めいている

 俺に親がいるとするならば、それは戸籍上の父親であるあの人じゃない。

 俺を育ててくれたのは、姉ちゃんただ一人だ。


 いつも楽しく歌いながら、美味しいごはんを作ってくれた姉ちゃん。

 結界の中だけとは言え、色々なところに連れて行ってくれて、たくさん話をしてくれた姉ちゃん。


 俺が風邪をひいて寝込んだ時は、ベッドの横でぽろぽろ泣いていた姉ちゃん。

 わがままを言って怒らせた時も、結局最後には折れちまう甘々な姉ちゃん。

 たとえ自分が苦しい時だって、必ず俺の事を応援してくれた姉ちゃん。



 ……そんな姉ちゃんが、今、目の前に立ちはだかっている。

 凶悪な鎌を携えて。憤怒という色に塗り固められた魔眼まがんを見開いて。



 俺の心を満たすのは恐怖よりも、寂しさと申し訳ない気持ち。

 親に歯向かうという行為は、いたずらと同じだ。

 無我夢中で、聞く耳を持たなくて、そして最後に悲しい。


 でもこれは、大人になるために必要な行程なんだ。

 俺は、誰もが乗り越えなきゃいけない茨の中に半身を突っ込んでいるんだ。


 覚悟も準備も足りてない。

 それでも、もう後になんか引けない。このまま前に進むしかない。

 そんな思いで、姉ちゃんのことをぎゅっとにらみつけた。


 姉ちゃんの一歩後ろ、横に並んだ沙那、花蓮、柴咲さん。

 そして沙那に担がれた美嘉姉ちゃん。

 そこまでの距離は、二十メートルちょっと。

 のんびり歩いても五十歩とかからない。


 でもここに、境界線が見える。

 姉ちゃんの信じる世界と、俺が守りたい世界。

 次元を分かつ断層が軋みを鳴らして、俺たちの歩み寄りをかたくなに拒んでいた。


「朱里に会うな。そう言ったと記憶しているが?」

「そんな酷いこと言うやつは姉ちゃんじゃねえ。だから従わない」


 いつもの姉ちゃんなら、多少は動揺するセリフだ。

 なのにピクリとも反応してない。

 そっちはもう、覚悟を決めている。そういうことなのか。


「お前がもう少し賢ければ、こんな状況にもなっていなかったろうに」

「どういう意味さ」


 姉ちゃんは返事もせずにその細い顎を上げて、鼻で笑う。

 代わりに答えをくれたのは、同級生たち三人の顔。


 呆れるジト目が、口をそろえて、「なんでお前は朱里を説得できなかったんだバカ雫流」と言っている。

 どう説得したら朱里ちゃんが勾玉を使ってくれるかなんて分かんねえよと気持ちを込めながら眉根を寄せたら、そろってため息で返事をされた。


 無言のままで以心伝心いしんでんしん

 そんな超常現象、もうちょっと気の利いたやり方で使え。

 お前ら俺の味方ちゃうんかい。なんか良い手、無いのかよ。


「……楽しいやり取りだな。だが、雫流を責めるのは間違いだ。例え何があっても、朱里が勾玉を使うことは無い。あたしに渡すだけだ」


 俺の腕にしがみついたままの朱里ちゃん。

 その目を見つめると、ゆっくり、ギュッとつむった瞬きで肯定された。

 凛々しい朱里ちゃんの表情に曇りは無い。

 迷いは無い。

 なのに、そこには確かな寂しさが浮かんでいる。


 ほんとこんなの、どうしたらいいんだよ。 

 でも、なんとかしたい。助けてあげたい。


 そして彼女は俺の腕に、名残惜しそうに手を這わせた後、まるで覚悟を決めたかのように一歩離れた。


 俺、君を退学になんてさせたくないよ。


「朱里について懸念はない。あとは、お前が既に勾玉を使っているかと心配していたのだが、認識阻害と引き換えでは割に合わないと気付いてくれたようだな」

「今から口に付けちまえば、俺の勝ちなんじゃね?」

「やってみるか?」


 俺が思いつきを口にしてみても、余裕の笑みは変わらない。

 その訳については、姉ちゃんの隣で腕組みをする金パツインテが教えてくれた。


「雫流には教えてなかったかしら。勾玉は誤作動防止の為に三秒くらい口に付けてないと罰が消えないの」

「………………へー、そうなんだ」


 なんだろう、凄い違和感。

 俺の事名前で呼ぶの珍しいから、妙に引っかかる。

 ……なにかのヒントなのか?


「それを知ったところでどうにもならんがな。お前がその手に握っている勾玉を使った瞬間には、その腕が切り落とされていることだろう。三秒とかからん」


 これははったりじゃない。

 魔眼を開いた姉ちゃんの身体能力はハンパない。

 俺が必死に走っても五秒くらいかかるこの距離を、姉ちゃんなら一秒とかからずに詰めることが出来る。


「何をしようと無駄だ。このあたしでも、逆の立場で己が想いを貫くすべを知らん」


 やっぱり、姉ちゃんに逆らっても無駄だったのか。

 こうなってしまったらどうしようもない。

 万事休す……。


「だから、お前が勝つ可能性はゼロパーセントだ」


 …………え?


 不意に頬を撫でた風から、懐かしい香りがした。


 俯きかけた顔を再び上げると、そこには真剣なまなざしの姉ちゃんがいる。

 瞳の色は赤いけど、昔から変わらない。

 厳しくて、優しい切れ長の目が俺を見ている。


 それは、いつも俺が何かを諦めようとした時に、ケツを蹴とばしてくれた言葉だ。

 ずっと、俺を見守ってきてくれた人の言葉だ。


「姉ちゃん、今、なんで俺のこと応援した?」

「………………何を言い出すんだ、貴様は」


 この言葉に腹を立てて頑張ると、どんな困難だって乗り越えることが出来た。

 そして姉ちゃんは、俺を抱きしめながらいつもこう言うんだ。

 俺はゼロを1に変える不思議な力を持ってるって。



 ………………じゃあ、今度も信じちゃうぞ?



 俺は右腕を正面に上げて、みんなに向けて勾玉を突き付ける。

 そしてゼロから、一歩踏み出した。


「これは俺が見つけた勾玉だ! だから俺が使う!」


 俺が出来るのはここまでだ。

 ほら、ゼロを1にまでしてやったぜ。

 だから後は…………。



 お前らに! 全部任せた!



 返事の第一声は、姉ちゃんの足元から上がった。


 バキィってなにさ。

 初めて聞いたよ、地面が割れる音。


 姉ちゃんの右足が地面を踏み固めただけで、黒い亀裂が走る。

 これでいつでも飛び掛かる準備が整っちまった。


 頼むよ、みんな! 急いで俺に力貸せよ!


