8. アストロラーベを回せ


 私がバイクで署の駐車場に進入するとそこに人たちが一斉に私の方を見た。唖然とした顔、呆れた顔、苦笑いする顔、いろいろだ。でもこれがいつもの出勤風景だった。周りにいろいろなことを言われながら、それでも自分のやりたいようにやってきたことを今更思い出した。

 署に入り、人のまばらな捜査第一課のオフィスは素通りして鑑識課まで向かう。まずは昨日紫木に言われた説明を晶に話してみようと思った。性的暴行の跡のことや凶器のことを話せば、彼女が感じていた「何か違う」を掴んでくれるかもしれなかった。それに自分が頼ったとはいえ部外者の推測を何の担保もなく鵜呑みにするほどボケてもいなかった。

 鑑識課に向かう途中、廊下の自動販売機のそばで川島が缶コーヒーを飲んでいるのを見つけた。髪は昨日に比べてぼさぼさでシャツはしわくちゃだった。昨日家に帰らず署内のどこかで寝たのだろう。彼は私を見るなり眠たそうだった目を見開いた。

「神園さん……その服装やめたと思ってましたけど」

「やめてなんかいないわよ。昨日が例外だったってだけで。……ところで、警部は? さっきオフィスをチラッと見たときにはいなかった気がするけど」

「ああ、警部なら現場検証の準備って言って意気揚々と出かけていきましたよ。昨晩はほぼ徹夜だったはずなんですけど、元気ですね。あの人もう五十近いと思うんですけど」

 私の問いに川島が少しうんざりしたような口調で答えた。現場検証ならしばらく所に戻ってくることはなさそうだ。警部と鉢合わせて嫌味を言われる心配がなくなって私の気は少し軽くなった。

「というか、神園さんも結構元気そうですね。昨日帰ったとはいえ。いくつになるんでしたっけ」

「レディーに年齢を聞くもんじゃないわ。あ、そうだ。逆に聞きたいことがあったんだけど」

「なんです?」

 私は川島のぶしつけな質問をかわすと、ついでとばかりに別の質問を投げかける。今年で三十八になったけど、そんなこと教えてやる義理はないもんね。

「昨日見つかった被害者のことなんだけどさ、被害者の持ち物で持ち去られたものってなかった? 例えば……アクセサリーとか」

「アクセサリー?……いえ、特になかったと思いますけど。でも被害者を確認した遺族、半狂乱でしたからちゃんとは見てないかもしれないですね。改めて確認しましょうか?」

 川島は壁にもたれかかりながら嫌そうな顔になって答えた。被害者遺族による遺体の確認は警察の仕事でも特に損で嫌なものの1つだ。その翌日にまた話を聞きに行くのは気乗りしないだろう。

「うん、頼むわ」

 でもそれが私たちの仕事だ。なので私は非情な指令を川島に下す。彼は天を仰ぎ「はーい……」と消え入りそうな声で言った。


 鑑識課に着くと、デスクで晶がドーナツをもそもそと食べていた。その仕草は、小さな体躯と相まって小動物のようで可愛らしい。デスクいっぱいに広げられた死体の写真と睨めっこしていなければだが。

 私が開け放たれていた扉をノックすると晶がこちらに気がついた。彼女は身長に合っていない高い椅子から飛び降りるとドーナツを手にしたまま小走りで私のところへ駆け寄ってきた。

「薫! わかったよ!」

「へ? なにが?」

 晶は私に近づくなり大きな声で私に言った。興奮のせいかぴょこぴょこ跳ねていて、それに合わせて彼女のポニーテールも一緒に跳ねた。

「違和感よ! その正体。昨日犯人が一緒じゃないかもって言ったでしょ」

「ああ、そのこと。それなんだけど」

「性的暴行の跡だったのよ、違うのは。半年前と三日前の被害者にあって、昨日の被害者になかったの。正確なところは検視の結果待ちだけど、性器の傷を見たら一目瞭然よ」

 彼女は私の発言を遮ってそう言うとせかせかと自分のデスクに戻っていった。私がその後を追って彼女のデスクに近づくと彼女は三枚の写真を引っ張り出した。恐らく被害者三名の性器を写したものだろう。晶が指をさすところを目で追うと、確かに二人にはある出血の痕跡のようなものがもう一人にはない。あまり直視したいものではなかったので私はすぐに目をそらした。

「それともう一つ気になってるんだけど、凶器が違うのよね。包丁からカッターになってる。カッターで一度やってから包丁に変えるのならわかるけど、その逆ってあり得る?」

 晶はドーナツの残りを口に押し込むと腕組をして首を傾げた。

「そのことなんだけど晶、昨日例の犯罪心理学の先生と話したんだ」

 私は晶に、紫木と話した内容を聞かせた。彼女はそれを頷きながら聞いた。全てを聞き終わると晶は「なるほど」と呟いて私に向き直った。

「流石専門家って感じね。そう言われると私の違和感にも自信が出てきたわ」

「よかった。晶もそう思うなら多分先生の推測は正しいんだろ。まだ真犯人を捕まえるチャンスはあるかも」

「でもゆっくりはしてられないわよ」

 晶が急に心配そうな顔になっていった。

「確か今日は昨日の事件の現場検証でしょ? 先生の予想では北原って子は昨日の事件には関係しているらしいからいいとしても、前の事件の真犯人じゃないとしたらその事件の現場検証をやられたらさすがにボロが出るわよ」

