10. 地上の星

 星形飯店には男性の従業員が六名いる。閉店までは働かないアルバイトの大学生を除けば四名になり、彼らともう二人の女性従業員で厨房を回している。この四人のなかで一人だけ、京都駅周辺への移転と同時に雇われた者がいる。容疑者は残り三人。

 紫木の言う通りならば犯人は勤務後に被害者を襲い電車で帰ったことになる。今までの被害者の死亡推定時刻もその推理を裏付けていた。つまり、今まで事件のあった日全てで勤務していた人間が犯人であるということだ。半年前ならいざ知らず五年も前のシフトがわかるものか不安だったが、幸運にも結城望実が殺害された日を調べるだけで十分だった。その日の出勤していたのはその三人のうちただ一人だったのだ。


 こうして容疑者は一人に絞られた。


 ここまでのことは、店で私を案内してくれた若い女性の従業員と、彼女の紹介で通じた厨房担当の女性に聞いて分かったことだ。私が店の中に連続殺人犯がいるかもしれないと脅しをかけると、彼女たちは震えあがって積極的に協力してくれた。特に若い従業員は女子大生のバイトだったので、恐怖は人一倍だったのだろう。

 ここまでの裏取りには二日を要した。その間に捜査は混迷を極めていた。一連の事件と思われていた三つの殺人と一つの未遂のうち、一つだけが違う犯人によるものだったという込み入った状況はなかなか理解されず、新聞は北原の逮捕を誤認逮捕とこぞって書き立てた。まあ、三件の事件については誤認であることは間違いないので全くの誤報でもなかったが。

 北原の自供はその後も二転三転し裏取りもままならない状態だった。過去の事件に割く人員はなく、京都府警捜査第一課はしばらく北原の事件の捜査にかかりきりになった。つまり私にとってのチャンスだった。

 あとはどうやって容疑者を署まで引っ立てるかだ。逮捕状を請求できるほど証拠があるわけではない。第一、逮捕状をとるには警部に話を通さなければいけない。彼が協力してくれるとは到底思えなかった。

 なのでまずは容疑者に任意同行を頼み、断られたら転び公防の真似事をしようと決めた。わざと相手にぶつかって公務執行妨害だと吹っ掛けて現行犯逮捕するあれだ。卑怯で陰湿な公安警察の真似をするのも憚られたが、やはり手段を選べるような贅沢が出来る状況ではなかった。

 そして運命の日。私は星形飯店の目の前にやってきていた。時刻は店の閉まる二十二時をとっくに超えていたが、片づけをしているのだろう容疑者はなかなか外に出てこなかった。はやる気持ちを押さえつけ、路地の影に隠れて待つ。集中しすぎるのもよくないと自分自身に言い聞かせた。寒さが身に染みて自然と左ひじのあたりをさすっていた。

 四捨五入すれば二十三時になるといった時間になって、ようやく男が出口から現れた。いつか見たスーツ姿……ではない。セカンドバッグのようなものを持って、ラフな服装をしている。けれど、彼で間違いなかった。私は一度だけ深呼吸をしてから、お疲れ様でしたなどと言っている彼めがけて路地から飛び出した。

「西目正彦さん……ですね?」

 星形飯店の真ん前で私はその男に話しかけた。店の人間がまだいるところならば犯人も無茶はしないだろうという思惑だ。話しかけられた男は不審そうな目でこちらを見てきた。

「はい、そうですが……」

「警察です。市内で起きている連続殺人事件についてお話を伺いたいのですが」

 間。

「私ですか?」

「はい、西目正彦さんにです」

 私はもう一度強く、はっきりと言い切った。

 もうしばらく間があったあと、男は何の前触れもなく走り出した。私から逃げるように駅の方向へ真っ直ぐと。もう少ししらばっくれるだろうと考えていた私は一瞬遅れて足を動かした。

「待て!」

 そんなことを言って待つはずもなかったが、それでも口をついて出た。自分に大丈夫だ、足は大抵の奴よりも早いと言い聞かせながら男の背中を追いかけた。現に、距離は一歩ごとに縮まっていた。