「お前にそれを使わせるわけにはいかない。一つ使えば、歯止めが効かなくなる。そして、三つ目の罰を解除した時……、いや、お前が四つ目の罰……、の罰を発動させたその時、すべてが終わる」


 ……予想通り、姉ちゃんが見た目で分かるほどの怒りを吐き出した。

 黒い瘴気が体から溢れ出してる。

 怖えよ! なんか難しいこと言ってるけどそんなのどうだっていい!


 こら、金パツインテ! お前が一番頼りになるんだ何とかしろ!

 珍しく口端ゆがめながらニヤリ顔とかしてんじゃねえよ!


 ……ん? ニヤリ?


 なんだよ。

 じゃあやっぱさっきの、ヒントだったのか?

 わざわざ罰の解除に「三秒くらいかかる」とか説明したやつ。


 でも、姉ちゃんから三秒もの時間、どうやってくすねよう。

 ねえ、朱里ちゃん?


 すがるような思いで赤髪ポニテに目を向けると、彼女もまた切なそうな表情で俺を見上げていた。


 ちきしょう! こんなに可愛い彼女、取られてたまるか!

 俺の大切な彼女を…………、取られたく、ない?



 おお! そうか!



 右手につまんだ勾玉。

 それをしっかりと左手の平に押し付けて握って、その腕を高く掲げた。


「これから、こいつで俺の罰を解除する」

「……いいか、これが最後の通告だ。もしお前がそれを使ったら、あたしは容赦なくその左腕をねる。その上で二度と歯向かうことの無いよう制裁を加える」

「そりゃあ痛そうだ。その上、上手く行こうが行くまいが認識阻害か……。でもね、姉ちゃん。俺は例えみんなと別れることになっても、寂しくない」

「言ったはずだ! お前にそれは使わせない!」


 怖いよ、口からも瘴気が溢れてるよ。

 でも。


「多分使えると思う。花蓮が、知恵をくれたから」


 姉ちゃんが、腰をさらに落とした。


「沙那が、力をくれたから。ピンチになった時のお守りが守ってくれる」


 鎌を握り締める音がばきりと、ここまで聞こえる。

 そして今、朱里ちゃんが俺を不安そうに見上げてくれた。


 ……いい距離だ。条件が整った。


「あと、一番大切な物。……朱里ちゃんが、俺に愛情をくれたんだ。大事な物を取られたくない時。今が、その時だ。……これで百パーセント。俺は絶対に成功する」


 本当はちょっとだけわだかまりがあるんだけど、それは内緒だ。

 俺はみんなと別れることになっても、寂しくない。


 ……その言葉だけは、ただの強がりだよ。


「ちきしょおおぉぉぉおおお!」


 ああ寂しいさ!


「お前らと会えて! 最っ高に嬉しかったっ!」


 でも、怖くねえ!


 じゃあな!



 ――俺は左腕を、自分の口に向かって動かした。



「きさまぁぁぁぁあああああ!」


 姉ちゃんは泣き叫ぶような声と共に、大地が揺れるほどの衝撃を生み出した。


 ……この後、姉ちゃんは圧倒的な勢いで突っ込んでくる。

 おそらくあの鎌が俺の左手を薙ぎ払うまで一秒とかからない。


 王の速度は人の目で追えるようなものではない。


 ……だが、だからこそ……、


 人の動きと変わらぬ速さになるものがある!



 反射観察スチールリフレクスっ!!!



 バキン!


 何かが割れるような音が頭に響く。

 痛い。でも、ほんの一瞬だ。

 これを耐えなきゃ男じゃねえ。


 ……赤く染まった視界の中、姉ちゃんの右足で砕かれた地面が水しぶきのように吹き上がる。


 これはただの初動。

 本命は、姉ちゃんの利き足、左だ。


 右足の踏み込みで姉ちゃんの体が前へ飛ぶ。

 鎌を振りかぶっていく。

 ……まだ。


 半分の距離を一歩で飛び、本命の左足が、今、地面を噛む。

 ……まだ。


 体が地面に突いた左足を追い抜く。

 ……まだ。


 そして今、左足を大きく伸ばしきった。

 いかな姉ちゃんでも、ここから動きを変えることはできない。

 ……その左足が、俺には真っ赤に見えた。



 今だ!



 俺は、「」を素早く持ち上げて、隠し持っていた勾玉を朱里ちゃんの唇に押し当てた。


「んっ……?」


 鎌の狙いは俺の左腕。

 だから、姉ちゃんは朱里ちゃんの逆側、俺の横をかすめる軌道を取った。

 そこから勾玉を持った右手をはらうためには、俺の体ごと切り捨てなきゃならん。


 でも、そんなことできねえだろ?

 だって姉ちゃん、俺の事、大好きだからな!


 姉ちゃんはその弾丸のような突進を止めるために全力を注ぐ。

 地面をかかとで削り、そして膝まで潜らせてやっと停止したその時、俺の指が朱里ちゃんの唇に触れた。


 柔らかい感触、俺が触れた辺りから、またたく光の粒が螺旋を描いて虚空へ溶ける。


 勾玉の姿は、朱里ちゃんの罰と共にこの世界から消え去ったのだ。


「か……、勝った……」

「……方向転換できない、なんてよく考えたわね」


 俺の真横、地面に膝まで埋まった姉ちゃんが淡々とつぶやく。


「うん。左手に狙いを定めたらそのまま一直線だろうと思って。だから気付いたところで間に合わない。突進力が凄ければ、ブレーキも大変。方向転換だけは人間と速度が変わんないよね」


 俺が、からっぽの左手を開いて閉じてしながら話すと、寸止めだった鎌を振り下ろされた。

 宙を舞う腕。そして響きわたる、俺の叫び声。


「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!」

「左手だぁ? こっちも右手でしょうが!」

「痛い! 指がちょっと切れた!」


 地面に転がったのは、もちろん元・沙那の右腕だ。

 ちきしょう、最後の最後で役に立たねえな!


