ラヴァーズ・イン・ザ・ウォーター

ラヴァーズ・イン・ザ・ウォーター

『案外誰にも知られてないことだけど』

 かつて彼女は、そうわたしに耳打ちした。とっておきの秘密を打ち明けるみたいに、心の底から楽しそうな笑みを浮かべて……ポロリン、とピアノの鍵盤が音を奏でるように、弾む声で。

『ここの鍵は壊れているから、ホントはいつでも入り放題なんだよ』

 そのキラキラした黒曜石のような瞳に、リップが光る艶やかな唇に、肩にかかるサラサラとした黒髪に、たおやかな身体つきに、独特の甘く柔らかな香りに……彼女の全てに、魅了された。

『だからね――……』

 囁き声に混じる吐息すらも甘く感じて、一瞬眩暈を覚える。

『――約束だよ』

 刹那、視界が濃厚な桃色に染まった気がした。


 ――キィッ。

 ずっしりとした古めかしい網掛けの戸を開けば、誰もいない空間に甲高い音が響く。部活動にいそしむ生徒たちの声や物音が遠くのグラウンドから聞こえてはくるものの、わたしが今いるこの周辺だけは、まるで世間から切り取られ引き離されたかのように静かだった。

 校舎裏を仕切っていた戸――事前に聞いていた通り、それは鍵がかかっていなかった――をそっと閉め、普段誰も近寄らないその場所へと足を踏み入れる。

 濡れた石の階段を上って行けば、たちまち見えてくるのは、冷たそうな水が張られた水色の大きな箱。

 ――まるで水槽だね。

 そう言って無邪気に笑う、想像上の彼女。

 現実の彼女は今頃、最近付き合い始めたという恋人と共に下校でもしているだろうか……。

 考えるだけで、頭が締め付けられるように痛む。ひどく苦しくて、息がしづらい。呼吸を繰り返しすぎるせいで、喉がカラカラにもなる。まるで、孫悟空の金冠をつけているような気分だ。

 胸に燻るのは、穢れた炎。彼女の全てを独占しているのであろう男に対する、醜く格好の悪い嫉妬という感情。

 そのくせ、彼女がわたしのところに来てくれたら、それだけでわたしの心はあっという間に清らな色で満たされる。その瞳にわたしを映して、その唇でわたしの名を紡ぎ、その繊細な白い手でわたしに触れ、その人懐っこい笑みをわたしに向ける。

 ただそれだけで、わたしは途端に幸せな気持ちになれる。

 彼女を想うと、身体の色んなところが痛くなったり、疼いたり……とにかく、普段の自分らしくはいられなくなる。彼女の一挙一動に、馬鹿みたいに心を掻き乱される。

 彼女という存在をわたしの中で認めたその日から、わたしは正気じゃないのかもしれない。

 分かってる。こんなの……世間に認められるような感情じゃないって。これは本来なら、自分たちとは対をなす存在に――男という性別の人種に対して、抱くような感情なんだって。

 だけどわたしは確かにそれを、彼女に対して抱いてしまっている。同じ生殖体を持つ、彼女に。

 だからわたしは、『おかしい』んだ。

 何人もの人間が――親が、兄弟が、親戚が、同級生が、先輩が、後輩が、先生が、かつてそう言ったように。

 わたしは、普通の人間とはどこか違うんだ。奇人なんだ。世間から切り取られた、『浮いた』存在なんだ。


『――いっしょだ』

 かつてそう言って笑った、彼女。

『私たち、おんなじだね』

 ――どうせなら、二人で浮いちゃおうよ。

『浮いたもの同士、ちょっと上の位置から世間を見てさ……その愚かさを、二人でずっと嘲笑っていようよ』

 クスクス、クスクス……。

 愉悦を含んだ笑い声が、何故か耳について離れなくて。彼女のめまぐるしく変わる表情がとても綺麗だったから、もっと間近で見たくて。

 もっと、彼女のことを知りたくて。たくさんの色を見せて欲しくて。彼女にも、わたしと同じ色になって欲しくて。

 何もかも全部、わたしだけのものにしたくなっちゃった。


 でも……。


「――うそつき、」

 おんなじだって、言ったのに。

 やっぱりあなたも、わたしとは違う人だった。

 あなたが違うクラスの男の子と付き合い始めたって噂に聞いた時、わたしがどんな気持ちになったか分かる? そして、あなたがその噂を否定しなかったとき……わたしが、どれほど絶望したか分かる?