 不意に男が進路を変えた。何を思ったのか、道路に飛び出して道の反対側に渡ったのだ。私もすぐに方向を変えようとして足が止まった。

 すぐそばまで車が来ていた。それは速度も遅く、今すぐ走り抜ければ問題ない程度の距離だったにもかかわらず、足が全く前に進まなかった。


 宙に浮く体。雨音。


 そうこうしている間にも男との距離は広がっていく。気づくと追いかけ始めたときよりも広がっていた。心が焦燥感で満ちる。まだ車は通り過ぎない。

 すると、男の行く先に別の男が立っているのが目に入った。酷い猫背で、杖を突いている。暗く遠いここからでもはっきりとわかる、大きく不気味な瞳と右足の義足。

「先生……なんで……」

 私の呟きは、当然彼には届かない。男は「どけ!」と言ったが、紫木は道の真ん中に突っ立って動こうとしなかった。歩道は狭く、彼一人を避けて通るのも難しい。

 男が走りながら鞄から素早く何かを取り出した。鞄は道に捨て去られた。銀色に光ったそれを私は直感的に包丁だと理解した。


 男はそのまま包丁を真っ直ぐ、紫木へ突き立てた。


「先生!」

 私自身の絶叫が、耳から遠く聞こえた。二人は組み合って動かない。紫木の胸元をよく見ると、包丁は突き刺さる寸前のところで杖に防がれていた。丸みを帯びた杖の芯で、奇跡的なバランスで包丁が食い止められていたが、どちらかが少しでも動けば包丁は滑って彼の胸に突き刺さるだろう。

 一生のうちで一番長い一瞬が過ぎ去った後ようやく車が目の前を通過した。私は車道を渡り切ると急いで彼らの元に走って向かう。大股で距離を詰めると男の腰のあたりに回し蹴りを放った。予期せぬ方向からの一撃に男の体は全く対処が出来ず、くの字型に折れ曲がって吹き飛び石の塀にたたきつけられた。

 衝撃で意識が飛んだのか男はピクリとも動かなかった。紫木の方を見ると彼は尻もちをつきあっけにとられた顔をしてこちらを見ていた。私はそんな彼の胸倉を右手でつかみあげると一気に持ち上げた。

「なにやってんだお前!」

 暗い通りに私の声が響いた。さっきまでの騒ぎを聞きつけたらしい人たちが、ちらほらと集まり出していた。

「何って……」

「怪我したらどうするつもりだったんだよ! 死んでたかもしれないんだぞ! 一体何考えてんだ!」

 紫木の発言を遮って私は怒鳴り続けた。彼が傷つかなかったことへの安堵と、私の気遣いを裏切られた気分や怒りが胸の中でごちゃ混ぜになって私にもよくわからなくなっていた。

「なにを考えてって……」

 紫木は母親に怒られた子供のようなばつの悪そうな顔をしていた。けれど、目はしっかりと私の方を向いていた。決してそらさずに。

「刑事さんが心配で、様子を見に来たのですよ」

「なんだとてめぇ……ううん、え?」

 捜査の様子が気になったとか、そういう回答を想像していた私にとってあまりにも意外な回答が返ってきたので、一瞬にして沸騰した怒りはそれを同じくらいの速度でしぼんでしまった。

「……心配?」

「だって刑事さん、初めて会った時からずっと言っていましたよね。一人で、一人でって。僕に頼っているにもかかわらず、です」

「そう……だっけ……?」

「ええ、そうでしたよ。心理学ではそうやって一人で抱え込む人は大抵やばいって相場が決まっているのですよ」

 心理学者じゃなくてもわかることでしょうけどと彼は付け加えて、私の腕をつかんだ。私は彼に掴みかかったままだったことを思い出して、慌ててその手を放した。

「僕だけじゃなくて晶さん……でしたよね? あの人も協力してくれたのではないのですか?」

「ああ……そうだった」

 そうだ。私は知らぬ間に一人で何でもしなければいけないと思い込んでいたのか。今回の捕り物だって、川島か誰かを連れてこればそもそも先生に危害が及ぶこともなかったのだ。

 私が肩を落としていると紫木はさらに続けた。

「それと、もう忘れているかもしれないですけど。僕の教え子、あいつに殺されているんですよ?」

「……そうでした」

「敵討ちなんて柄ではありませんが、初めての教え子だったので。仕事を半端にしておくのは苦手って言いましたよね」

 そういえば私はこの事件に五人もいる被害者の名前を、紫木の教え子であった結城望実を除いては誰一人記憶していなかった。資料にはきちんと書いてあったはずなのに。

 結局私は、六月の路上で狭まった視野を今の今まで元に戻せていなかったのだ。私はそのことにようやく気がついて嘆息した。

 横の方からうめき声が聞こえた。そちらを向くと、蹴り飛ばした犯人がうずくまってもぞもぞと動いていた。意識は戻ったが体が痛くてうまく動けないようだ。

 私はそいつに近づくと、上着のポケットから手錠を取り出し左手の腕時計を一瞥した。

「二十二時四十七分、傷害未遂の現行犯で逮捕」

 手錠がはめられる冷たい音が、路上にこだました。

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