**主とヤツは隠し事をする(3)

          *



 料理を受け取り、先発組の出発から遅れること一刻。ようやく屋敷を出た。

 私と青年の二人だけであるから、背負子しょいこを背負っていても進みは早い。それでももっと早くと気持ちは急いて、自然と足が早まった。


「そんなに急いでは途中でばててしまいますよ」


 何度か連れの青年に忠告され、速度を落とす。香稜ノ戸は山頂近くにあるため立派な登山だ。無計画に進んでは、青年の言うようたどり着く前に力尽きてしまうだろう。


 そうしてたびたび歩調を緩めていても、かなりの速度であることには違いない。

 木陰の多い、涼しい山中にありながらも、汗は滝のように滴り、呼吸も大きく乱れていた。無理をさせている足はパンパンにれあがり、一度止まったらしばらく動けなくなるだろうことが予想できた。


 そんな無理の甲斐あってというべきか、目的地は着実に近づいていた。

 だが、同時に普段と違う山の様子に気づく。


 香稜ノ戸は、山頂近くの渓谷。三段滝の二段目、その滝壺というべきところに存在していた。

 ゆえに目的地に近づくということは滝に近づくということでもあり、この辺りまでくると耳を覆いたくなるほどの激しい滝の音がするのが常だった。

 だが、今はその音が全く聞こえない。遠くに沢の音は聞こえるが、普段の音量とはあまりにもかけ離れていた。


「戸が、開いた、からか」

「その、ようです、ね。私も、驚き、ました」


 青年もそれに気づいていたらしく、息を乱しながらも同意した。


 香稜ノ戸が開くと、それを覆い隠すように存在していた滝が流れを変えると話に聞いていた。何でも香稜ノ戸に人を入れるために、滝の水が地中を流れるようになるのだとか。

 とはいえ、香稜ノ戸が開くのは不定期ではあるが、およそ百年に一度程度。実際にそれを目にしたことのある者はいない。話として知ってはいても、驚かずにはいられなかった。

 これで実際に香稜ノ戸を目にしたらどれほど驚くことになるのだろうか。


 そんなことを考えながら進んでいくと、やがて、人のざわめきが聞こえるようになった。

 さらに足を早めて山道を登りきると、そこはちょうど、一段目の滝のすぐ横で、眼下に本来であれば滝が流れているであろう亀裂と、その横の開けた場所が見えるようになった。


 そこには先に到着した人たちが小さく見えていた。そこに真っ赤な敷物が敷かれ、料理が並べられている。どうやらすでにうたげは始まっているようだった。


 時刻はまもなく日が頭上に至るという頃。急いだ割には時間がかかってしまっていた。

 私は気をつけて滝の横の急な岩場を下る。最後のここがもっとも危険な場所だ。気は抜けなかった。


 そうして下にたどり着き、安堵したのも束の間、すぐに到着に気づいた女性たちが駆け寄ってくる。


「お待ちしておりました。最後のお料理ですね。お預かりいたします」


 背負子を下ろして預けると、女性が中身を次々と運んでいく。その手際の良さは見惚れるほどだった。


 こんなところで宴をと驚くかもしれないが、これが習わしだ。

 国礎修繕の儀では、修繕師が戸の向こうに行く前後に簡単な宴を開くことになっていた。修繕師は好物として用意してもらった料理を一口ずつ、全種類を口にしてから出発する。そして、この場に残された者は、持ってきた料理をすべて食べきってから下山するということになっていた。


 修繕師が香稜ノ戸の向こうに行くのは、日が頭上に至った時だ。だからその少し前から祈祷が始められる。

 今は、もうまもなく祈祷が始まろうかという頃。私が持ってきた料理を最後の一品として召し上がっていただき、すぐに祈祷に移ることになるだろう。


 主を探しながら歩いていると、ふと視線がある一点へと目が吸い寄せられた。


 普段であれば滝があるところ。その滝壺とでも言うべきところに、ぽっかりと大きな穴があった。幅も高さも同じくらいで、おそらく大人二人を縦に並べたくらいの高さだろうか。その向こうには岩壁の通路が奥へ奥へと伸び、最後は闇にのまれるように見えなくなっていた。


