと話は厄介だ。この場合余計なことをしたのは私や川島ではなく警部ということになるし、そうなれば警部も人のことを偉そうに言えなくなるけれど、捜査が難航していることをさしおいてそのことを喜べるほど私の性格は捻じ曲がっていない。

「……ごめんなさい。いろいろとご迷惑を」

「気にしないでいいよ。むしろ偉いわ」

「偉い?」

「うん。偉い偉い」

 再び俯きかけた英子ちゃんを励ますように私はそういうと、彼女の頭を撫でた。英子ちゃんは最初戸惑ったような表情になったが、しばらく撫でてあげていると可愛らしく照れくさそうに笑った。

 自分の家族の証言が捜査を複雑にしているかもしれない、などという理由でわざわざ警察署にまで足を運ぶ彼女は間違いなく偉いし、律儀な子だ。任意同行を拒む人間や、逮捕状を突き付けられてもなお悪あがきをする人間を私は沢山見ているから、必要もないのに署まで自発的に来てくれる彼女の素直さには心が洗われる。英子ちゃんはきっと、道端で百円玉を拾ったら交番に届ける少女なのだろう。それはそれで手続きが面倒だから迷惑だけど、でもそういう善良な市民の姿を見るときが仕事のやりがいを感じるときでもあるのだ。

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