 俺が騒ぎながら振り向くと、姉ちゃんは朱里ちゃんを見つめていた。

 感情のこもっていない瞳。

 そのうつろが見つめる先で、朱里ちゃんは膝から崩れ落ちた。


「あたし………………。あれ? なにが…………」


 呆然とする朱里ちゃんに、みんなが駆け寄った。

 いや、俺に殴りかかって来たバカも一人いるけど。


「朱里! よかった! 朱里……、朱里ぃ!」

「辛かったわよね……。こめんね、朱里……」

「こら、姫ぇ! なんだよかっこいいじゃねえか!」

「いだだだだだだっ! バカじゃねえの!? 離れろこら!」


 柴咲さんと花蓮に抱きしめられて、激しい熱狂に当てられて。

 ようやく事態を把握し始めた朱里ちゃんの目から、今日あれだけ流したというのにあきれるほどの涙があふれ出した。


 道端に座り込んで泣く子供のように、両手を垂らして空を見上げ、


「うっ………、ふぇぇぇぇ。ふぇぇぇぇぇぇぇぇん」


 嬉しいはずなのに、まるで悲しさを振りまくような声を上げた。


 ……よかった。


 結局、君の罰が何だったのか分からずじまいだけどさ、これで学校を辞める必要もなくなるんだろ。

 本当に、よかった。


 でも、寂しいぜ。


 その寂しさの理由が、地面から足を引き抜いて俺の肩を叩く。


「……あんた、覚悟しときなさい。姉ちゃんを悪者にしやがった罪は大きいわよ」

「おお……、分かってる」


 姉ちゃんはそう言って一人、鎌を引きずりながら離れていく。

 その背中に浮かぶ感情を、俺は読み取ることが出来なかった。


「しっずるぅ!」

「ごはっ! こらてめえ、はしゃぐなばばばばっ!」


 でーんき! ああもう、人が複雑な思いでいるところを!

 あと、美嘉姉ちゃんのこと背負ったまま暴れんじゃねえ! 可哀そうだろうが!


「ありがとう七色! お前、最高にかっこいいな!」

「あんたにしては上出来じゃない。……ありがとう」


 今度は、熱狂が俺に襲い掛かって来た。

 嬉しいけど、それより……。


 俺が力を抜いて肩を落とすと、みんなは押し黙って一歩離れた。

 地べたに座ったまま俺を見上げてる大切な彼女に、ちゃんと話さないとね。


「よかった。俺、嬉しいよ。未だにどんな罰なのか分かってないけど、それを解除できた」


 朱里ちゃんは、ひっくひっくと言葉も出せずに、大きく三度頷いてくれた。


「俺、朱里ちゃんの役に立てたんだ。ほんとによかった……」


 胸が苦しいけど、清々しい。

 こんな切ない気持ち、初めてだ。


 だから頑張れ、俺。

 あとちょっとだから、泣くんじゃないぞ。


「これで……、退学しなくてっ、済むん、だよな」

「あ……う……。ん………っ。んん………っ」


 朱里ちゃん、呼吸をするたびに震えてる。

 胸がいっぱいで、話すこともできないんだよね。


 でもアーモンド形の目で一生懸命に俺を見上げて、震える唇で何かを伝えようとしてくれて。

 気持ちはちゃんと伝わったよ。


 …………これで、思い残すことなんか何もない。


 もう二度と俺を認識できないかもしれないけど。

 君はずっと、俺の彼女だ。


「そして、俺はずっと、朱里ちゃんの……」


 その時、今生最後のキメ台詞がスエット姿の柴咲さんによって止められた。

 ぱん、じゃねえ。なんで手を打った?


「じゃあ朱里! 記念すべき第一号の栄誉を七色にあげなきゃね!」

「ぐすっ。第一号? …………あっ! そうだね! うわあ、緊張する……」


 なんだよ、何が始まるの?


 立ち上がった朱里ちゃん。

 俺を見つめながら、両手を胸の前でモジモジさせ始めた。


「し……、雫流!」

「おお。…………なに?」


 お前、顔、真っ赤だぞ?

 すっごく照れくさそうにして……、ま、まさか!?


「おいおい! みんなの前で俺たちの関係、宣言するの? 待ってくれ! まだ心の準備ができてな……」

「雫流! あたしと……、友達になってください!」


 …………は?


「えええええええええ!?  か、格下げ!?」


 きゃー言っちゃったじゃねえぞこら天然バカ!

 ギャラリーも大はしゃぎからの拍手とかやめろ!


「バカじゃねえの!? そんなん却下に決まってごはあっ!」


 いてえ! 女子三人からグーパンとか希少体験!

 じゃなくて待ってくれ! 話を聞いてくれ!


「空気読みなさいよ! この変態バカ!」

「そうよ! さすがにこの言葉の意味くらい分かるでしょ!?」

「いや分かんねえよ! 何がどうしてこうなった! そもそも俺は友達じゃなくて朱里ちゃんの……」


 そこで目にした朱里ちゃんの表情。

 おいこらマイスイート彼女。

 なんだよ、その不安そうな顔。


「……え? 俺、OKしないといけない流れ?」


 満場一致、魂のこもった頷き。


 まったく分からん。

 分からんが、逆らえるはずなどない。


「俺……、朱里ちゃんの、友達、です?」


 朱里ちゃん、両手で顔を覆って号泣。

 花蓮と柴咲さんも号泣。

 沙那ですら、鼻をすすってる。


 俺一人、たぶんみんなと違う意味で涙を流してる。


 そんな俺の肩を優しく叩いた真っ白な手。


「美嘉姉ちゃん……、これ、一体……」


 美嘉姉ちゃんは、きっとすべてを把握している。

 説明して欲しい。

 そんな俺の願いを涼しい表情で受け止めた白銀の天使は、優しい声で呟いた。


「…………すっっっごい面白い」


 俺は、今生最後に聞く言葉が結構無慈悲だったことに絶望しつつ、男泣きした。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 俺は天邪鬼あまのじゃくだということを自覚している。