 そしてその入り口部分には、そこがただの滝つぼではないと証明するかのように、観音開きの扉がついていた。素材が何かはわからないが、鈍色にびいろの、一見すると金属のようにも見える重厚な扉が、大きく外側に開かれていた。


 あまりの衝撃に、気づけば足が止まっていた。私ははっと我に返り、再び主を探し始める。


 主に頼りにされることは少ないが、これでももう十一年、主の側仕えをしている。主を見つけることくらい容易なことのはずだった。

 だが、いつもであれば一目で見つけられる主の姿が、この時は、すぐに見つけることができなかった。


 その理由はまもなくわかった。

 何故なら主は、決して座られるはずのないお席に座られていたからだ。


「慧泉様!? そんな、どうして! どうして慧泉様がそちらに座られているのです? どうしてそんなお召しものをまとわれているのです!?」


 血の気が引く、とはこのことを言うのだろう。

 主はこの宴の上座、修繕師が座るべき席に座られていた。しかも修繕師特有の伝統的な衣を纏って。間違えようのない状況が出来上がっていた。


 私の声で気づいたのだろう。主が顔を上げた。視線が交錯する。それでも表情の変わらない主に、私の心臓が嫌な音を立てた。

 そうしている間にも、先ほど女性たちに預けた料理が主の前に並べられていく。最後の料理だ。それを召し上がられたら、主は――。


「スイ、こちらへ」


 私は招かれるまま主の側に行き、主の斜め前に膝をついた。

 やはり主の瞳は揺るがない。主は自分が修繕師になると、とっくに決めていたということか。私に一言の相談もなく。


「スイ、あのね」


 主が言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。これが言い訳であるならば聞きたくない。思わず顔が歪んだ。


「これは私が決めたことなんだ。わかってくれるね」

「――それだけ、ですか?」


 違う。こんなことを言いたいんじゃない。けれど、主のあんまりな言葉に思わず反発してしまう。


「うん」


 どうして、なんで、ひどい。自分にも制御できない感情が心の中で荒れ狂う。

 言い訳なんて聞きたくない。けれど、言い訳でもなんでも理由くらいは話してくれると思っていた。

 主には、私など納得させる必要すら感じない相手だというのだろうか。


「慧泉さ――」

「修繕師殿、まもなくお時間です。お急ぎお召し上がりください」


 もう一度問おうとした私の言葉は、神祇官のそれによってさえぎられてしまった。

 時間が押しているのは確かだろうが、意図的に邪魔されたようにも感じる。神祇官にとっては、修繕師に心変わりされては困るだろうから。

 主は逡巡しゅんじゅんするが、結局、言われた通り最後のお料理に箸を伸ばす。


「駄目です」

「スイ……」


 私がそれを邪魔するように手を出せば、主が見るからに困惑の表情を浮かべた。その弱り切った顔に、私の心はすぐに負けてしまう。

 私が手を引き戻すと、主は最後のお料理を口に運んだ。


「どう、して……」


 本来であれば、主が修繕師に選ばれることはなかった。これは主が志願したからこその結果だろう。

 どうして志願などしたのか。どうして相談してくれなかったのか。どうして黙っていたのか。

 聞きたいことは山ほどあった。


「ごめん、スイ」

 主は泣きそうに顔を歪める。


 泣きたいのはこっちだった。馬鹿みたいだ。主が悩み、死を決意していたその瞬間も、私は何も知らず、主が選ばれることはないと安心しきって、主の苦悩に寄り添うこともなく、一人、平穏な日常を過ごしていたのだから。