「うん、警部がもう一人の犯人の可能性に気づくまでには一定の成果を上げないと。真犯人が別にいるってみんなが気づいて、その方向で捜査を始められたら一人で勝手に捜査してる私には勝ち目が薄くなるわけだし」

 捜査は人数だ。この事件だって何十人という単位で捜査員が動いている。彼らが全員がもう一人の真犯人逮捕に向けて動き出したら私が抜け駆けして手柄を立てる隙は無くなるだろう。北原に注意が向いている今のうちに私がもう一人の真犯人逮捕の先鞭をつけたい。手柄のために組織の和を見出しているようで嫌な気もするが、今回ばかりはそうも言っていられない。

「でももう一つ気になることがあるのよねぇ」

 晶の声が私の思考を遮った。私が晶の方を見ると彼女はやはり難しそうな顔をして腕組みをしていた。

「なんで犯人は初めから包丁を使ったのかな」

「なんでって……そりゃ、包丁の方がよく切れるからじゃないの? カッターじゃあ人を刺し殺すのにはちょっと頼りないというか」

「そうだけど……通り魔殺人ってことは、犯人は丁度いい被害者が現れるまで何度も通りで物色していたってことでしょ? 包丁を持って」

「まあ、そうなるのかなぁ」

「だったら包丁じゃあ都合が悪くない? もしあなた職務質問したときに、相手の荷物からカッターが出てくるのと包丁が出てくるのどっちが怪しいと思う?」

「包丁……の方が断然怪しいよな」

 晶の言うとおりだ。私や紫木は包丁からカッターに変わったことばかり考えていたがそもそも最初から包丁を使っている理由もわからないのだ。

「でもさ、こんな事件を起こすような犯人がいちいち職質されたときのこと考えるかな」

「普通はそうだけど、今回の事件の犯人はかなり注意深いでしょ? 犯行後の後始末が完璧なのに犯行前にそんな危険を冒すとは思えないけど」

 私たちは二人揃って考え込んだ。私はこれも後で紫木に話して意見を求めた方がいいかもしれないなと考えて、自然と彼のことを頼りにし出している自分がいることに気がついた。最初は胡散臭いとすら考えていたのに。

「そうだ晶。これも先生が言ってたことなんだけど、京都府内で同じような殺人事件って起こってない? 先生が言うには半年前の事件が一件目なはずがないらしいんだけど」

「うーん……いや、記憶にないわ。私もここに勤めて五年以上経つけど、その間にそんな事件あったら忘れるはずないわ」

「そうか、わかった。ありがとう。とりあえず事件はこっちで探してみるわ」


 そこからは私の苦手な機械と資料との格闘だった。まずは京都府内の殺人事件を洗う。データベース化されているものからそうでないものまで全てだ。昼過ぎまで資料室に籠ったが、成果といえば革ジャンをさらに黴臭くしたくらいのものだった。

 ピークを過ぎて閑散としている食堂で昼食をとったあと、オフィスで府外の事件を調べ出した。なんとなく滋賀県から京都の隣接県を時計回りにいこうと決め、データベースを検索していく。殺人事件は数が極端に多いわけではない。それでも、五年十年の蓄積があると一人で調べるには辛い数になってしまう。唯一の救いは探すべき事件がはっきりしていることだった。刃物を使った通り魔的な殺人、被害者には性的暴行の跡あり、現場から被害者のアクセサリーが持ち去られているとなおよし。

 気がつくと窓の外は暗くなっていて、オフィスには現場検証を終えたらしい刑事たちが帰ってきていた。みんな外の冷気をまとっているが気分は軽く見えた。談笑している者すらいる。事件が解決した気でいるのだろう。

「よう神園、何やってんだ」

 その中の一人が、不意に馴れ馴れしく話しかけてきた。私は慌ててパソコンの画面を予め立ち上げておいたマインスイーパーに切り替える。いま奴らに自分の調査の内容を知られてもいいことはない。捜査を邪魔されるくらいならサボっていると思われた方がいくらかマシだ。

「なんだおめぇ、さては来年の交番勤務の予行練習か? ベテラン刑事さんは熱心だねぇ」

 あっさり誤魔化されたその刑事が笑うのに合わせて周りの刑事も笑った。私はその間に荷物を手早くまとめてパソコンを強制終了させる。

 私が勢いよく立ち上がるとその刑事がさりげなく後ずさりした。人のことを馬鹿にしていても、頭一つ分以上大きな人間に立ちはだかられるのは怖いらしい。臆病者め、と私は心の中でその刑事に悪態をつくとプリンターまで行き、さっき画面をごまかす直前にプリントアウトしておいたものを手にさっさとオフィスを後にした。


 それは、探していた事件の資料だった。

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