 初めて朱里ちゃんと出会ったあの日から、連日激痛に襲われて、何度も死にかけて。

 散々文句を言って、世界を嘆き続けていた日々。



 ……楽しかった。

 ほんとうに楽しかった。

 小さい頃から憧れていた、奇跡のような一週間。


 罰のせいで、夢と妄想でしか味わうことが出来ない生活。

 それが現実となったんだ。

 あの時間。奇跡以外にどう表現すればいい。


 ――そしてあれから、同じだけの時間が過ぎた。


 味気ない、熱も無い。

 時の流れを何倍にも薄めて伸ばしたような、長い長い一週間。

 この時間もまた、今まで体験したことの無い、不思議なものだった。



 この七日間で起きたこと。


 月が変わった。

 一つ先の季節になった。

 制服が夏服になった。


 新たな英雄が多羅たら高校に誕生した。

 学園のニューアイドルが三人ユニットになった。

 最悪な罰と戦ってきた少女の伝説が、連日のように語られるようになった。


 そして俺は、自分が発する言葉に誰も返事をしないという虚無を味わった。



 ――風がお出かけ前に手にする香水の瓶が、緑のラベルから水色のボトルに代わる季節、六月。

 しかし、そんな清水の清涼感はどこへやら。

 ログハウス風喫茶店『シャマイン』は、夏服に衣替えした学生たちが今日も席を埋め尽くして、不快指数をこれでもかと跳ね上げる。


 まあ、このメイド服トリオに会えるなら、ここが不快だなんて思うやからは一人もいないだろうけどね。


「朱里ちゃん! アイスコーヒーお代わり!」

「はいはーい! 今持ってくねー!」

「花蓮さんに作っていただいたピザトースト! まじ最高です!」

「当然だから、いちいち騒がないで」

「あいよ、パフェおまちー」

「きゃーっ! 沙那さまの歯形が付いてる♡」

「おお、ウチが運ぶと税金が発生するんだぜぇ?」

「もっと納税させて―!」


 Sランクの課題をクリアーした者、通称リドルマスター。

 そんな英雄は、想像を絶する不幸な罰に見舞われていた。


 この話は伝説のごとく脚色されつつ、瞬く間に学校中に広まった。

 半信半疑だった人も結構いたようだけど、罰の効果で迷惑をかけてきた皆さんに謝罪して歩く朱里ちゃんの姿を見て、その考えを改めていったようだ。


 もともと人気者だった沙那、そして花蓮の効果も相まって、シャマインは連日の大賑わい。

 よかった。そして嬉しい。

 こんな幸せな結末、嬉しすぎて涙が出そう。



 ……でも、そんな俺の気持ちを汲んでくれる人は、この世のどこにもいないんだ。



 姉ちゃんによる制裁。

 こうなって初めてわかる、机の片隅に置かれた消しゴムの気持ち。

 ボールペンで暗号解読に挑んでいる時、はたしてそれは、そこに存在しているのだろうか。


 店の天井にタライを揺らすハトたちも、俺の上は歩いていない。

 出来ることもほとんどない。

 だから、目の前に置かれた店の宣伝チラシを息で吹いてみた。


 ひらり、ひらり。

 宙を舞い、花蓮の足にトンと当たって床に落ちる。


「ああうっとうしい! 隙間風? ちょっと沙甜! のんびり紅茶すすってないでこの風何とかなさい!」

「隙間風くらい、いいじゃない。今日もCランクの勾玉が手に入ったわけだし、あたしはそんなの気にならないほどご機嫌なの」

「まったく、大した王様だこと。あんたの次は、あたしが罰を解除させてもらうからね」


 何も伝わらない。何も届かない。

 俺だけを置いて、みんなの時間は流れていく。


 目頭に熱いものを感じたその時、ドアベルが小さな音でお客様を出迎えた。

 まあ、ドアベルの音が小さいわけじゃなくて、入店するなりサイドテールで元気一杯の子が大声を上げたからほとんど聞き取れなかったわけなんだけど。


「ヘイ、みんな! 友達してるー?」


 柴咲さんの頓狂な挨拶に、店内は歓声で答えた。

 そんな彼女が手を繋いでいるのは、大声に驚いて怖がってしまった遠山さん。


 たしか、シャマインに来たこと無かったよね?

 ごめんね、驚かせて。

 普段は静かな喫茶店なんだよ?

 勘違いしないでね?


 腰が引けた遠山さんの手を強引に引っ張って手近な椅子に座らせた柴咲さんは、今度は朱里ちゃんの手を引いて店の中央に立った。


 ……さあ、本日最後の上演だ。


 この一週間。連日三回公演、すべて満席。

 演目のタイトルは、誰が決めたのやらセンスのかけらもない。


 「朱里ちゃんサーガ」の始まりだ。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 柴咲さんの演出過剰、尾ひれ増量なモノローグは、クライマックスからエンディングにかけて、淡々としたトーンへ切り替わる。

 その口上にあわせて身振り手振り、感情豊かに演技をする朱里ちゃんも、次第に切迫した表情へと切り替わる。


 鎌を振り下ろす、悪魔王サタン。

 切断された腕の激痛に耐えながらも、ヒロインの罰を解除する英雄。


 そして現実とはかなり違う感動的なラストシーンでは、盛大な拍手、歓声と共に、客席の至る所から鼻をすする音が響くのだ。


 ……とは言え、そこの脇役A。毎度毎度ぐしぐし泣いているんじゃねえよ。

 てめえは実際に起こったこと全部見てたろうが。


「花蓮さん、よかったっすね! 本当に良かった!」

「花蓮ちゃん可愛い! また泣いちゃってるの?」

「違うわよ! 花粉症! ただのアジサイ花粉!」


 感動の拍手が笑いに取って代わる。

 お前、すっかり愛されキャラになったな。


「でも、何回見てもドラマチック! 紅威さん、ほんとによかったね!」

「ありがとう! でも、本当に……、ひっく……」

「朱里ちゃん! 泣かないで!」

「うう……、皆様には、なんとお詫びを申し上げたらよいのやら……」


 メイド服のエプロンを両手でくしゅっと握り締めながら、アーモンド目に涙をタプタプに溜めた朱里ちゃんの姿もお約束。

 彼女の姿に涙を浮かべた女子がその手を、肩を優しく抱きしめると、よく頑張ったねと再び拍手が沸き起こる。


 ……さあ、そろそろ覚悟を決める頃合いだ。

 何回体験しても慣れやしねえ。


 辛い時間が、またやって来る。


「で? 朱里ちゃんを救った英雄はどうしたんだ?」


 ……来たよ。

 いいじゃねえか、ほっとけよ俺の事なんか。


「紫丞! お前の相棒、どこ行ったんだよ!」

「そういえばずっと見かけないけど、どうしたの?」


 朱里ちゃん、沙那、花蓮、そして柴咲さん。

 事情を知ってるみんなが、揃って俯く。


 やめてくれよ、悲しくなるから。




 …………なーんて。



 言うとでも思ってんのかこの薄情者!


「ふざけんなこら! いい加減この扱い勘弁しろ!」


 椅子に縛り付けられてるからって、アピールできないわけじゃない。

 俺は必死の体重移動で椅子をガタガタと鳴らして騒ぎ立てる。


「泣くぞ!? いいんだなお前ら! 高校生男子がぼろぼろ泣くぞ? 見てらんないぞきっと!」


 ちきしょう、そんな気持ち悪いもん見せられようとしてるのに無視か!

 それもこれも、おでこに貼り付いたこの紙のせい!


 じたばた暴れる俺に、とたとた近付く足音。

 遠山さんだ。

 こら、いつも言ってるだろうが。

 近付くんじゃねえ。


「…………七色君。何、やってるの?」

「だめよ遠山さん! 察してあげて!」


 うん、朱里ちゃんの言う通り。


「そうそう。姉ちゃん怒らせたら大変だから。こんな目に遭うから」

「でもこれ……、可哀そう」

「だからなんでお前はそう良い奴なの!? 取っちゃだめだから!」


 俺の大声に、びくうと後ずさった遠山さん。

 彼女を、お店中のみんなが拍手で称えてる。

 姉ちゃんもニコニコ顔で見てるけど、遠山さん困ってるだろうが。いじめんじゃねえよ。


 底抜けに優しい彼女が取ろうとしてくれたもの。

 それは俺のおでこに張られた一枚の紙だ。

 冷却シートみたいにくっ付いた紙。そこに書かれた達者な筆文字は。


<認識阻害中。話しかけたヤツはお店から強制退去>


「ほら、遠山! 紅茶飲めなくなっちゃうから、こっちおいで!」


 柴咲さんが声をかけると、店中の連中がニヤニヤして俺を見始める。

 ちきしょう、お前ら覚えとけよ!