 私は主の側仕えなのに。


「だって、私…何も、気づけな…て……」


 嗚咽おえつが込み上げてきた。自分が何を言いたいのかもわからず、頭が混乱する。

 ただ、もどかしくて苦しくて辛くて怖くて、それを吐き出したかった。


 本当はわかってる。主が何を考え、これを決断したのか。どうして私に相談しなかったのか。

 私は自分の浅慮を悔やんだ。少し考えればこの事態は予想できたことだった。主は誰よりも何よりも弟君を大事にされていたのだから。


 主がこれまで親族たちに悪く言われていても黙っていたのは、何も帝のためだけではない。批難が自分に向いている間は、弟君にそれが向くことがないと知っていたからだ。

 それほどまでに弟君を愛していらっしゃった主が、みすみす弟君を修繕師にさせるわけがない。代わりに自分が行くと言い出すことくらい、簡単に予想できたことだった。


 それなのに私は、こんな大事なことを見逃してしまった。主が選ばれないことに安堵して、それ以上考えようとしなかった。

 その結果がこれだ。私は今、私がもっとも大切に思っている主を失おうとしている。


「では……わ、私を、お連れいただけるのですよね」


 修繕師には揺岩にたどり着くまでの道中、供として一人の付き添いが許されていた。供は修繕師自身が選び、本人に同行を依頼する。供に選ばれる者にも知人との別れなどが必要となるため、早い段階で話をされるのが常だった。

 主が修繕師として行くことすら知らなかった私にそのような話は当然、来ていない。だが、それでも問わずにはいられなかった。置いて行かれることなど考えたくもなかった。

 すがるように主を見つめ、そして答えを聞くまでもなく絶望する。


「付き添いは、じいに頼んだ」


 主の後ろに控えていたじい、藍賀家の前のご当主が小さく頷いた。

 全身が砂になって崩れ落ちていくようだった。手も足も、他のすべても、全く自分のものではないかのように感覚が失われる。

 私はがくりと両手をついた。目の前が真っ暗になる。


「私は、弟たちが大切なんだ」


 主の声が遠くに聞こえた。弟たち――伊雪様とリョウのことか。

 本当に、どこまでも主の目には、私の存在は映っていないらしい。胸が締め付けられるように痛んだ。


「不甲斐ない兄でごめんね」


 私は目をぎゅっとつぶる。

 わかっていた。これは私の片思いであると。死出の供として連れて行けるほどの絆は、自分たちの間にはないのだと、私はよくわかっていたはずだった。

 けれど、主は知っていたはずだ。私が何を望んでいるか。知っていてなお、主は私を選ばなかった。

 その事実がなによりも辛かった。


「スイ、最後に一つ――」

「嫌です。聞きたくありません。慧泉様なんて……嫌いです!」


「修繕師殿。お時間です」


 神祇官の声が冷たく響く。

 それでも主はまだ何か言いたげにしていたが、私は顔を俯けたままそれを無視した。

 そんな主を再度、神祇官が呼ぶ。今度は主もしぶしぶ頷き、立ち上がった。


「あ……」


 途端に胸に沸き起こる大きな喪失感と後悔。離れていく気配に、慌てて顔を上げたが、主はもう振り返ってはくれなかった。



 それからすぐに帝が姿を現し、祈祷が始まった。

 主とじいは、大きく口を広げた香稜ノ戸の前で膝をつき、頭を垂れている。そんな二人の前に神祇官が立つ。神祇官は祝詞をあげ、御幣ごへいを奉納した。


 その間、私は主の背から一瞬たりとも目を離さなかった。

 それなのに、気づけば主の姿は私の視界から消えていた。

 まだ祝詞は続いている。主はそこにいるはずだ。となれば、これはいつもの視覚異常で、それがとんでもなく悪化している状態なのだろう。視界全体がぼやけ、岩の灰色と木々の緑、敷物の赤が辛うじて区別できる程度しか見えなかった。


