**側仕えは出会う(3)

          *



 山ノ井の出入り口から揺岩へと至る道に入って三日。私はまだ主と合流できずにいた。


「慧せ、さまーっ! け、せんさまっ! ごほっ、ごほっ」


 声はとうに枯れ、ひどくかすれていた。それでも呼ぶことをやめられなかった。

 少しでも早く主に迎えに来たことを伝えたかった。主があきらめることはないだろうが、それでもきっと不安になられているだろうから。


「慧泉様ー!」


 こうして私は歩き続ける。その道のりはひどく長く感じた。



 昼も夜もないこの道は、ともすれば時間感覚を失いそうになる。それが生き残ることに対しての何よりの敵だと気づいたのはさらに一日ほどたってからのことだった。

 その頃にはもう私の時間感覚も狂い始めており、私は大きな不安を抱いた。


 だが、ちょうどその時、進路の先に、岩とも違う塊が目に入る。それがうずくまっている主ではないかと思った瞬間、私は駆け出していた。


「慧泉様!」


 安堵と共に歓喜が湧き起こる。ようやく、ようやく見つけられた。喜びはあふれ、疲れきっていたはずの体も疲労を忘れ、ただただ夢中で駆け寄った。

 そして――。


 あと少しで主に手が届くというところで、ピタリと足が止まった。

 立てた片膝に額をよせる主。私の声が届いているはずなのに、主は顔を上げない。

 最悪の予感が頭を過ぎる。


「慧泉様……?」


 主の肩がピクリと動いた。それで主の無事を確認する。

 だが、同時に私は気づいてしまった。たった一人で項垂れている主。そのすぐそばに、あるべきはずの姿がないことに。


「慧泉様……。申し訳ありません、慧泉様」


 私はその場に膝をつくと、そのままぎゅっと主を抱きしめた。

 主の肩が小刻みに震える。それは私の予想が事実であることを裏づけていた。


「ズイ……」


 鼻にかかる弱々しい声。主は泣いていた。


「ズイ、じいが……」

「いいです。何もおっしゃらないでください、何も……。慧泉様は悪くありません」

「けど」

「遅くなってしまい……申し訳ありませんでした」


 主の手が私の背に回る。そしてぎゅっと服を握りしめ、主は声を押し殺して泣いた。時々漏れる嗚咽が、まるで魂の悲鳴のようで、私の胸に刺さった。


「食料が……減っていないことに気づいていなかったんだ」

「――え?」


 私は首を傾げる。食料が減っていた、の間違いではないだろうか。私は、私の到着が遅かったばかりに食料が尽きてこの事態に陥ってしまったのだと思っていた。まさかそうではなかったというのだろうか。


「じいは、最初から……私のために食事を制限していたんだ。支度はいつもじいがしてくれていて……じいの器の中身が――ほとんど空だったなんて、私はまったく知らなかったんだ」


 私は息をのむ。

 食料はちゃんとじいの分も用意されていたはずだ。それをじいは食べなかったというのだ。


「私のほうが若くて丈夫だ。だから、むしろ私のほうが食べなくても大丈夫だったんだ。じいこそちゃんと食事しなくちゃいけなかったのに、じいは私に食料を譲って」


 服を握る主の手に力がこもる。

 思い出さなくていい。話さなくていい。だがそれが言葉になることはなく――。


「貧血で倒れて……頭を打って、そのまま――」


 主に尽くし、悟らせず――その心意気は素晴らしいが、今回ばかりはもう少し自分を大事にすべきだったかもしれない。


「あとちょっとだったのに。そんなところで無理なんてしなくても、食糧はもたせられたのに、なのにっ」


 私はかける言葉が見つからなかった。主の言い分はもちろん、じいの考えもよくわかる。

 食料が足らなくなってからでは遅いのだ。最初から節約しているのと、直前になって制限するのでは食料の減りも、負担も大きく違う。

 先が見通せないからこそ、何が何でも主を無事に帰そうと思うからこそ、じいはそんな行動をとったのだろう。


 きっと、じいは満足していっただろうと思う。だが、それを慰めにするのはまた違う。

 私は小さく首を振って、抱きしめていた主から体を少し話す。


「慧泉様。少しおやすみになられますか? 私が側におりますので」

「う、ん……」


 じいが亡くなったのがいつかはわからないが、おそらくそれ以降は眠ることなどできなかっただろう。


 敷物を広げ、膝を貸して横たわらせれば、主は気を失うようにして眠りに落ちていった。

 まなじりに残る涙が痛々しい。私はそれを手巾にそっと吸わせ、その瞼を手で覆った。


 わずかでもいい。どうか夢のない眠りを。




 主とほとんど言葉を交わすことなく、数日かけて来た道を戻る。

 そして何とか目印として差した杭のところにたどり着くと、私は大きく息を吐いた。


「慧泉様、こちらが出入り口です。参りましょう」


 来たとき同様、薄絹をかき分けるようにして出入り口をくぐる。すると、その先には星空が広がっていた。そして、その闇の中に、轟々と焚かれるかがり火が見えた。


「スイ! 慧泉!」


 真っ先に気づいたのはリョウだった。そのすぐ横では弟君が眠そうに目をこすっている。


 リョウは私たちに駆け寄り、そしてやはり息を飲んだ。ここにじいの姿がないことに気づいたのだろう。

 確認するような眼差しが私に向けられ、私は小さく頷くことで答えた。


「慧泉、大丈夫か。ふらふらじゃないか」


 リョウはじいのことには触れず、主の私とは反対側に立ち肩を貸す。


「スイから聞いてるかもしれないが、ここは香稜神宮だ。中に部屋を借りてる。まずはそこで休ませてもらおう。――飯は?」

「大丈夫です。それよりあまりよく眠れていないようなので薬湯を」


 主の代わりに私が答える。今の主はとても話をできるような状態ではなかった。


「わかった。部屋に案内したらすぐに――」

「いいよ、リョウ。私が用意してきます」


 申し出たのは弟君。主を支えていて手が離せないリョウを見て、それを申し出てくれたのだろう。


「助かる」

「それで、部屋は?」

「こっちだ」


 魂が抜けたような主を、私たちは急いで部屋に運び入れた。


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