 目の前が、真っ黒になったんだよ。比喩じゃない、本当に。

「……ばぁか」

 小さく呟いても、答えなんて返ってこない。

 目の前でたゆたう水色は、今のわたしの心を表すかのようにゆらり、ゆらりと揺らめいている。……こんなに、綺麗な色をしてはいないけれど。

 頬に伝う水滴も、この感情も、何もかも全部洗い流してしまいたいと思いながら、わたしは半ば衝動的に地面を蹴った。

 ――ざぷんっ。

 大きな水しぶきとともに、火照っていたわたしの身体は一気に冷たさに覆われる。咽返るほどの塩素の匂いが鼻腔を満たした。

 肌にまとわりつく制服をほんの少し鬱陶しく思いながら、重たい両腕を動かし泳ぐポーズを取ってみる。

 水中に顔をつけ、恐る恐る目を開けてみれば、霞む視界の全てに水色の世界が映った。

 綺麗だ、と素直に思う。まるで、彼女の笑顔のようだ。

 ぷかぷか、

 水中に大人しく身を任せ、水面に浮かんでいる身体はまるで実体を感じない。自分のものではないと、錯覚してしまいそうになるくらいに。

 ぶくぶく、

 鼻と口の両方から漏れているのであろう様々な大きさの水泡が、目の前を次々と過ぎっていく。それこそ、どこかの水槽に囲われた金魚にでもなったような気分だった。

 息が苦しくなって、ぐるりと身体ごと反転する。目に水が入り、必要以上に濡れた視界に、今度は先ほどより濃い水色――雲一つない晴れ渡った青空が、映った。


「――約束、したのに」

 不意に聞こえた声に、びくり、と身体が従順に反応する。水を含みすっかり重くなった身体を無理に引き上げ立ち上がれば、そこには信じられない人が立っていた。

 プールサイドから中腰の姿勢でわたしを見下ろしている彼女は、にっこりと笑っていた。けど、纏う雰囲気がなんだか不機嫌っぽく感じて……わたしは、思わず身を竦めた。

「……なん、で」

 どうして、ここにいるの?

「彼氏と、先に帰ったんじゃないの」

「あぁ……」

 面倒くさそうな流し目。それすらも画になるなぁと思ってしまうのは、単なるわたしの贔屓目によるものが大きいのかもしれない。

 膝についていた手を片方離し、風に靡いた髪を鬱陶しそうに払いのけた彼女は、小さく溜息を吐いた。

「別れたんだよ」

「えっ?」

「もともと、言うほど好きってわけでもなかったし。……そんなことより」

 いつもより心持ち低めの声で言いながら、彼女は中腰の姿勢を解き、今度は腕を組んだ状態でわたしを見下ろす。わたしはといえば、半ば呆然としながらその尊大かつ美しい光景を見上げていた。

