β47 美舞の涙★愛する人の名は

   1


「ははは……! 虚数空間を出られて万歳だな」


 玲が笑ったのは、無事に美舞とむくちゃんに会えたからだ。


「美舞……」


 玲は、少し離れていただけの妻、美舞に力強い眼差しを向ける。

 美舞が着ていた緑のコクーンワンピースは、黒のAラインワンピースになっていた。

 靴もなく、素足だ。


「むくちゃん……!」


 玲は、むくちゃんの姿に目を丸くする。

 むくちゃんの服は、くるくると緑のおくるみになっていた。

 何より驚いたのは、体の大きさが、天守閣で別れた時、つまり、潜入時に戻っていた事だ。


「ちょっと、待ってな」


 ひょいと、祭壇の椅子から床に飛び降りて、むくちゃんを起こさないように寄る。


「むくちゃんは、息をしている様だな。良かったよ」


 後ろ向きの体を抱いて、顔が見える様にした。

 そっと頭を撫でて、横たえる。


「本当に、元の大きさだな。大分、疲れているだろうし」


 むくちゃんをよしよしと擦っていると、ごろりと床に横になっていた美舞が、顔を上げるた。


「ここは……」


 濁った瞳で、そこらじゅうを隅々まで見渡したが、皆目見当がつかない様だ。


「あなたは、誰ですか? ここの人ですか?」

「ここは、どこなのですか?」

「責任者なら、部屋の出口を教えてください」

「私は、疲れています。休みたいです」

「喉は渇くし、お腹が減っています。コンビニは、ありませんか?」


 信者が、口々に言った。


「何かにすがると言うのは、ワガママっぽいな」


 むくちゃんと美舞の間で様子を見ていた玲が、真をつく。


「待ってな、美舞」


 踵を返して、美舞の傍らに座った。


「左手を出してくれるかい?」


 まだ醒めていない美舞に頼んだ。

 そして、玲の左手を差し出した。


「いいかい、これは、俺の宝物なんだ。結婚指輪も宝物だけどな。さあ、何だろうな」


 玲の黒いズボンのポケットに右手を入れて出す仕草が、スローモーションだ。

 拳を丸めて持っていたものを美舞の左手に握らせた。


「あ……」


 美舞は、吐息を漏らす。

 濁った瞳に、一瞬で桜の花が宿った。


 パシャーン。


 水の玉が自然の力で弾ける様に、何かを悟る。


「これは、覚えているよ……」


 美舞の瞳が、きらりと光った。


「僕の愛する人の物。心を込めて、何度も付けた……」


 溢れんばかりの想いが、双眸を潤ませる。


「あの人のコートのくるみボタン」


 一筋の雫が右目から伝わった。


「――玲。その人の名は……。玲」


 もう片方からも溢れる。


「そうだよ、俺が玲。分かるかい」


 優しく、美舞の瞳と、自分の瞳を合わせた。

 記憶を縫う様に。


「ああ……!」


 美舞は、玲に抱きついた。


「もう、アレではない。愛する美舞だ」


 玲は、長い髪を抱き締める。


「僕……。僕は、美舞。そうでした。玲の妻、美舞だよ!」


   2


「そうだ、むくちゃんは、一体どうなっているんだ? 美舞、ちょっとごめんな」


 右手をすっと上げて、むくちゃんの方へ踵を返した。


「むくちゃん」


 顔を覗くが、目を瞑ったままだ。


「そーっと、抱っこするよ。よしよし」


 抱えてみたが、表情に変わりはない。


「ねんねかな? むーくちゃん。よしよし」


 横抱きのまま、優しく揺らしてみた。


「おかしいな。テレパシーもお休みかな?」


「あの……。玲」


 美舞が遠慮がちに切り出す。


「むくちゃんと僕との事で、話があるの」


「話……!」


 聞きたかったが、気を失っていただろう美舞には、無理だと思っていた。


「うん、聞かせてくれ」


 力強い目で頼んだ。

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