**側仕えは出会う(4)
*
いつのまにかうたた寝をしてしまっていたらしい。はっと顔を上げると、褥から半身を起こした主の姿が目に入った。
「慧泉様! まだ起き上がってはいけません」
私は膝をついたまま褥の横へとにじり寄る。
主はゆるゆると首を振った。それはやんわりとした拒絶で、無理をしているだろう主に対して何も言えなくなる。
ただ眠れはしたのだろう。顔色は昨日より断然よくなっていた。
「スイ」
「――はい」
主がゆっくりと顔をこちらに向ける。そして間もなくその視線と私の視線とがかち合った。
「スイ、ありがとう」
「――っ」
私は思わず顔をうつむける。
主の言葉に喜びが湧く。けれど喜んでいる自分が後ろめたくて、助けられなかったじいに申し訳なくて、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
「まだ言っていなかっただろう? 出入り口を見つけてくれて……迎えに来てくれて、ありがとうって」
主は本当にそう思っているのだろうか。もっと早く来てくれればじいは死なずに済んだのに、と恨めしくは思わないのだろうか。
じいの死が主の心に大きな傷を刻んだことは確かだ。それは再会したときの主の様子からして確実だった。
「揺岩に向かう道すがら、じいとどんな話をしていたと思う?」
「……それは、お役目の話でしょうか」
修繕師に関しての記録は少ない。揺岩にたどり着いたあとどうするのか、どうやれば揺岩の傷を修繕できるのか、具体的なことは知られていなかった。
そんな状況であるから、真面目な主は、どのようにすれば修繕できるのかなどをじいと相談していたのではないだろうかと思った。目を瞑ればそんな主の姿が容易に想像できる。
「あぁ、うん……ある意味そうかもしれない。でも、修繕師のお役目についてではないよ。修繕師ではなく主としての役目についてだね」
「主としての役目……?」
「そう。スイに側仕えとしての役目があるように、私にも果たすべき主としての役目がある。そのことをじいに諭されていたんだ」
「そんな、まさか、慧泉様が?」
今、私はどのような顔をしているだろうか。
主もじいも私の尊敬してやまない方々だ。主に諭されるべき点があったなんて考えられないが、諭したのがじいであるというなら一概に否定もできなかった。
「スイ。じい曰く、私たちには会話が足りていないそうだ。相手をしてくれるね?」
「……はい」
主の口調は有無を言わせぬもので、私は躊躇いつつもうなずく。
だが、うなずいたはいいが、一体何を話せばいいのかわからない。主も主で黙ったままだ。
ふっと視界の隅に動くものを捉え、私は視線を部屋の入り口へと向ける。
そこでは入り口に立てた御簾が風に揺れていた。御簾に映り込む木々の陰や、木漏れ日がきらきらと輝く。その何気ない光景は私の心を穏やかにした。
いつぶりだろうか。景色のすべてに色がある。鮮やかさがある。これはすべて主がお戻りくださったおかげだ。
「一ヶ月、以上も離れていたのですね」
「あぁ……そんなにたっていたんだ。スイとこんなにも長い時間離れていたのは初めてだね」
「はい」
主に救われ、側仕えになってから、長くとも三日以上顔を合わせないなんてことは今までなかった。
いつもそばにいるはずの人がいないというのはひどく寂しくて、つまらなくて、けれど、今回に関してはそうなった経緯が経緯だけに、悔しく、苛立たしく、何より苦しかった。
「寂しかった?」
私が飲み込んだ言葉を、拾い出そうとするかのように主が尋ねる。それでようやく足りなかった会話が何であったのかに気づいた。
いつも飲み込んでいた思い。それこそ言葉にすべきものだった。
「はい。あ――いえ、それどころではありませんでした。慧泉様に捨てられたと思って……とてもつらかったです」
「うん、ごめん。でも、信じてた」
「信じたいと思っていた、の間違いではなく?」
ふとリョウの言葉を思い出す。主は私の行動から、私のことを信じきれなくなって、だからこそ試すような真似をしたのだと言っていた。主が修繕師に名乗りを上げてから出立するまでのわずかな時間で、その主の不信感を拭えたとはとても思えない。
「うん。信じていたんだ」
それはまるで本人が意図せず信じてしまったと言いたげで、私は困惑を浮かべる。けれど主は、それきり、また黙ってしまう。
リョウといえば、あのどさくさに紛れてひどく好き勝手なことを言われていた気がする。確か、勘違いしているだとか、主のことを何もわかってないだとか、散々な言われようだった。
主が話されたくないならそれで構わないが、聞きもせず引き下がり、それでリョウに遅れを取るのは悔しい。私が主の一番の理解者でありたいという気持ちは今なお変わっていなかった。
「リョウ兄が……慧泉様が傷つかれたのは、慧泉様が私を守りたいと思っているのに、共に死出の旅路に出たいと言ったからだと聞きました。それは本当ですか?」
どうして信じてくれたのですか――そう聞こうとした口から、まったく別の言葉がこぼれ落ちた。そして、自分が自分で思っていた以上に、このリョウの言葉を気にしていたことに気づかされる。