 ……この罰ゲームは、もちろん姉ちゃんの所業だ。

 姉ちゃんは、本当に認識阻害とやらをかけることが出来るそうなんだけど、今回はこの羞恥プレイで勘弁してくれるらしい。


 どうしてこんな軽い罰で済んでいるのか、実はちゃんと理解してない。

 あんなに、俺達に勾玉使うなーとか言って怒ってたくせに。

 ……あれ? 俺の罰を解除するなって話だっけ?

 まあなんにせよ、勘弁してください。


「なんか隣の席が騒がしいわね。紅茶がまずくなる」

「こら、姉ちゃん! この罰解除してえから、勾玉使うぞ! いいんだな!?」

「あたしはここから退去したくないからなんにも聞こえないけど、きっとSランクの勾玉でも解除できないと思うな~」


 店中爆笑。

 ほんと泣きそう。


「ねえ、あれから一週間だよ? もう勘弁してくれ」

「姉ちゃんに、大っ嫌いとか言う弟はいらないなあ」

「俺は姉ちゃん大好きだから! 知らなかった? 俺の部屋にきっと姉ちゃんの抱き枕カバーが隠してあるよ?」


 こら、なんだそのイラっとした顔。

 それはUSBメモリを何回ひっくり返しても挿さらない時にしか使っちゃダメ。

 これは男子として最大限の愛情表現なんだ。分かってくれよ。


「なによそれ気持ち悪い。まあ、ほんのちょっとは嬉しいけど」

「だろ!? ほら見ろ、だから俺は姉ちゃんの事大好き……」

「朱里より?」

「………………何をおっしゃるやら、マダム」


 こらオーディエンス。

 ひゅーじゃねえ。

 あと、きゃーもな。やめれ。


「言ってみなさい」


 え? え? これ、どう答えるのが正解なの?

 嘘ついたら朱里ちゃんに嫌われる!

 だからと言って姉ちゃんを敗者みたく言った日にゃ罰の効果がきっと最大に!


「じゃあ朱里と比べても、姉ちゃんのほうが好き?」

「そっ、それは…………」

「ほら、言いなさいよ」

「どっ……、どっちが、なんて……」

「あたしは朱里に負けちゃうの? 負け組なの?」

「……………………準優勝おめでとう」


 冷やかしが爆笑になった。

 そして優勝者には盛大な拍手。

 照れる朱里ちゃん。


 ……で、姉ちゃんは涙目、と。

 ああめんどくさい。


「一番じゃなきゃ嫌だー!」

「さっきから会話成り立ってんじゃねえか! 姉ちゃん、店から退去!」

「じゃあ、誰がそれ解除するの?」

「是非とも引き続きそちらにてお紅茶お楽しみくださいましやがれちきしょう!」


 ああもう、勝てやしねえ!

 俺は今後一生、この人に逆らわん!


 それにしたって、無理やり公開告白させられた。

 返事なんか分り切ってるのに。


「さあ、これに対して紅威嬢の返答やいかに!」


 お調子者男子が叫ぶと、みんなの視線が朱里ちゃんに集まった。

 すると返答を迫られた赤髪ポニテは、照れくさそうにモジモジとスカートを握り締めて、はにかんだ笑顔のまま声を張る。


「雫流は!」


 おおっ!


「あたしの大切な!」


 おおおおおっ!


「友達です!」


 あちゃぁぁぁぁぁ!


 ……そして爆笑、今日一。


「公開処刑だあああぁぁぁぁ!!!」


 いっそほんとに殺して欲しい!

 でも、朱里ちゃんに悪気が無いことはそのデレ切った表情を見ればわかる。

 君の中では、彼氏より友達の方が上なんだね。

 まあ、長いこと焦がれていたわけだし。察してやれないことも無いけど。


 そしていつものように俺を捨て置いてみんなが楽しそうに会話を始める。

 すげえ寂しい。

 あ、ほんとに涙が流れてきた。

 でも腕ごと椅子に縛られてるし、拭けやしねえ。


 そんな俺の目を、赤いハンカチが優しく拭ってくれた。


「……朱里ちゃん」

「おっと、あたしは何も見えてないよ? だからこれも、ただテーブルに置いただけなんだから!」


 そう言いながら、銀のトレーから飲み物を置いてくれた。


 くるっとスカートを翻して、えへへとはにかんだ笑顔を俺に向けて。

 手を軽く振りながら離れていく赤髪ポニテ。


 やれやれ、ほんとに君ってやつは。


 天然おバカな上に、彼氏より友達の方が上とか意味が分からない朱里ちゃん。

 でも本当に俺のことを気にしてくれて、感謝してくれて、親切で、そして……。


 ……そしてやっぱり、途方もないバカだ。


 オニオングラタンスープの香りはチーズが決め手。


「縛られた手でどうしろってんだよ!」


 ほんとぶっとばしてえ!

 ちきしょう、こうなりゃヤケだ!


 俺は口だけで挑んで、案の定、うつわがカポン。

 だが顔面の大やけどと引き換えに、お札も剥がれるという奇跡を起こした。


 さすが俺の勇者様。

 一番苦しかった罰が、まるでとろけるチーズのようにどろっと剥がれ落


「あっちーーーーーーーーーーーーっ!」

 

 そんな、「さらし者で楽しんで♡スペシャルウイークinシャマイン」は、大騒ぎのまま幕を閉じた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「ねえ、沙甜。なんでホットプレート?」

「しー君の復活記念祭なんだから当然! 楽しいことがあったら、これが一番!」

「そうだ。そんなことを言う奴には、今後ホットが付く食い物はやらんぞ」

「あんたはホットに対してどんだけの権限持ってるのよ。好きにしたらいいわ」

「貴様は、今後ホットケーキ様が食卓に並ばなくても構わないと言うのか?」

「…………悔しいけど、今日だけはあんたの背中に付いていく」


 シャマインの二階テラスに響く賑やかさは、照明の丸い輪の中にぎゅっと詰め込まれていた。

 小さなテーブルにホットプレート。

 ぎゅうぎゅうだけど、それがいい。


 まあ、射程外にいて欲しい奴も一人いるけどな。


 そいつは、俺が丹精込めて作り上げた「ちょっと焦がし気味フランクフルト」を盗みながら、話に割り込んできた。


「ウチはホットドッグかなあ。サタン様の作ってくれるやつ、レタスがしゃっきしゃきで超うめえ」

「てめえは犬だしな。ホットドッグがお似合いででででで! 足をくっ付けるな!」


 てめえだけ離れて携帯カイロでフランク焼いてろ!