 ひんやりとした宝石のような瞳が、わたしを射抜く。

「どうして、約束を破ったの」

「それは、」

「この場所には」

 自然に口から零れ落ちようとした言葉は、刃物のように鋭い台詞によってあっさりと切り倒される。

「二人で一緒に来ようね、って言ったのに」

 覚えてなかったの? と冷たく切り返され、そんなことはないと一生懸命首を横に振る。

『絶対、二人で一緒に行こうね。――約束だよ』

 覚えていないわけがない。あの時の甘美な約束を……ましてや彼女との日々を、忘れることなどひとときだってありはしないのに。

「じゃあ、どうして」

「それは……」

 先ほど目に入った水ではない、新しい滴によって、視界がみるみるぼやけていく。彼女の美しい顔も、目を凝らさなければよく見えなくなってしまうくらいに。

「耐えられなかったからだよ……っ」

 僅かに目を見開いた彼女に、わたしは嗚咽を堪えながら叫ぶ。これまでずっと隠し続けてきた、思いの丈を。

「あなたはかつてわたしに『いっしょだ』って言ってくれたよね。でも、違った。わたしたちは、いっしょなんかじゃなかった。あなたはわたしのことを単なる友人としてしか見ていないけど、わたしは違う。『二人でいること』の意味が、わたしとあなたとでは違う。だからもう、こんなこと終わりにしたかった。楽になりたかった。約束を破れば、そうなれると思った」

 ぼろぼろと流れ落ちる涙は、枯れるところを知らなかった。どこから出ているんだろうなんて、頭の片隅で疑問に思う程度には。

「わたしは、おかしいの……! あなたのことを、単なる友人として見たことなんて一回もない。その瞳に、唇に、髪に、声に、香りに、笑顔に、言葉に……出会った時からずっと、焦がれ続けてきた。欲しくてたまらなかった。全部、全部、わたしだけのものにしたかった!」

 彼女の表情は、霞んでいてよく見えない。そうでなくてもきっと、まともに見ることなんてできないだろうけれど。

「だけどあなたには、彼氏ができた。そう知った時のわたしの気持ちなんて、あなたは知らないよね。やっぱりわたしだけが、違う。わたしだけが、このちぐはぐな想いを抱き続ける。わたしは……っ!」

 ――わたしは、ずっと前から。

「わたしは、あなたのことを……」

「ストップ」

 ポロン、と心地いい旋律が音を奏でる。半ば乗り出すようにして叫んでいたわたしは、遮られたことで勢い余って前から水中にダイブしてしまった。ざぷん、という小さな音が耳に届く。

 その後、さらに大きな水しぶきが近くで起きた。水中でもがいていたら、その腕がやわらかなものに捕らえられる。やっとの思いで水面に顔を上げれば、目の前に全身ずぶ濡れの彼女が立っていた。つややかな黒髪から滴る水が、太陽の光にあたってキラキラと光っている。身体に貼り付いたブラウスは大胆に透け、ふっくらした身体のラインと濃い青色の下着がくっきりと浮かび上がって……見ていたら、なんだか変な気分になった。

 そこから目を逸らすように彼女の顔を見れば、そこに浮かんでいたのは、これまで一緒に過ごした中で初めて見るかもしれないほどに活き活きとした、嬉しそうな笑み。

 ありもしないはずのことをこいねがってしまいそうで、なんだかとっても、ドキドキする。

「続き、言って」

 スタッカートのように弾む声に、目をぱちくりとさせる。掠れた声で「何を」と問えば、彼女はにっこりと――今度は上機嫌そうに――笑みを深めた。

「さっきの、続き」

 さっき――それは、彼女に止められるまでずっと続けていた告白のこと。そう理解した瞬間、冷たい水の中にいるはずなのに、まるで全身が発火装置になったみたいに熱くなった。

 お願い、と小さく首を傾げられてしまい、思わずうぅ……と呻きのような声を漏らす。幾度か口をパクパクと開閉させ、声にならない声を紡いだ後……先ほどからずっと期待のまなざしを向けてくる彼女に、わたしはやっとの思いで告げた。

「好き、なの」

 友達としてなんかじゃない。恋愛対象と、して。

 わたしのたどたどしい一世一代の告白を聞いた彼女は――……ほんのりと頬を染め、はにかんだ。

「いっしょだ」

 ――私たち、おんなじだね。

 腕を引かれ、半ば彼女に引き寄せられるように水中へ倒れこむ。水しぶきとともに身体が沈んでいく直前――むわりとした塩素の匂いの中で、数秒間だけ重なった唇は、柔らかく、ちょっとだけ甘かった。

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