「リョウが伊雪の側仕えになったころの話だね。――うん、その通りだよ」
そして主は大切な思い出を思い返すかのように目を細める。そこに浮かんでいるのはいつになく優しい表情だった。
「そっか。その話もしてなかったんだね。――スイ。お前と出会った日、私はお前に救われたんだよ。あれからずっと、私はスイに救われ続けてきたんだ」
救われた、とはどういう意味だろうか。私が主と出会ったのは八歳のこと。私はまだほんの子どもで、しかも普通の子ども以上に何もできず、何もわからなかった。
「あの頃、次期帝争いに私が巻き込まれていたのは知っているね? そう、スイが来たのは、ちょうど親族たちが頻繁に私に接触してきていた頃だったんだよ」
そうだった。主が本格的に追い込まれ始めた頃だ。さらにその頃は、弟君たちも自力で動き回れるようになって、屋敷の大人たちの目が、弟君たちから離せなかった時期でもあったはずだ。
「私もまだ大人とは言えない年頃だったからね。誰も自分を見てくれない、助けてくれないと――少し、いや、だいぶ悩んでしまってね」
両親も使用人も弟君にかかりきり。やってくるのは自分を次期帝候補としてしかみない腹黒い親族ばかり。
そんな孤独を強く感じていた時、主は私と出会ったのだという。
「澄んだきれいな目で、まっすぐ私を見ていて……あのとき、スイだけは私を見てくれると感じたんだ。身分も何もかもを無視して、本当の私を見てくれるだろうって」
私の存在が、壊れかけていた主の心を救ったのだと主は語った。
「だから、あの日。スイに死出の供にと言われた時、衝撃だった。私はスイに長生きしてほしいと思っていたから。死に急ぐようなことなどしてほしくないと思っていたから。そんな私の思いが伝わっていないって気づかされて愕然とした」
主としては精一杯伝えてきたつもりだった。私が主の家族で、弟で、だから長生きしてほしいのだと。
私も主に大切にしてもらっていることはよくわかっていた。けれどそれほどの想いを注いでくれているのだとは気づけていなかった。
私は、私のような忌み子が主の家族を名乗るなど、主の汚点にしかならないとそればかり考えて――主の想いを蔑ろにしてしまったのだ。
「それに、スイは私を見ていたのではなく、主としてしか見ていないんじゃないかって思ったら……私はスイに私自身を見ていてほしかったのにって……。スイより年上なのになさけないよね。大人げないってわかってたけれど、これまでと同じようには接せなくなってしまったんだ」
「主は勘違いなさっています。あの言葉は主従としての言葉ではありません。主だからではなく慧泉様だから私は、そう希ったんです」
側仕えとしての自分と私的な自分とを完全に切り分けることはできない。同様に主が主であることにも変わりないが、それだけではないと知ってほしかった。私にとっても主は恩人で、ただ一人のお方だった。
「でも、そうですね。あの時の言葉は忘れていただいても構いません。あの時の私は焦っていたのです。リョウ兄が慧泉様の心を持って行ってしまったと思って。だから何とか慧泉様の心を自分に向けたくて、必死で、あのような言葉を」
「そう、だったんだ」
私は色々と間違えてしまった。今思えばあれは、確かに本心からの言葉ではあったが、主のためではなく、自分のために発してしまっていたように思える。
こういった失敗はこれだけではなかった。
「それから、慧泉様。慧泉様に幻のお姿を押しつけてしまい申し訳ありませんでした。ですがあれは、慧泉様にそうであってほしいという私の願望ではありません」
リョウが弟君の元に移ってから、私は主の本当のお姿を見れていなかったかもしれない。だが、私が見ていた主のお姿が、すべて幻だったとも思えなかった。
「あれもまた、慧泉様のお姿なんです」
「何言って……」
「多主観認知です、慧泉様。私は慧泉様の別の一面を見ていたんだと思うんです。ですから――」
大事なのはリョウが言っていた――私の理想を壊すようで主は相談も何もできなかったという言葉。その認識だけは改めてもらわなくてはならない。
「慧泉様はいくらでも、どんなお姿でもお見せくださっていいのです。私が慧泉様に失望することは断じてありません。私はどんなお姿の慧泉様でも受け入れられます」
主は唖然とした様子で私を見る。口を半開きにしたその表情は少しだけ間抜けだ。また主の新しい一面を目にした気がした。
「まったく……私の側仕えはずいぶんと生意気になったみたいだ」
「がっかりされましたか?」
「いいや。それもまた、お前なんだろう、スイ」
先ほどの自分の言葉を返され、わずかに驚く。だが、それはすぐに喜びに変わった。
「はい」
主が私を見てくれる。それがとてつもなく嬉しかった。
「……じいの言うとおりだったね」
「のようですね。やはりじいには敵いません」
じいにはきっとこの結末が見えていたのだろう。私はじいに深く深く感謝した。
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