「じゃあ、あたしはホットサルサかな?」

「びっくり。あるんだ、あったかい猿も」

「なにそれ?」

「今のボケがわざとじゃないとか、世界中の芸人が嫉妬するわ」


 俺の突っ込みに、ニコニコ顔のままウキッと首を捻る朱里ちゃん。

 うん、凛々しい表情もいいけど天然笑顔もいいね!


 一週間前は、思いもしなかった。

 こんな朱里ちゃんの笑顔を間近で見ることが出来るなんて。

 俺は何が何だか分からないうちに彼氏から友達にされちゃったけど、それでも、朱里ちゃんが笑っているなら満足だ。


「鼻の下伸ばしてるんじゃないわよ、そこの桃太郎」

「おお、キジよ! 俺が主役でいいのか!?」

「が、乗って来た舟。私にそっちの小さいソーセージを取りなさい」

「まあ、だんごよりましか。……あの船さ、どんな絵本でも真っ二つだけど、あんなに思い切り行ってよく平気だったなっていつも思う」

「そう? 額に刀傷とか付いて、ワイルドでいいじゃない」

「いや、桃子ちゃんになるところだった」

「そんなTSいらないわよ」


 ティーエスってなんだろう。

 俺が首を捻りながら皿にソーセージを乗せて花蓮に渡したら、姉ちゃんからオニオングラタンスープの器が回って来た。

 昼間に続いてまたこれか。嫌な予感しかしねえ。


 それに俺の分、どこに置いたらいいの?

 もうテーブルぎっちぎちで置くとこないよ。 

 ……まあその理由は、どう見ても俺のテリトリーってとこにスープの器を置いた朱里ちゃんのせいなんだけど。


 こらてめえ。

 下唇を突き出してにらみつけたら、返って来たのはにっこにこの笑顔。


「今日は雫流のお祝いだから、あたしの分も召し上がれ♡」


 あふん。


「今の俺、朱里ちゃんに何を言われても許せる懺悔室と化した」

「ほんと? 実はあたし、そのスープに山ほどトウガラシ入れちゃったの!」

「そっかー、この赤い山はそれかー。山に内蓋刺さっとるやないかこら!」

「うそつき! なんでも許すって言ったくせに!」


 ふくれんなドピュア。

 しかもなんでトウガラシをセレクトしたし。


 そんな俺の器を覗き込んで、沙那がいつもの悪だくみ顔を色濃くした。

 こいつ、また何か思いつきやがったな?

 警戒せねば。


 俺は必死に育てたソーセージたちが三人の胃袋に収まる姿を横目に見つつ、沙那の動きに神経を研ぎ澄ます。

 沙那のイタズラは厄介だからな、ソーセージは諦めて、いたずらっ子に集中だ。

 断腸の思い。ソーセージだけに。


「そうだしー君。あんた、朱里にアレ話した?」

「こら姉ちゃん。人がソーセージな思いで断腸を諦めてまで集中してる時に……、ああ、あれか」


 そういや、まだだったな。


「朱里ちゃん、プチトマトに磁石を近づけると転がって逃げるんだよ。知ってた?」

「あんたの掛け布団、中綿を全部プチトマトにしちゃうわよ?」

「よせ、俺が転がって逃げることになる。……ああ、アレの事か」


 きょとんとしてる朱里ちゃん。

 俺は君のパートナーだしね。ちゃんと説明しとかなきゃ。


「いつも暗号解読に使ってる、俺のアレ。一回寝たら普通に使えるみたい」

「え? ……ほんとに?」

「この一週間、姉ちゃんと花蓮に実験されて分かったんだ。すげえ痛かった」


 空の皿にフォークを置いて、上品に口をナフキンで拭いた花蓮が後を継ぐ。


「今度から連発する時は、昼寝させれば大丈夫よ」

「それを本人で試すんじゃねえマッドSサイエンティスト。大切な記憶がいくつか消えたわ」

「よかったわ、私のパンツの記憶が消えて」

「しましまパンツはそんなに大切じゃねえから覚えてる。でも可愛かったからまた拝ませてぎゃーーー!」


 足に電撃、左から鞭、左斜め前からはオニオングラタンスープが飛んで来た。


「あっちいぐばばばはふーん♡♡♡♡」


 脳が処理しきれなくて叫び声がおもしれぇ!

 じゃ、ねえ!


「しー君、モテモテじゃない」

「変態!」

「エッチ!」

「おもしれえから混ざってみた」

「モテモテの定義な!」


 言葉は時代と共に変わるって姉ちゃんが言ってたけど、くっ! 俺が奴らを食い止める。お前たちは先に行け! 止むを得ん。行くぞアカリ! いやー! シズルがモテちゃう! モテモテになっちゃうー! とかさすがにおかしいだろ。


 だが、ようやく俺の頭でも理解できた。

 いまのコラボ、明らかに破壊力が違うものが混ざってる!


「こら花蓮! 電撃と鞭は我慢できるけどオニグラはダメ! 殺傷力! これきっとどこかの軍が正式採用してる!」


 OG-15型。通称KAREN。

 スープ容器の両脇に付けた金のふさふさが特徴だ。


 でも、顔にこびり付いたチーズを剥がしながらにらみつけた先。

 花蓮の様子がおかしい。

 オロオロと何か言いたげな顔をしてたかと思うと、慌ててふんぞり返った。


「ね、狙い通りね! 熱かったでしょ!」

「やらかしたの!? こんなロングレンジでも有効なのか!」

「やらかしたって言うな! ……くちゅん」


 くしゃみの勢いで、花蓮が皿の縁に手をかける。

 すると皿に乗ってたフォークがどういう奇跡か勢いよく飛び出して、俺のこめかみをかすめたせいで血がたらーり。


「殺す気か!」

「フォークが無くなっちゃったじゃないのよ!」

「文句の宛先、書き間違えてっから。お前んとこのやらかし相談室に送れ」


 あと、食器カゴから次弾を装てんすんな。

 ステーキナイフとか、やる気満々じゃねえか。


「ちょっと雫流! 花蓮ちゃんのパンツ見たら承知しないわよ!」


 今度は朱里ちゃんが俺の血をふき取りながら、膨れた顔で文句を言ってきた。

 いてて! こら、怒りながら拭くな! 力加減っ!


「じゃあ朱里ちゃんの見せていだだだだ! 耳って思いっきりつねられると激痛が走ばばばばば!」


 やめめめめめんかこらららららららっ!


「沙那! なんでてめえもムッとしながら足を絡めて来やが」

「へっくち」


㊎がつ


「ぐおぉぉぉいってえ! デコにクリーンヒット!」

「やだ、また無くなった」

「アイスピックはやめてくれっ! 見えるか? 俺の頭、十分真ん丸!」

「これ、氷を丸くするための道具じゃないわよ?」

「おいバカ王子! お前の情報のせいで恥かいた! なんに使う道具なんだよ!」

「てめえの眉間に当ててトマトジュース飲む道具」

「ふざけんぐばばばばばば!」


 やばいやばいやばいやばい!