 どうしてこんなときに、と唇を噛む。腹立たしさと焦りで、あっという間に冷静でいられなくなった。

 役に立たない自分の目。主の見ている景色だけでなく、主の姿さえ映さぬというのなら、こんな目などいらないと思った。くり抜いてしまえばいいと思った。


 衝動的に自分の目へと手が伸び、そのまま抉り取ろうと力を込めた瞬間、パシッと誰かが私の腕を掴んだ。


「馬鹿、何するつもりだ」


 この間で邪魔してくる人物など一人しかいない。いつもどこから嗅ぎつけて来るのかわからないが、私の邪魔ばかりする私の天敵だ。

 私はすぐにその手を振りほどこうと腕を動かすが、きつく握り絞められたその手は振りほどけなかった。何という馬鹿力だろうか。


「離してください。こんな、こんな役に立たない目なんかいらないっ」


 私が叫ぶのと、祝詞が終わったのは同時だった。この場の全員の視線が自分に集まったのを感じた。けれど、やはり視界は戻らない。


 微妙な沈黙の後、その空気を払うように誰かが咳払いをした。そして、何事もなかったかのように儀式が続けられる。


「これより、修繕師、瀬木慧泉殿の御出立である。道中の安全と任務の完遂を願って、一同、祈りを」


 ぐっと頭に力を加わる。隣にいた人物によって頭を下げるよう押されたのだ。私はその手を逃れ、すぐに主がいるだろう辺りへと視線を戻す。隣から、小さくため息が聞こえた。


 ――慧泉様。


 一瞬でもいい。もう一度、主の姿が見たかった。

 そうして必死に目を凝らしていると、やがてぼんやりとその輪郭が捉えられるようになった。心に内にわずかな喜びが生じる。


 さらにじっと見ていると、主とじいがこちらを振り向いたのがわかった。一度深くお辞儀をして、再び香稜ノ戸のほうへと向き直る。一瞬動きが遅れたほうが主だろう。主は私を気にかけてくれたのだろうか。そうだったらいいと思う。


 そして主たちは歩き出した。躊躇いのない足取りで奥へ奥へと進んでいく。やがてその姿は闇の中へ消えて行った。


 あとに残ったのは岩場にぽっかりと空いた入り口だけだ。それもまもなく、神祇官たちの手によって閉じられようとしていた。


「慧泉様!!!!!」


 私は叫んだ。今になって焦りが生じる。

 主は行ってしまった。この扉が閉じられてしまえばもう、修繕が失敗するか再び揺岩が傷つくまで、二度と開かれることはない。主が戻ってくることはおろか、私が追いかけていくことさえできなくなるのだ。


 私はとっさに駆け出した。せばまっていく入り口に向けて必死に走る。

 けれど、あとちょっとというところで突然、ぐっと体が引き戻された。自分より大きい体格の誰かが、背後から抱きかかえるようにしっかりと私を拘束している。


「離して! 行かせてくれ! あぁ、慧泉様、慧泉様、慧泉様!!!」


 神祇官たちの扉を閉じる手は止まらない。そして、あっという間に人の通れる隙間はなくなり、ガシャンと大きな音とともに向こう側が見えなくなった。

 無情にも隙間なく閉じられた戸。目の前が真っ暗になった。


「どうして」


 どうして、置いて行かれるのですか、慧泉様。それほどにまで私をうとましくお思いだったのですか。


 その答えは永遠に失われた。閉じられた戸の向こうに行ってしまった主は、もう二度と戻らない。


 いや、それならばいっそ、あの世まで追いかけて行って聞いてみようか。

 それとも内乱を起こすほうがいいだろうか。そうして国が荒れれば、また香稜ノ戸は開かれる。そうすれば主を追いかけることもできるだろう。


 ――そうだ。それが、いい。


 私の心は、そんな仄暗ほのぐらい願望で塗りつぶされた。

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