 いつぞやの悪夢がよみがえる!


 あの時は窓から辛くも逃げることできたけど、今日は父ちゃんの暗号通り、その脱出口にはニコニコしながら俺を眺める姉ちゃんがいる!

 完全包囲! 雫流シフト!


「しー君、いつの間にハーレム王になったの?」

「ハーレムってこんな罰ゲームなの!? それに、何にもしないで手に入った」

「普通だったら、血と汗と涙を流して死にそうな思いをした末に手に入れるものなんじゃないのかしら」

「それ、分かりやすかった。じゃあ俺はハーレムを手に入れる途中の段階なんだね」


 冗談じゃねえ。いりません。


 しかもこのハーレム美女トリオ、狙いは全員主の命じゃねえか。

 陰謀渦巻いとる。ドキドキする設定だな。


🐦がんっ


「ぐああああ!」


 わ……、忘れてた…………っ!


 空を見上げても、闇夜に溶けた俺の相棒の姿はまるで見えない。


「姉ちゃん! 俺のも早く解除しないと大変! 頭がへこんだらあのアイスピックで綺麗に丸くされる!」

「ダメ。みんなも聞いて。朱里のは例外だから。いいわね?」


 この命令に気軽な返事をした二人に対して、しゅんとしちゃった朱里ちゃん。

 こら姉ちゃん。言い方。


 さすがにちょっと慌てた姉ちゃんは、つとめて優しい声でフォローし始めた。


「朱里がそんな顔すること無いから。使ったのはしー君でしょ?」

「おお、その通りだ。姉ちゃんからの制裁は終わったし、楽しいホットプレート様の前でそんな顔すんな」


 朱里ちゃん、作り笑顔だけど顔を上げてくれた。

 うん、それでいいよ。

 もうこの話を掘り返すこともないだろうし。


「さあ! いよいよ締めの焼きそば、投入よ!」

「いよっ! 待ってましたサタン様!」

「フライ返しは俺に任せとけ! やばい、楽し過ぎてどうにかなっちゃいそう!」


 麺とお湯が投入されると、かき混ぜるのは昔から俺の仕事。

 だんだんほぐれてくのが楽しいんだこれ!


「今夜は最高だなバカ王子!」

「さっきからやたら死にかけてるのに楽しいのか? とんだ変態姫だ」

「ふざけんな。そのうち三分の一を占めるてめえがごほっ! うえーっほ!」


 姉ちゃん! ソースタイミングは考えてっ!


「わはははは! ソースむせてやんのうぉっほっ! えーっほ!」

「あんたたち仲いいわね、昔っから。ほら、しーちゃん。青のりまわして」


 沙那はえっほえっほ言いながら、コップに指を突っ込んだ。

 そして青のりの入った醤油さしの口に水を塗って、キャップを緩める。

 なるほど、そりゃ見もの。


 俺が皿に焼きそばを取り分けて花蓮に渡すと、案の定同じタイミングで沙那が青のりを差し出した。


「ほら、後がつっかえてんだから、早くしろよ?」

「ええ……。分かって……、るわよっ! このっ!」


 そりゃ出ねえさ。

 そのうち瓶の底をポンポン叩いて、キャップが外れてばさあ。

 OK相棒、打ち合わせなんかいらないぜ。せーの、ハイタッチぱーん!


「あんたが責任とりなさいよ!」

「どうして沙那の罪を毎度俺が引き受けるんだ? まあ、いいけど」


 鉄板上空に突き出された盆栽の地面みたいな皿。

 そこでやらかして、くしゃみとかされたら俺がカビキングになる。

 でも、こいつのくしゃみはちっちゃいから平気か。


「ひくちっ!」


 なんて予想通り。

 ほら、青のりは全然飛ばずに皿を真下に落としただけでどあーーーー!


 あぶねえ! ギリギリ両手でキャッチ!


「俺の奇跡の身体能力! すげえぞナイスキャーーーじゅう?」


 皿をキャッチした俺の手の甲。

 オンザホットプレイトゥ。


「あっつーーーーーーっ! 手の甲がレア!」


 朱里ちゃんが後ろから抱き着いて両腕を持ち上げてくれたんだけど、そんな抱き着き方したら!


「肩甲骨にそこはかとなく感じる控えめな幸せっ!」


🐦がんじゅーーーーーーーーー


「あっちーーーーーーーーー! 手の上に落とすなっちちちちっ! うわ、持ち上がらん!」


 このタライ、何でできてるんだ!? めちゃくちゃ重い!


「だれか助けてっ! 手の甲が既にミディアム!」


 必死に持ち上げてもびくともしねえ!

 だが、そこはやっぱり俺の勇者様。

 朱里ちゃんも一緒に支えてくれたおかげで、鉄板から少し手が浮いた。


「こら天然エロ女! 雫流にタライ落とすなんざ十年はええ!」

「エロ……!? 変なこと言わないでよバカ!」

「こんな状況でさるいぬ合戦はじめんなお前ら」

「てめえの方がバカだろが! いいから手ぇ離せ! これはウチのだ!」

「早く持ち上げなきゃでしょ!? ちょっと、手を掴まないでよ!」

「こらバカ王子! 一緒に俺の手も掴むんじゃねばばばばばば」


 感電して動かない! 助けてっ!


「このままじゃウェルダーーーーン!!」


 ………………

 …………

 ……


 確か今日の昼間、俺はこんな時間が楽しかった、そう言ったはずだ。

 バカじゃねえの!? 過去の俺よ!


 なんだよこれ、みんなそんなに俺を殺したいの?

 認識阻害中の方がましだったんじゃね?


 魔眼を開いた姉ちゃんが手を貸してくれなかったら大参事だ。

 いや、十分大参事だけど。


「うおおおおお、手の甲が香ばしい……」

「それ、痛さの形容詞じゃないからね? ……しー君は、大騒ぎして焼きそばを台無しにした罰として、後片付けをしていきなさい」

「このこんがりした手で後片付け?」

「ああ! 姉ちゃんの事、大っ嫌いな弟が反抗期!」


 うわ。この手で一生俺をこき使う気だよこの人。


「悪かったって」

「このままじゃ、また認識阻害の術式を……」

「ほんと悪かったからあの嫌がらせだけはやめて! すりゃいいんだろ後片付け!」

「ふふっ。だったら最初からそう言いなさい。朱里、手伝ってあげてね」

「はい!」


 でたよ真面目っこ。

 いや、優しい子なら普通なのかな。


 ……本当に良かった。こんな優しい子が幸せそうに笑ってくれて。

 そんな朱里ちゃんは、月の光を背に受けながら、太陽のような笑顔で俺に微笑んでくれた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「手、大丈夫? 散々だったね」

「……正直に言おう。ちょっとだけ、楽しい」

「どMは部屋でこっそりとやってくんないかな」


 痛みや辛さは忘却しやすいらしい。

 そして、楽しかったことはいつまでも覚えているという。

 ……人間が生きていくために必要な脳の働きらしいけど、ちょっと待とう。

 俺には死にやすくなるメカニズムなんじゃね?


 静かな夜だ。

 聞こえるのは床を拭く音と、朱里ちゃんの声だけ。


 二人の世界。

 そんなロマンチックな世界で、俺が真性なんじゃねえかという話。

 ちげえから。


「痛かったりしないほうがいいに決まってるけど、楽しいことに変わりはねえ」

「痛いだけで結構いやだと思うけど」

「でも、楽しかったんだ。みんなといて」

「……うん。あたしも、楽しかった」


 床を磨いていた姿勢から顔を上げると、ぱっと花が咲いたような微笑が俺を見つめていた。


 さんさんと輝く笑顔が、俺の心をぽかぽかと温めてくれる。

 時に涙でその光がかげることもあるけど、朝になったら再び顔を覗かせる。


 まるで太陽だ。


 俺は、太陽みたいな子に恋をしたんだ。


 そんなお日様は、床を靴でこすって油はねを探しながら照明の向こうに消える。

 俺は目を凝らしながら、その姿を追っていた。


「ふう! こんなもんかな!」

「お、おお。そうだな」


 危ない危ない。ちょっと見惚れてたぜ。

 そうでなくとも友達に格下げされたわけだし、下手な事したら嫌われる。

 えっと、なんか誤魔化せる話題は……。


「そうだ。朱里ちゃんサーガ見てやっとわかった。大変だったんだな、罰」


 友達をハトが攻撃してしまう罰なんて。

 そんな凶悪な罰、聞いたことねえよ。


「そう、大変だった。辛かった。でも、それを解除してくれた人がいたんだよ?」

「おお、そうなんだ。……良かったじゃねえか」

「うん。……その人にはね、最初、友達になって欲しく無くて、大嫌いって言い続けてきたの」


 緑が穏やかに騒めいて、朱里ちゃんの髪を揺らす。

 暗がりの中の彼女は、その表情を俺に隠したまま、静かに言葉を紡いでいった。


「そして、ひょっとして友達じゃなくて彼氏なら平気なのかなって思って、そんなお願いをしてみたんだ」


 スレンダーな足が、ゆっくりと白く染まっていく。

 暗闇の中にいた少女が、光の中へ。

 俺に向かって歩み寄る。


 その表情を読み取ることが出来る直前に、俺は彼女の足を言葉で止めた。


「朱里ちゃん! 改めて聞かせてくれ!」


 胸の位置にはすにかかった光の中で、朱里ちゃんは手を組んだ。

 まるで祈るように、震える手と手をお互いに握り締めるように。


「朱里ちゃんは、俺の事、どう思ってますか!」


 罰は消えた。

 今こそ朱里ちゃんの本当の気持ちが分かる。


 俺が居住まいを正すと、朱里ちゃんはゆっくり、光の中にその表情を現した。


 ……そこには、頬を真っ赤に染めて俯く、最愛の人がいた。


 彼女は口を開いて、すぐにそれを閉じて。

 肩を震わせながら、口角を幸せそうに上げて。

 そして涙を一つ零しながら、満面の笑みで答えてくれた。


「雫流はあたしの、友達第一号!」

「ちげえ!」


 ここで天然!? あほか!


「そうじゃなくて!」

「あたしを救ってくれた英雄!」

「まじかうれしーーーーっちげえ! 俺の事、好きか嫌いかでお答えください!」


 俺、力説。

 すると朱里ちゃんは、頬っぺたを両手で押さえながら、きゃーとか言い出した。

 なんだよ、今までのは照れ隠し?


「じゃあやっぱり、俺のこと……」


 俺にも伝染するほどのニコニコな笑顔。

 朱里ちゃんは真っ赤な笑顔で大きく頷いて、


「うん! ちょっときらい!」


 🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦

 がんごんげんがんごんがんごんがん

 🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦

 げんがんごんがんげんごんがんっ!


「……えええぇぇぇええええ? ちょっと嫌い!?」

「ほぼふつう!」


🐦がんっ💔


 きゃーって。じたばたって。なにさ。


「あー恥ずかしい! なによもう、変なこと言わないでよー!」


 朱里ちゃんは両手でぱたぱた顔に風を送ると、アーモンド目をちょっと潤ませながら上目使いに俺を見つめて、口元をグーで覆った。


「でも、助けてくれてありがとうね! 五月の、素敵な物語。メイ・テイル! あたし、一生忘れない! そうだ、本書こ!」


 ……何? 照れてたの、コイバナ系だから恥ずかしかったせい?


「……俺、元彼」

「うん! きゃー!」

「現在は?」

「すっごく大切な友達一号!」

「俺の功績」

「一生忘れない! すっごくかっこよかった!」

「恋愛感情」

「若干嫌い!」


🐦がんっ💔


「……友達としては?」

「大好きっ!」


🐦がんっ💔


 これ、そこなハト様。

 さっきから、ドキドキとは関係なく合いの手みたいにタライ落としてくけど。

 あと、割れたハート書くんじゃねえよタライに。

 へこむわ。


 なんだよ、ほぼふつうって。若干嫌いって。

 ほんと女の子ってやつは……。


「さて、これからもあたし達の活躍は続いていくんだよ? 頑張ろうね!」

「それ、もうこれからなにも進展しない魔法の呪文」

「そんなこと無いよ! だって雫流は、あたしのベストパートナーでしょ?」


 そう言って、片足を曲げてくるりと回る赤い妖精。

 心からの笑顔は、優しさと誠実さが作り出した魔法のよう。


 ほんと、溜息しか出ねえよ。

 もういいや、片思いのまんまで。


 俺はその場に力なく尻餅をついて、スポットライトを浴びて踊り続ける妖精を苦笑いと共に見つめた。



 ――俺は、一つ成長したのかも。

 今回の経験を経て、女の子は謎でできていると知ることになった。


 俺達は、朱里ちゃんに隠された大きな「謎」を解き明かしたはずだ。

 だというのに、未だに君は謎だらけ。


 めいている、だっけ?

 隠れた「謎」を暴いた物語。


 そんなの本にしたって読者は納得しねえから。

 だって、ヒロインの謎、全然回収しねえで物語が終わっちまったじゃねえか。



 だから、せめてタイトルはこうしよう。

 君はきっと、これからもずっと、


 「謎めいている」




 おしまい。

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シップウめいている ~続・毎朝五分の暗号解読/おやすみ前にラブコメディー~ 如月 仁成 @hitomi_aki

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